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【トピック】
レノン殺害「どうにも止まらなかった」=犯人が動機詳述

  【ニューヨーク15日】1980年にニューヨークで起きた元ビートルズ、ジョン・レノン(写真)の射殺事件から12月8日でちょうど25年。殺害犯のマーク・チャップマン受刑者(50)は、NBCテレビが近日放映するドキュメンタリー番組の中で、「レノン殺害は自分の人格を見出す上で、止めることのできないミッションだった」などと、犯行の動機を生々しく語っている。

 チャッマン受刑者は25年前、ニューヨーク・マンハッタンのダコタ・ビル前で、銃の引き金を5回引いてレノンを撃ち、絶命させた。

 番組の中でチャップマン受刑者は、「射殺は完全に強制されたものだった。わたしは自分を救うためにはこれしかないのだと確信した。そう、100%の確信だった」と話した。

 「わたしはまるで列車のようだった。停車することのない暴走列車のようだった。何があってもわたしを止めることはできかっただろう」とも振り返った。

 さらに、チャップマン受刑者は犯行に及んだ心の動きを詳しく説明した。「いわば、世界を鎖につなぐことに成功した連中がいた。でも、わたしはその鎖にはつながっていなかった。わたしは人格を持たない人間だった。すると、わたしの内部で何かが破れた。わたしのアイデンティティーはジョン・レノンを殺害することで発見されると考えたんだ」

 「そう、これが彼なんだ。信じがたい感情だった。頭の中で声が聞こえた。声は『やれ、やれ、やれ』と繰り返した。だから、レノンが通り過ぎたとき、わたしは銃を取り出し、背中を狙って続けざまに5回ぶっ放した」

 チャップマン受刑者は現場で逮捕され、終身刑判決を受けて服役中。これまでに3度、仮釈放を申請しているが、「犯行の動機は凶悪で、仮釈放は法の尊厳を踏みにじるものだ」という理由でいずれも却下されている。

 レノンの妻オノ・ヨーコさんは、チャップマン受刑者は今も一家にとって危険な人物であると心配し、仮釈放を認めないよう当局に働きかけている。〔AFP=時事〕


レノン射殺犯に復讐「仮釈放なら処刑」---2004/09/28の日誌より

 ネット上に多数存在するファンのホームページでは、「チャップマンは処刑されるべき」といった釈放を厳しく非難するメッセージが無数に掲載され、「出所後、彼はそう長く生きられない。死を望む人があまりに多い」という意見が大勢を占めている。その中には、「私は喜んで彼を排除しましょう」といった暗殺志願者が多数、名乗り出ているという。
 同服役囚は80年12月、ニューヨークのレノン宅前で待ち伏せし、「レノンさんですか」と顔に薄笑いを浮かべて話しかけた後、銃を数発発射。妻、オノ・ヨーコさん(71)の目前で射殺した。

同ページの【めもらんだむ】
 1980年12月8日、ジョン・レノンが射殺された日のことは私もおぼろげながら覚えている。真っ先に感じたのは『これは暗殺ではないか?』という漠然とした直感だった。レノンがアメリカに在住の間、FBIの厳重な監視下に置かれていたことは有名だ。射殺犯チャップマンが即座に海軍病院に連行されたことも腑に落ちない。そのチャップマンの仮釈放で、復讐を誓う暗殺志望者が続出していることは残念であり、憤りさえ感じる。レノンほど暴力を嫌ったミュージシャンはなかった。ファンとして故人の意志を尊重するならば、復讐なぞもってのほかであろう。彼の死を悼むなら、まずあの忌まわしい事件の背後関係を調べるべきなのだ。
 チャップマンはたびたびYMCAに出入りしていた。そのYMCAは諜報機関の隠れ蓑として、CIAも利用していた。表向きとは裏腹に、YMCAは戦闘的な反共組織としても知られている。元CIAフィリップ・エイジーは著書「CIA日記」において「エクアドル首都キリーのYMCAは諜報機関の連絡基地だった」と記している。そしてキトー自身そこで主事をしている。南米が国際的テロ・ネットワークの雛型になっているのではないか?とした昨日の日誌にも繋がっていく、かも知れない。同時に、CIAは「MKウルトラ」と呼ばれるマインド・コントロールを推進してきたことを考え合わせるとき、おのずとチャップマンの役割が浮き彫りになってくる。当時アメリカのメディアはチャップマンを「狂信的なファンの単独犯行」として扱っていたが、サリンジャー著「ライ麦畑でつかまえて」を肌身離さず持っていたチャップマンの言葉に注意を払うことはなかったようだ。彼は「なぜレノンを殺したのか?」との問いにこう答えたのだ「ライ麦畑でつかまえて、を読めば分かる」と・・・

▲フェントン・ブレスラー著「誰がジョンレノンを殺したか?」
---41頁
チャップマンはレノンを暗殺するまで、持続的にYMCAとかかわりを持った。1975年、20歳の時にはYMCAの仕事でベイルートに行っており、1978年には世界旅行をして各地のYMCAのホステルに宿泊している。1975年にはアーカンソー州にあるYMCAのベトナム難民キャンプで5ヶ月間働いているし、1969年から76年にかけて、ジョージア州にある彼のホームYMCAのサマー・キャンプで、まず常勤のキャンプリーダーとして、それから主事補として6年間働いていた。


Mark David Chapman


【私的めもらんだむ】
○朝、鏡で自分の顔を見た。伸び放題の髪の毛に無精髭、落ち窪んだ眼・・・何より顕著な鉛色の顔色。まるで死人の顔だ。これがここ数日激痛に眠れなかった男の顔だと・・・死を予感する。悪運強いコイズミ独裁の晴れがましさをそのままに、死んでたまるか口惜しさの悲運の自分が歯軋りしている。コンバットのテーマソングを我が再生行進曲に変えて、孤独な生活戦争への絶え間なき戦闘に赴くのだ。左足が駄目なら右足がある、左手が動かないならまだ右手がある。両手両足が駄目なら、蛇のように這い蹲れ。狙いはただ一点、人権を踏み躙って高みに君臨する権力の魔性だ。その魔性に憑依された権力者だ。

寒い・・・昨日ホットカーペットを注文した。一人用、洗濯可能なやつ、来るのが待ち遠しい。早く来ないと凍え死んじゃうよ〜。今日は今の仕事を仕上げる。それを終えてからゆっくりレノン殺害の謎解きでもしよう。その前にちょっぴりワインを口に含んで、まだ生きている実感を味わうんだ。ああオレはまだ生きている、お〜ぃ、オレは生きているぞぉ〜って、心の中で思いっきり叫ぶんだ。その前に、再生行進曲を口ずさみながら、まずは俺自身の孤独な戦場へ行進だ。11時15分現在、おーる二等兵第一線に出発進行。

○15時半、仕事を仕上げた。その間、材料を零し、水砥ぎした後の水滴で再度の上吹きをしたり、これ以上は望めないと自分なりの完成度でもって仕事を終えた。監督はそれこそ針の穴程度のミスをも許さない、顕微鏡のような眼力で検査するわけだが・・・それも単価に見合った許容範囲で検査してほしい、というのが偽らざる下請けの願望なのだ。生かさず殺さず、でも良いから、餓死しない程度の仕事だけはさせてほしいと・・・痛い左の肘を庇いながら思うのだ。足のほうは何とかガムテープで固定しているが、肘は悲鳴をあげるほど痛みを持続したままだ。肘にもガムテープを幾重にも貼ってあるのだが全く効かない。触ってみると破片のような感触、どうやら皿の部分が砕けているらしい。以前、転倒したときに砕けたもののようだ。仕方なしに右手を使ったが、これも限度があった。高所から転落したときの古傷が再発しそうなのだ。自分の体を騙し騙し、何とか仕上げることが出来たというわけ。やるだけのことはやった。

○この前、再度のハリケーンに見舞われた米国がテレビに映し出された。無残に破壊されたマイホームに頭を抱える人々・・・ホラ始まるぞ「私の神」絶叫シーン、と思った矢先にある白人男性が天を仰ぎ(このシーンも予想していた)「おぅ、まいごっと!」と叫び出した。おまえさん個人の神様かよ、みんなの神じゃないのか?このエゴイストめ、と思わず不謹慎な想いが頭をよぎった。壊れた家ならまた建て直せるが、あんたたちが容認しているところのイラク戦争はどうするの?壊されていく人間の命は建て直しようがないじゃないか。

○23時40分、肘の激痛に悲鳴をあげている。足のほうより、左手の肘の激痛が顕著だ。キーボードを打つのも困難になってきた。というわけで肘の痛みの沈静化を待って、あらためて日誌を書くことにしたい。あしからず・・・医者に診てもらうことも考えている。

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