IAEAは「核兵器のブラックマーケット」の筋をたどっていき、パキスタンに行き着いた。パキスタンで「核兵器の父」と呼ばれているアブドラ・カディール・カーン博士が運営しているカーン研究所(Khan Research
Laboratories)が、使用済み核燃料から核爆弾の材料となる高濃縮ウランを取り出す遠心分離器を開発し、それを使って自国の核兵器を作っただけでなく、リビアやイラン、北朝鮮などに輸出もしていた疑惑が強まった。(関連記事)
カーン博士は、パキスタンが秘密裏に進めた核兵器開発計画の中心人物で、1970年代にオランダにあるウレンコ(Urenco)という遠心分離器を製造する蘭独英の合弁企業に勤めていた。彼はウレンコから技術を持ち出してほとんど同じ遠心分離器をパキスタンで製造し、自国の核兵器開発に使うとともに、ひそかに核兵器開発を進めたいと思っている他の国々にも分離器を売ったとみられている。
IAEAがリビアとイランの核開発施設を査察したところ、相次いでウレンコ型の遠心分離器が見つかり、調べを進めた結果、カーン博士の存在が浮かび上がったのだという。
▼殺された北朝鮮外交官の妻
北朝鮮の場合、カーン研究所から遠心分離器を買って稼働させているかどうか、今のところはっきりしていない。アメリカの諜報機関は「北朝鮮が遠心分離器を使って高濃縮ウランを抽出している」と分析しており、米政府はこの件も六カ国協議の議題に含めるよう求めている。半面、中国政府は「アメリカから、北朝鮮が遠心分離器を使った抽出を行っているとする主張の根拠を見せてもらったが、これだけでは北朝鮮が高濃縮ウランを抽出しているとは断定できない」と主張している。(関連記事)
とはいえ、北朝鮮がパキスタンから核兵器開発の技術を取得しようとしていたこと自体は多分間違いない。1998年6月、パキスタンの首都イスラマバードで、北朝鮮の外交官の妻が射殺される事件が起きたが、この事件から、核兵器をめぐる北朝鮮とパキスタンの関係の一端が明らかになっている。
射殺されたのは、兵器を扱う北朝鮮の国営商社「朝鮮蒼光信用社」のイスラマバード駐在代表をつとめていたカン・テユンの妻キム・サナエで、当初は殺害は誤射によるものとされたが、後になって、実はキム・サナエは欧米の諜報機関に対して北朝鮮の兵器開発の実態を漏らす代わりに欧米への亡命を試みたため、イスラマバードにいた他の北朝鮮人によって射殺されたのだ、という報道が出てきた。
(「サナエ」という名前は日本人の名前に感じられるのだが、彼女が「日本人妻」だったのか、サナエという名前が北朝鮮人の名前としてよくあるものなのか、私には分からない)
カンとキムの夫妻が住んでいた家は、カーン博士の家のすぐ近くで、両家はよく行き来していた。北朝鮮からはカン・キム夫妻のほかに、カーン研究所に通う核開発の技術者たちの集団がイスラマバードに住んでおり、彼らもカンとキムの家をしばしば訪れていた。キムを射殺したのは、北朝鮮当局の命令を受けた技術者集団のメンバーだったと報じられている。(関連記事)
▼北朝鮮が展開する兵器のバーター取引
核弾頭開発はパキスタンのカーン研究所が先行していたが、ミサイル技術は北朝鮮の方が先行していた。そのため、北朝鮮側がミサイル技術を提供する代わりにパキスタンは核弾頭の技術を提供する、という相互関係が以前からあったようだ。カンは1997年にはパキスタンのために、ミサイルの先端や胴体に使うマルエイジング鋼という特殊鋼を、ロシアの製鉄会社から買う算段をつけてやったことも分かっている。(関連記事)
1998年4月には、パキスタンは新型ミサイル「ガウリ」の試射実験に成功したが、ガウリは北朝鮮のミサイル「ノドン」とほぼ同じものだった(ノドンはロシアの「スカッド」を改良したもの)。そして、この試射実験の2カ月後にキム・サナエが殺されている。
その後も北朝鮮とパキスタンの兵器の関係は続き、2002年7月には、パキスタンの軍用機が北朝鮮に向かい、ミサイル部品を積んで戻ってきたことがアメリカのCIAによって確認されている。2003年3月には、北朝鮮は部品だけでなくミサイルそのものを解体し、パキスタンの軍用機に積んで運んだことが分かり、アメリカはパキスタンのカーン研究所と北朝鮮の蒼光信用社をアメリカとの取引停止処分にした(両社ともアメリカとの取引はなく、処分は政治的な非難の意味合いだけだった)。(関連記事)
北朝鮮はパキスタンだけでなく、他の国とも兵器の交換を行っていると思われる。1999年には中央アジアのカザフスタンが、北朝鮮にミグ戦闘機を数10機売ったことが判明したが、これも兵器交換の一つだった可能性がある。またイラクのフセイン政権も、北朝鮮からミサイル技術を買うことを検討していたことが分かっている。(関連記事)
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