自分を冷遇した朴大統領に復讐を誓っていた金炯旭(キム・ヒョンウク)は、朴正熙(パク・チョンヒ)政権の暗部については誰よりも多くの情報を持っていた。金載圭(キム・ジェギュ)はアメリカに亡命中の金炯旭に帰国を勧める私信を送ったが、金炯旭は頑としてそれを拒んだ。1979年9月、金炯旭の回顧録執筆に自分を含めた朴政権失脚の危険を感じた金載圭は、仲介者Kを使って回顧録出版停止と引き換えの150万ドルを提示している。同年10月1日、金炯旭はアメリカを発ちフランスのパリに向かう。当初彼は豪華なホテル・リッチに宿泊したが、7日にはシャンゼリゼ通りの三流のウエストエンド・ホテルに移った。同日午前10時半頃、ホテルの女子従業員は外出したばかりの金炯旭と東洋人が一緒にいるところを目撃、「どうして早く帰ってきたのですか?」と英語で訊き、東洋人が「重要な書類を取りに来た」と英語で答えた、と証言している。10月12日、ホテル側は4日間もホテルに宿泊していないのを訝しがり警察に通報、16日にはその家族がパリに到着する。そこで家族は金炯旭の所持品の中からレインコートと書類カバンがなくなっていることを発見する。
---趙甲済著「韓国を震撼させた11日間」64-70頁より部分抜粋
カーターは6月になって韓国を訪れたが、朴大統領との会談でとんでもない要求を突き付けられる。朴大統領が「わが国の軍隊は、アメリカの求めに応じてベトナムに大軍を派遣した。しかしまだ、韓国は何一つ褒美をもらってない」と噛みついたのだ。その後、カーターが「奴を殺せ」と怒鳴ったことを側近に聞かれている。会談から4ヶ月後の10月26日、KCIA部長の金載圭が朴大統領を射殺した。ところがこの暗殺事件が軍法会議にかけられると、金載圭は自分の後楯になってくれるはずのCIAが何もしてくれないことで騙されたことに気付く。軍法会議はまず金載圭を単独犯として有罪にし、現場検証は証拠隠しのために12日後に設定された。この暗殺事件では同時に別の事件も進行していた。朴大統領が射殺されたのは室内だったが、そのとき同席していた4人は、部屋の外にいた何者かによって射殺されていたのだ。すべては米軍とCIAが仕組んだことだった。しかも韓国の内部に、裏切り者、売国奴がいるのだ。
---弘瀬隆著「脅迫者の手」40-43頁より部分抜粋
|