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【トピック】
<ローマ法王>死去、84歳 激動の国際政治に深く関与

 【ローマ海保真人】全世界10億7000万人以上のカトリック教会信者の頂点に立つローマ法王ヨハネ・パウロ2世(本名カロル・ボイチワ)が2日午後9時37分(日本時間3日午前4時37分)、ローマ法王庁(バチカン)で死去した。84歳だった。後任の新法王は「コンクラーベ」と呼ばれる、枢機卿会の選挙で選出される。
 法王は2月1日、インフルエンザによる急性喉頭(こうとう)炎で入院後、体調が悪化し、入退院を繰り返していた。法王庁によると、法王は今月1日、心臓機能が大幅に低下、「極めて深刻」な状態に陥り、臨終間際のカトリック信者のための秘跡の儀式を受けていた。
 ポーランド人のヨハネ・パウロ2世は78年10月、急逝したヨハネ・パウロ1世の後を継いで264代の法王に就任。イタリア人以外では456年ぶり、スラブ系では初の法王となった。1980年代には共産主義体制下の祖国における反体制自主管理労組「連帯」運動を支持し、旧ソ連・東欧圏崩壊につながる国際政治の激動に深くかかわった。キリスト生誕2000年を祝う「大聖年」を主宰し、分裂したキリスト教会の和解や異宗教との対話に力を入れていた。
 法王は81年5月には、バチカンのサンピエトロ広場でトルコ人の男に狙撃され、重傷を負ったが、4日後に病床で「犯人(の罪)を許す」との声明を発表した。
 在位年数がはっきりしない初代ペテロを除けば歴代2位となる26年間余の在位中、精力的に世界中を旅し、日本(81年)を含む130以上の国・地域を訪問、史上例のない「行動する法王」像を打ち立てた。
(毎日新聞) - 4月3日

ヨハネ・パウロ2世 (ローマ教皇)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ヨハネ・パウロ2世(Johannes-Paulus II、1920年5月18日 - 2005年4月2日)はローマ教皇(在位1978年10月16日 - 2005年4月2日)であるポーランド人のカトリック教会司祭。本名カロル・ユゼフ・ヴォイティワ (Karol Jozef Wojty?a)。ハドリアヌス6世(オランダ出身、在位1522年-23年)以来455年ぶりの非イタリア人教皇にして史上最初のスラブ系教皇となった。神秘神学と哲学の二つの博士号をもっている。

カロル・ヴォイティワは1920年、南ポーランドのワドビッツェに生まれた。父はハプスブルク家の軍隊に仕えたこともある退役将校であった。若き日のヴォイティワは戦前のクラクフでユダヤ人社会と親しみ、戦時中はナチスによる支配を体験した。鉱山や工場で働きながら、スポーツ選手、演劇役者、脚本家として活躍した。聖職者になることを志して神学校に入学し、1946年11月1日司祭に叙階された。クラクフのヤギェウォ大学、ルブリンのカトリック大学で倫理神学を教えたのち、1958年にクラクフの司教に任ぜられた。
1963年にクラクフ司教の位階が大司教に昇格し、ヴォイティワは大司教として第2ヴァティカン公会議に参加。特に重要な2つの公会議文書『信教の自由に関する宣言 (Dignitatis Humanae)』および『現代世界憲章 (Gaudium et spes)』の起草に貢献した。
1967年にはパウロ6世によって枢機卿に列せられた。1978年、パウロ6世の死去にともなって新教皇に選出されたのは当時65歳と教皇としては若い部類に入るアルビノ・ルチアーニ(ヨハネ・パウロ1世)であった。このコンクラーヴェに参加したヴォイティワは、次のコンクラーヴェに参加する事はないだろうと思っていた。ところが、ヨハネ・パウロ1世が在位わずか33日で死去すると、1978年10月に生涯二度目のコンクラーヴェに臨んだ58歳のヴォイティワが新教皇に選出された。
ポーランド人として初となる、ローマ教皇の誕生は、彼の故郷ポーランドにおいてナショナリズムの高揚とソビエト連邦への反抗心を一層大きくすることになった。このことは1980年の独立自主管理労働組合「連帯」による国内改革への要求へとつながり、しいては1988年以降のポーランド民主化運動へとつながってゆくことになる。


1981/5/13
ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世がMehmet Ali Agcaに撃たれた瞬間

教皇空位と教皇選挙
教皇逝去と直後の予定についてナバロ報道官から、教皇ヨハネ・パウロ二世の逝去の様子と、逝去直後の日程についての発表がありました。

教皇ヨハネ・パウロ二世は現地時間2日午後9時37分(日本時間3日午前4時37分)、教皇庁の自室で死去されました。 2日午後8時(日本時間3日午前3時)から、教皇の自室で、神のいつくしみの主日(復活祭後最初の主日)のミサが行われました。ミサはスタニスラス・ドジヴィズ大司教が司式し、マリアン・ヤヴォルスキ枢機卿、スタニスラウ・リュルコ大司教およびミエチスラウ・モクルチキ氏がこのミサにともにあずかりました。 このミサで、教皇に対して「最後のかて」(臨終の聖体拝領)と病者の塗油の授与があらためて行われました。
教皇が最期の時を迎えられる間、教皇が安らかな死を迎えられるよう教皇を助けようとする、すべての人びとが絶え間のない祈りをささげ、また、サンピエトロ広場に何時間も前から集まっていた数千人の信者が声を合わせて祈りをささげました。

教皇の臨終に立ち会ったのは次の人びとです。
スタニスラウ・ドジヴィズ大司教とミエチスラウ・モクルチキ氏の、2名の教皇個人秘書。マリアン・ヤヴォルスキ枢機卿、スタニスラウ・リュルコ大司教、タデウス・スチツェン神父。長上のトビアナ・ソボツカ修道女の指導の下に、教皇の自室の世話を行ってきたイエズス聖心侍女会の3名の修道女。教皇の侍医のレナート・ブッツォネッティ博士と、教皇庁に待機していた2名の医師、アレッサンドロ・バレッリ博士とチロ・ダッロ博士。同じく教皇庁に待機した2名の看護師。 臨終直後に教皇庁国務省長官のアンジェロ・ソダーノ枢機卿、ローマ教会のカメルレンゴのエドゥアルド・マルティネス・ソマロ枢機卿、国務省長官代理のレオナルド・サンドリ大司教、ローマ教会のカメルレンゴ補佐のパオロ・サルディ大司教が到着しました。その後、主席枢機卿であるヨゼフ・ラッツィンガー枢機卿と、ジョゼフ・トムコ枢機卿も到着しました。

明日4月3日の神のいつくしみの主日には、午前10時30分(日本時間同日午後5時30分)にサンピエトロ広場で、教皇の永遠の安息を祈るためのミサが、アンジェロ・ソダーノ枢機卿の司式の下にささげられる予定です。
正午の12時(日本時間同日午後7時)に、復活節のマリアへの祈り(レジナ・チェリ)が行われる予定です。
教皇の亡骸がバチカン聖堂に移されるのは、4日月曜日の午後以降(日本時間同日午後7時以降)の予定です。 最初の枢機卿総会は4月4日(月)午前10時(日本時間同日午後5時)に、教皇宮殿のボローニャ・ホールで開催される予定です。
---カトリック中央協議会

【私的めもらんだむ】
 ヨハネ・パウロ2世の死去に伴って、これまで書いてきたバチカン関連をまとめてみたい。多分に抜け落ちることもあるだろうが、まずは資料の掘り起こしから・・・
●マフィアとバチカン銀行関連
2002年5月18日-19日-21日
●フィアットとバチカン銀行関連
2003年1月27日
ファイルが散在しているので、ちとシンドイ作業になりそうだ。


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