第二次世界大戦中、超一流のスパイとして活躍したべラスコは、ユダヤ系スペイン人(スファラディム)で、スペインの「ファランヘ党」の設立者の1人であった。本名は、アンヘル・アルカサール・デ・ベラスコ。
大戦中、スペインは中立国だったので、連合国や枢軸国のスパイが情報収集のために暗躍していたが、ベラスコは「TO諜報機関」という対英米スパイ機関を創設。日本の在スペイン公使の須磨弥吉郎に、英米情報を提供していたのである。組織の資金は日本公使館から送られていた。
「TO諜報機関」の組織網はスペイン国内、南北アメリカをカバーしていた。米国の三沿岸の大都市ニューヨーク、ワシントン、ニューオリンズ、サンフランシスコ、ロサンゼルス、サンディエゴには、機関員合計6人の情報員を配して、マドリードの本部が直轄管理、その6人の周辺にさらに数人、ときには十数人の端末部員を配したという
ベラスコは完全な職業スパイで、ドイツの諜報機関のためにも働き、ヒトラーから厚い信頼を得ていた。そういうこともあって、ベラスコはナチスの秘密や第二次世界大戦の真相(舞台裏)、そして世界権力の実態について知り尽くしていたと言われている。
ベラスコは1945年4月までドイツにいたが、ベルリンにソ連軍が侵入する直前にミュンヘンに脱出、リヒテンシュタイン経由でスイスに逃げた。広島、長崎への原爆投下と日本の敗戦はスイスで知ったという。
戦後になってスペインに舞い戻ったベラスコは、「スペイン陸軍省情報部」の特別顧問に迎えられ、優遇されている。ドイツ側のベラスコに対する対応も同様で、元ナチスの大幹部たちはベラスコに南米逃亡の手助けを委ねている。(ベラスコは1992年にスペインで亡くなっている)。
ヒトラーは生きていた
敗戦間近のドイツは、惨憺たる状態にあった。ナチスの兵器のほんどは破壊され、前線の部隊は次々に敗退していった。そして米・英・仏・ソの連合軍は、八方からベルリンに向かって、続々と進撃を開始していた。私は、SSの情報部員として、海外のエージェントから集まってくる報告をチェックする仕事についていた。そんなある日、SSの総司令部の中にいた私を、直属の上司、ジミー・オベルベイル司令官が呼んだのである。
「これからヒトラー総統のいる『フューラー・バンカー(地下官邸)』にいかなければならない。君も一緒にきたまえ。」
ヒトラーと背丈も顔つきも寸分たがわない男が、SS士官に連れられてヒトラーの個室に入っていった。ヒトラーの生き写しと呼ばれてよく知られた男だった。1945年4月21日、エバ・ブラウンが地下官邸にきて1週間と経たないその日に地下官邸の主は去った。
この後、このヒトラーにそっくりな男(ヒトラーのダブル)は毒薬を飲まされ、ピストルで射殺されたという。結局、ヒトラーは自殺などせず、ボルマンによって強制的に麻酔薬を飲まされ、自分の意思に反して、ベルリンを離れることになったという。
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