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白昼の大虐殺、光州事件の真相
そのとき市庁舎の上で米軍が眺めていた
 韓国全土に戒厳令が敷かれていました。5月15日には全土で16万人の学生デモが繰り広げられ、18日には全南大学の学生たちが光州で静かなデモ行進をしていたのです。19日にはそれが一挙に1万5000人に膨れあがった。デモ隊は戒厳令を解除せよと要求していた。そこへ米軍のグリーン・ベレーが鍛えた韓国軍の特殊部隊「特戦隊」が襲いかかったのです。彼らは光州の町全体を道路封鎖で孤立させ、報道を一切遮断するといった極めて計画的な襲撃を行ったのです。女性は乳房をえぐられ刺し殺されました。胎児まで殺された。学生が木に吊るされ、子供は頭を踏み潰されて殺されました。光州市民70万人の殆どが動き出し、そして白昼堂々2000人が殺されたのです。韓国軍が韓国の国民を殺したんだ。全斗煥は最後に2万の大軍を動員すると、27日未明3時に空軍の戦闘機と戦車で襲いかかった。光州市民はそこに米軍がいたことを見ていた。彼らは市庁舎の上から眺めていた。それを承認したのが国連軍司令官ウィッカムだった。彼はベトナム戦争で指揮官をしていた。米軍のヘリが飛び、米軍のトラックが光州市民の死体を運搬した。光州事件を誰が動かしたかは明白だ。
---弘瀬隆著「脅迫者の手」44-46頁より抜粋
【トピック】
★金炯旭、パリで殺されなかった

金炯旭(キム・ヒョンウク、当時54歳)元中央情報部長の「1979年パリ被殺説」を覆す米国務省の文書が発見された、とニューヨーク韓国日報が19日付で報じた。

1980年2月29日、米国務省が在韓米大使館に送った「週間動向報告書・韓国版(Weekly Status Report-Korea)」には「金(炯旭)は韓国人男性1人と一緒に(1979年)10月9日パリを発って、スイスのチューリッヒを経由し、サウジアラビアのタランに行ったのが確かめられた。しかし、その後の行方がはっきりしない」という内容が書かれている、と同紙は伝えた。
国務省の報告書内容は「中央情報部の特殊工作員が金炯旭を拉致して、パリ郊外の養鶏場粉砕機を使って殺害した」という最近の国内一部マスコミの報道や、「1979年10月20日頃、朴正煕(パク・ジョンヒ)当時大統領が送った刺客によってパリ廃車場で殺された」という噂とは、全く違う内容となっている。

【金炯旭失踪関連】
金炯旭・元KCIA部長、パリ養鶏場の粉砕機で殺害した
 これでサウジ説、養鶏所説、廃車場説という3つの説が出揃ったわけだが、キーポイントは死体処理であろう。これまで何処からも金炯旭の遺体が見つからない点で、養鶏所の粉砕機で殺された可能性のほうが強い。
【私的めもらんだむ】
 28日に図解の参考にした趙甲済著の「韓国を震撼させた11日間」と、弘瀬隆著「脅迫者の手」には、光州事件での互いに正反対の見解が書かれてある。韓国では著名らしい趙甲済氏は光州市民のデモを暴徒としているが、犠牲者の殆どが市民と学生側に多いことを考え合わせても矛盾する。市民のデモを暴徒と仮定しても、軍隊が死人が出るほど鎮圧しなければならない理由はどこにもない。ただ趙甲済氏の本はことの経過を詳細に記述してあるので、事実認識さえ踏まえれば参考ぐらいにはなる。御用作家の類いであろうか。

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