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【トピック】
バリ島で連続爆発 2人死亡、負傷者多数

 インドネシア・バリ島で1日夜、2カ所で爆発があり、少なくとも2人が死亡し、多数が負傷した。地元ラジオが伝えた。テロの可能性があるため、警察が調べている。

 爆発があったのは、バリ島南部のジンバラン海岸とその近くのクタ地区の中心部。ジンバラン海岸は、シーフードのレストランなどが多く、観光客でにぎわう場所で、少なくとも3回の爆発があり、欧米人の観光客3人が負傷し、地元住民に運ばれたのが目撃されたという。

 ほぼ同時刻にクタ地区でも、爆発があったという。

 バリ島では02年10月、クタ地区の繁華街で爆弾テロがあり、200人以上が死亡している。(AP)


クタ(KUTA)繁華街、レストランでの爆発現場



○三年前の爆発(2002年10月14日)
バリ島で爆弾テロ、187人死亡 日本人も7人重軽傷

【私的めもらんだむ】
何処までも天に昇って行きそうなキュウイ、その生命力に驚き、かつ敬意すら抱く。
日曜の朝、雨上がりの屋根の上に登って、奇跡を発見した想い。

【お知らせ】メール配信企画-その1

 今まで「新じねん」のメールマガジンに登録された方へ
 このたびの2度に渡るパソコンのクラッシュのため既存のマガジン管理が不可能になりました。現在、新たなパソコンを使用しての運営にあたり、もっと機密性のある方法はないものかと模索してまいりました。その結果、ステガノグラファーを使用しての配信がもっとも適しているとの判断に至り、新たなメール配信を実行に移すことにしました。内容的にも充実、かつ機密保持に相応しい情報を提供していきたいと思っています。
 なお4ギガを越えるというDVDメディアを使っての配布も企画しており、十分満足のおけるものをと考えています。一応、数日中にはその環境が整う段階にあり、とりあえず配布希望者のみなさんにはステガノグラファーを使えるような環境を整えていただきたいと・・・面倒とは思いますが個人情報の漏洩という昨今の時節がらからも宜しくお願いします。以下、フリーのステガノグラファーのアップロードサイトです。
http://www.vector.co.jp/soft/dl/win95/art/se158183.html
 近々ステガノグラファーの実験コーナーを設けますので、そこで使い方など習得してください。これを使えば第三者がメールならびにファイルを盗み取ることは殆ど不可能になると思われます。

【視聴予定】
23時
40 NHKアーカイブス N特「私は日本のスパイだったベラスコ」芸術祭大賞受賞(82年)

【参考】
ベラスコの告白 以下、一部抜粋
第二次世界大戦中、超一流のスパイとして活躍したべラスコは、ユダヤ系スペイン人(スファラディム)で、スペインの「ファランヘ党」の設立者の1人であった。本名は、アンヘル・アルカサール・デ・ベラスコ。
大戦中、スペインは中立国だったので、連合国や枢軸国のスパイが情報収集のために暗躍していたが、ベラスコは「TO諜報機関」という対英米スパイ機関を創設。日本の在スペイン公使の須磨弥吉郎に、英米情報を提供していたのである。組織の資金は日本公使館から送られていた。
「TO諜報機関」の組織網はスペイン国内、南北アメリカをカバーしていた。米国の三沿岸の大都市ニューヨーク、ワシントン、ニューオリンズ、サンフランシスコ、ロサンゼルス、サンディエゴには、機関員合計6人の情報員を配して、マドリードの本部が直轄管理、その6人の周辺にさらに数人、ときには十数人の端末部員を配したという
ベラスコは完全な職業スパイで、ドイツの諜報機関のためにも働き、ヒトラーから厚い信頼を得ていた。そういうこともあって、ベラスコはナチスの秘密や第二次世界大戦の真相(舞台裏)、そして世界権力の実態について知り尽くしていたと言われている。

ベラスコは1945年4月までドイツにいたが、ベルリンにソ連軍が侵入する直前にミュンヘンに脱出、リヒテンシュタイン経由でスイスに逃げた。広島、長崎への原爆投下と日本の敗戦はスイスで知ったという。
戦後になってスペインに舞い戻ったベラスコは、「スペイン陸軍省情報部」の特別顧問に迎えられ、優遇されている。ドイツ側のベラスコに対する対応も同様で、元ナチスの大幹部たちはベラスコに南米逃亡の手助けを委ねている。(ベラスコは1992年にスペインで亡くなっている)。

ヒトラーは生きていた

敗戦間近のドイツは、惨憺たる状態にあった。ナチスの兵器のほんどは破壊され、前線の部隊は次々に敗退していった。そして米・英・仏・ソの連合軍は、八方からベルリンに向かって、続々と進撃を開始していた。私は、SSの情報部員として、海外のエージェントから集まってくる報告をチェックする仕事についていた。そんなある日、SSの総司令部の中にいた私を、直属の上司、ジミー・オベルベイル司令官が呼んだのである。
「これからヒトラー総統のいる『フューラー・バンカー(地下官邸)』にいかなければならない。君も一緒にきたまえ。」
ヒトラーと背丈も顔つきも寸分たがわない男が、SS士官に連れられてヒトラーの個室に入っていった。ヒトラーの生き写しと呼ばれてよく知られた男だった。1945年4月21日、エバ・ブラウンが地下官邸にきて1週間と経たないその日に地下官邸の主は去った。
この後、このヒトラーにそっくりな男(ヒトラーのダブル)は毒薬を飲まされ、ピストルで射殺されたという。結局、ヒトラーは自殺などせず、ボルマンによって強制的に麻酔薬を飲まされ、自分の意思に反して、ベルリンを離れることになったという。



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