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【トピック】
ネパール国王、非常事態を宣言 首相・全閣僚も解任

 ネパールのギャネンドラ国王は1日、国内に非常事態を宣言するとともに、デウバ首相と全閣僚を解任した、と国営テレビで声明を発表した。4年前の王室殺害事件を生き延びて即位した同国王は、絶対王制志向が強く、02年に議会を解散してから事実上の直接統治をしてきた。内閣更迭は、議会の復活をめざす動きを封じる狙いとみられる。王制打倒をめざす「共産党毛沢東主義派(毛派)」の反発は必至とみられ、事態は混沌(こんとん)としてきた。

 内閣解任の理由として国王は「(デウバ政権は)4月までに総選挙を実施する任務を負っていたが失敗した」とした。国王による首相・全閣僚解任は02年10月以来2回目だが、「王室の権限において、新しい政府を発足させ、3年間で平和と民主主義を回復する」と語った。首相や閣僚の一部が軟禁状態に置かれた模様だ。
 当局が通信制限をかけたためか、国内では電話がかかりにくい。カトマンズ空港は国際便の着陸許可を出さず、逆戻りさせた。国連関係者によると、市内に治安部隊の姿が増えているが、混乱はみられないという。
 ネパールは91年議会制民主主義に移行したが、民主化を進めてきたビレンドラ国王や皇太子が01年6月王室銃乱射事件で死亡して頓挫した。後継のギャネンドラ国王は02年、与野党対立で国会が解散された後に首相と全閣僚を解任。その後も支配を強めるために首相の解任と任命を繰り返したが、政党も民主化を要求。昨年発足した同政権には、国王に批判的な統一共産党なども連立参加させた。
 しかし、同政権は最近、世論に押される形で議会の復活や国王の権限強化への反発を強め、総選挙を強行実施させる構えもみせていた。地方を中心に国土の6割を制圧した毛派も動きを活発にしているといわれ、王室批判派の粛清に出たとの見方が有力だ。これに反発する政党や支持者らが抗議行動を強めれば、治安部隊との衝突もあり得る。毛派が攻勢を強め、地方で戦闘が激しくなる可能性もある。
 政治情勢は、王室の権力を保ちたい国王、選挙を通じて議会に権力を取り戻したい政党、王制を倒したい毛派の三すくみの状態が続いている。事態の正常化には総選挙と議会機能を復活させるしかないが、毛派との停戦交渉が先決になる。毛派は国軍の統帥権を持つ国王と直接交渉を求めているが、王室と毛派の共存は可能性が低いとみられている。
 毛派と国軍・警察との対立や衝突で、すでに市民を含む約1万1000人が犠牲になった。政情不安で観光業は落ち込み、経済にも影響が出始めている。
---asahi.com

ネパール内政 ---外務省
 90年民主化を実現。治安問題(マオイストの活動に対する治安維持)と不安定な政局が最大の課題。与党コングレス党内の確執が原因で、2002年5月に下院が解散された後、10月4日、ギャネンドラ国王がデウバ首相を解任した後、チャンド首相、その後にはタパ首相を任命し、マオイストと交渉を行ったが、昨年8月27日、マオイストは停戦及び和平交渉を中止する旨発表し、武装闘争を再開した。本年5月、タパ首相は主要各党による国王、政府への抗議運動のため辞任し、6月2日、国王はデウバ・コングレス民主党党首を改めて首相に任命。デウバ首相は各政党に内閣への参加を呼びかけつつ、7月5日閣僚31名を任命し、新内閣組閣を行った。

チベットは見捨てられるのか 2003年7月1日 田中 宇
 チベット難民がネパールへ逃げ出すのを阻止したい中国と、チベット難民を中国牽制の道具として使いたいインドという、相反する思惑の2大国にはさまれているネパール政府は「ネパールに逃げてきたチベット難民は、密入国してきたばかりの国境近くで捕まえた場合は中国に強制送還するが、国境を抜けて首都カトマンズ近くまでたどり着けた難民は、捕まえてもUNHCRに引き渡す」というバランス政策をとってきた。UNHCRは、ネパール当局から引き渡されたチベット難民をインドに行かせていた。
 ところがこの不文律は、さる5月31日に崩れた。ネパール当局はこの日、拘留中だった18人の難民を中国国境まで送還し、中国側に引き渡した

 ネパール政府は、このときのチベット難民の中国送還について「例外的な措置だ」と表明したが、ネパールがチベット難民を中国に送還する傾向を強めたのは、最近突然始まったことではなく、2001年後半からのことである。
 しかも、ネパール政府がチベット難民問題で中国寄りの立場を強めていることに対し、インドは何も制裁的な措置を発していない。インドは、ネパールが中国寄りの政策をとることを黙認している。またアメリカは、インド在住のチベット難民たちに対し、UNHCRを通じて合計毎年20万ドルを拠出するなど、中国封じ込めの立場から、チベット難民の支援に積極的だった。
 6月末には、中国側からネパールに越境してきたところでネパール当局に捕まったチベット難民19人が、中国側ではなくUNHCR(アメリカ・インド側)に引き渡された。5月30日には中国寄りになったネパール政府は、6月30日には中国から距離を置くように再び態度を変えた可能性がある。
 ネパールがバランス外交を採らざる得ないことを考えると、この揺れは、ネパール政府の政策の変化というより、アメリカの政権中枢で、中国に対してどのような態度をとるか、チベット問題をどう扱うかという点に関して、揺れや内紛があることから起きていると思われる。

ネパール皇太子が結婚を反対され、国王同族を殺害 2001/06/02
 ネパール王室での殺害事件は皇太子の結婚問題が起因となっているようだが、王族だけの閉ざされた中での事件であること、皇太子が自動小銃を乱射したとしても一瞬にして十数名も殺害することは可能なのか、などの疑問もあるようだ。凶器となった自動小銃の種類は分からないが、速射で十数名を殺害するには一つの弾倉では足らず、空になった弾倉の脱着および予備弾倉の装着という一連の動作が必要だろう。これまで伝えられたように、皇太子が別室で軍服に着替え、自動小銃を手にしたとすれば、事前の周到な準備が用意されていたことになる。どうも、これら計画的犯行が皇太子単独で考えられるようには思えないのだ。また、最初の報道では凶器は自動小銃となっていたが、後に二丁の銃と報道されている。これは自動小銃二丁を抱えることは重装備となって不自然であり、所持しやすさから二丁の拳銃ということになろう。もしくは自動小銃と拳銃という組み合わせだったのかも知れない。集会の殆どの王族が殺害された今、その真相の全貌が明らかにされることはないだろうと思われる。
 皇太子自身自殺を図って危篤状態になっている今、ネパールの慣例からか王位継承はそのまま重体の皇太子に引き継がれたが、当然のことながら摂政となった国王の弟ギャネンドラ王子(54)が事実上の新国王に抜擢されることを意味する。ところで犯行現場は王族たちが集まったカトマンズの王宮なのだが、そこにギャネンドラ王子も招待されていたのだろうか?犯行は1日夜に起こったとして、報道では「ギャネンドラ王子は2日、滞在先のネパール中部の町ポカラから軍用ヘリで急きょカトマンズに戻った」とされている。ということは、ギャネンドラ王子犯行当時カトマンズの王宮に居合わせずポカラの町に滞在中だったことになる。皇太子の結婚問題という大事に殆どの王族が集まっていた中に、より近しい国王の弟ギャネンドラ王子が列席しなかったという事実は何かしら偶然では済まないものを感じる。ネパールの今後は、最近支持率が高まっているネパール毛沢東主義ゲリラの動向が大きな影響力を持つことになるかも知れない。

ネパール王族殺害事件 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より
かねてよりディベンドラ皇太子は結婚(希望)相手について王族ほぼ全員に反対されていたことから,毎週定例の王族パーティ(この事件によって初めてその存在が一般になったという)に出席した際に銃を乱射。父・ビレンドラ国王(当時)を初め王族がほぼ皆殺しになり,皇太子自身も直後に銃で自殺している。
これによりたまたま地方視察のため欠席していて生き残ったた王弟(ビレンドラの弟)ギャネンドラが王位につくことになった。
この事件はあまりにも突発的な上,公式発表および政府のその後の対応においていくつかの不可解な点がある。

-王族が全員集合していたのにギャネンドラだけが欠席していたこと
-出席していた王族の中でもギャネンドラの息子(現皇太子)が無傷だったこと
-その家族も妻が足を負傷したのみで,全員死を免れている。
-周囲を警護していた国軍(入室は許可されていなかったという)が物音に気づかなかったという点
-ディベンドラの不自然な自殺の仕方
銃による自殺であるが,弾丸が後部から入っており実行しようとすると無理な体勢をとらなければならない。
-死亡した王族の葬儀が性急かつ非公開で行われた点
通常,王族や国家元首が死亡すると外交的にも国内的にも大々的な式典がおこなわれる(昭和天皇の大喪の礼など)のが通例だが,本事件後はそういった儀礼が一切なく,また国民にも非公開のうちに事件後数日で行われた。

これにより,民主的国王として国民に慕われたビレンドラ,皇太子ディベンドラほかほぼ全ての王族が死去。唯一生存したギャネンドラが王位についた。ギャネンドラは非常大権をもって議会を停止し内閣を親しい人間でかためるなど専制的な政策をとっており,国内からも反発が強い。
ネパールは1990年の憲法改正により民主主義を大幅に認めている。しかし一方で,国王の君主大権が非常に強く残されており(例えば大抵の政府機関の頭には「彼の大権の〜」とついている),また国軍は議会や内閣ではなく国王に直属する(大日本帝国と似ている)。
またこの事件の影響で現皇太子以外に王位継承権を持つ人物がいなくなってしまい(現国王を除く),日本の皇室とは全く違った意味で将来的な後継者不足が懸念されている。

2001年ネパール異変の真相--行政調査新聞
 殺されたネパールの元国王ビレンドラは民主化政策に積極的だったが、新国王になったギャネンドラは専制君主制度の復権を望んでいる。またギャネンドラは政府による一部過激派の取り締まりに批判的で、警察どころか軍隊まで投入することを主張していた。それでいて彼はまた、毛沢東主義派に資金援助も行っていた
 これは矛盾するように思えるが、じつはそうではない。インドを初めとする都市型市場経済を認め一部特権勢力だけが利益を得るような主義思想を排除したいという主張なのだ。ネパールの毛沢東主義者は多数の貧困層の心情を理解するいっぽうで王政には反対しているわけではない。専制君主制度は貧困層には希望でもあるのだ。

国王写真館ロイヤル・ファミリー(ネパール)

★2004/12/17
ネパールで軍部隊を反政府ゲリラが襲撃、50人死亡 
★2001/11/26
毛沢東派ゲリラ2百人死亡 ネパールで銃撃戦
★2000/09/25
ネパールで警官14人を射殺 毛派ゲリラが大規模襲撃



Gyanendra国王
テレビで閣僚解任を発表する国王


【私的めもらんだむ】
 国王のテレビ出演映像をクリックすると、背景に六芒星が確認できる。イスラエルのダビデの星を連想した。

10時
 四年前のネパール王族殺害事件は私も鮮明に覚えている。結婚が思うようにならず錯乱したディベンドラ皇太子の凶行との報に、その後、謎が謎を呼ぶ実に不自然な事件の全容が明らかになるにつれ、国王の弟であるところのギャネンドラ関与を確信したものだ。これだけの謎を解明せぬまま、または現国王ギャネンドラの何ら弁明もないまま、現在に至ってなお事件が封印されていること自体異常であろう。

 仕事は昨日仕上げ、今日一日暇が出来た。しかし洗濯物も溜まっているし、やることは多い。明日の納期にはまた仕事が入る。猫の排泄物処理もしなければならぬ。まずは柔軟体操しないと寒さで血液循環が鈍く体も動かない。貧乏暇なし、カネなし、生きる気力だけはなくさないようしなければ・・・渇。

【視聴予定】

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