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【トピック】
ホロコースト追及、ウィーゼンタール氏死去

 第2次大戦中、ユダヤ人大量虐殺(ホロコースト)に関与したナチス戦犯を追及し続け、「ナチスハンター」として知られるサイモン・ウィーゼンタールさんが20日、ウィーンの自宅で死去した。96歳だった。オーストリア通信などが伝えた。

 08年、現在のウクライナで生まれた。家族の多くを虐殺で失い、自らも約4年間、強制収容所で過ごした。戦後、米中央情報局(CIA)の前身組織などでナチス戦犯追及にかかわり、オーストリアにユダヤ人資料センターを設立。南米にいたナチス元幹部アイヒマンの逮捕に関与するなど、戦後のユダヤ人社会では英雄視された。

 同氏の名前にちなんだユダヤ系団体「サイモン・ウィーゼンタール・センター」(本部・米ロサンゼルス)が77年設立され、反ユダヤ活動を監視してきた。日本では95年、文芸春秋の月刊誌「マルコポーロ」がホロコーストはなかったとの記事を掲載。同センターからの抗議がきっかけで、同誌の廃刊と同社社長の辞任につながった。
1973年5月31日撮影
左の写真はナチのWalter Rauff

Simon Wiesenthal

1995年3月15日撮影

サイモン・ウィーゼンタール・センター
現在の所長
Efraim Zuroff博士
★サイモン・ヴィーゼンタール
---フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より
サイモン・ヴィーゼンタール(Simon Wiesenthal, 1908年12月31日 - )は、ナチスの戦犯追及でよく知られている。

ホロコースト
ヴィーゼンタールは現在ウクライナの一部であるオーストリア・ハンガリー帝国のガリチア地方、ブチャチで生まれた。第二次世界大戦前は建築家を志していたが、第二次世界大戦が始まるとナチス・ドイツのユダヤ人政策によって強制収容所に収監された。その後、ホロコーストによってヴィーゼンタールは夫人を始めとする家族を失ったが、自身は1945年5月のアメリカ軍による解放まで生き残った。

ナチ戦犯の追及
戦後、ヴィーゼンタールとウィーンに本拠を置くユダヤ人文書センターは、世界中に逃亡したナチスの戦犯の捕獲・追求に動き出し、1962年に逃亡先のアルゼンチンでモサドによって捕獲されたナチスの「最終解決策」の推進者、アドルフ・アイヒマンの捕獲・拉致に貢献した。ヴィーゼンタールは、さらにアンネ・フランクの逮捕に関わったゲシュタポの士官カール・ジルベルバウアーの発見を支援した。
また、ヴィーゼンタールは1970年代にオーストリアでブルーノ・クライスキーが内閣を組閣する際、数人の大臣が過去にナチ党員だったことを指摘した。クライスキーは彼自身ユダヤ人だったが、ヴィーゼンタールを Nestbeschmutzer(自分の巣を不潔にする人)として攻撃した。

[サイモン・ヴィーゼンタール・センター
ヴィーゼンタールは1977年、ウィーンにサイモン・ヴィーゼンタール・センターを設立した。これは、ナチスによるホロコーストの記憶を風化させないための、またナチス戦犯追及のための組織である。

引退
サイモン・ヴィーゼンタール2003年4月にヴィーゼンタールは引退を発表した。「私は生き残りの全てを発見した。もし残ったものがいれば、それらは年を取りすぎて今裁判を受けることは出来ないだろう。私の仕事は終わった。」ヴィーゼンタールによれば、まだ生きているただ一人のオーストリア人戦犯であるアイヒマンの片腕だったアロイス・ブルナーで、彼はシリアに隠れていると言われている。

叙勲
2004年2月にイギリス政府は「人間性のための一生の奉仕」に対してヴィーゼンタールにナイトの称号を与えることを決定した。

モデルになった小説
アイラ・レヴィンの小説『ブラジルからきた少年』のヤコブ・リーベルマンはヴィーゼンタールがモデルとなっている。また、フレデリック・フォーサイスの小説『オデッサ・ファイル』でもドイツ人ジャーナリストに情報を与える役で登場している。


アロイス・ブルナーとは何者なのか。
Alois Brunner


変態博士 Dr.デュランデュランの異常な愛情より


オデッサ (ODESSA)
『ウィキペディア(Wikipedia)』

サイモン・ウィゼンタール〜いかさま「ナチ・ハンター」〜
---以下一部抜粋
アイヒマン(Adolf Eichmann、 1906年3月19日-1962年6月1日)を捕らえたチームを率いていたイスラエル当局のイセル・ハレルは、ウィゼンタールは逮捕に関して「絶対的に無価値」だったと明言している。ハレルは、「ウィゼンタールが逮捕以前に提供した情報はまったく価値がなく、それどころか時には誤導さえするマイナスの価値のものだった」と語っている。ハレルは、イスラエルの国内および国外の保安機関、モサドとシンベトの双方のトップを歴任している。

 さらに、有力なシオニスト組織であるブナイブリスの反中傷同盟の総合顧問、アーノルド・フォスターは著書『旧弊な男』の中で、ウィゼンタールはイスラエル機関がアイヒマンを逮捕する直前に、かれの所在位置を日本にしたりサウジアラビアにしたりしていたと記している。

 ウィゼンタールが演じた最も見せ物的な事件の一つは、シカゴのフランク・ウォラスという男を巻き添えにした。1974年12月10日付けの手紙で彼は、ウォラスが戦争中にポーランドのチェンストホーバとキエルツェで、「ユダヤ人をゲシュタポに引き渡した」と告発した。この手紙に刺激された合衆国政府は、ウォラスに対する捜査と法的キャンペーンを矢継ぎ早に行った。ワシントン・ポスト紙は、この事件の顛末を1981年 5月に特集しているが、その題は「ナチ党員と間違えられた男/裁判官、報道機関、検察局の魔女狩りが、いかにして無実の市民を戦争犯罪人に仕立てたか」であった。


Adolf Eichmann

【私的めもらんだむ】
Does Mossad destroy the Kennedy family?
モサドはケネディ家を滅ぼすか?

JFK暗殺の原因は、彼が国際ユダヤグループの牛耳る連邦準備銀行(FED)を米政府の監督下に置こうとしたことにある・・・と、そしてその背後に実働部隊としてのモサドの存在。--追って詳細を書きたい。


モサド歴代長官
1951-52 ルーヴェン・シロー
1952-63 イッサー・ハレル 写真
1963-68 メイア・アミット
1968-74 ツヴィ・ザミル
1974-82 イツハク・ホフィ
1982-90 ナホム・アドモニ
1990-96 シャブタイ・シャヴィト Shabtai Shavit 写真
1996-98 ダニー・ヤトム Danny Yatom 写真
1998- エフライム・ハレヴィー Ephraim Halevyl 写真

---以下「ヘブライの館・第1国際問題研究室」より部分拝借
イスラエル秘密機関

★ 世界に名をはせる世界最強の対外諜報機関
モサドMOSSAD

★ 占領地に目を光らせる国内諜報機関
シン・ベト GSS
別名シャベク、イスラエルの国内駐在施設の防御業務。

★ イスラエル陸軍の情報部門
アマンAMAN
主な活動中心はアラブ諸国。

★ イスラエル空軍の情報部門
アフィAFI
通信情報の収集と航空偵察専門

★ イスラエル軍特殊部隊の中の特殊部隊
サエレト・マトカル

★ イスラエルの死の商人を操る
シバト

★ 極秘に核戦略を推進していた科学諜報機関
ラカム


イッサー・ハレル


シャブタイ・シャヴィト


ダニー・ヤトム


エフライム・ハレヴィー
【視聴予定】
19時
30 クローズアップ現代 暮らしを直撃・原油高の実態 ---NHK総合

NY市場の原油価格が1バレル70ドルを突破、連動して日本の石油の9割を占める中東産の原油も記録的な高騰を見せている。 国内では堰を切ったように、企業が製品の値上げに踏みだした。 大手食品メーカーの紀文は1割、総合化学メーカーの三菱化学は2割の大幅な価格転嫁を発表。原油高が私たちの家計にも影響を及ぼしそうだ。 こうした中、石油依存の体質を根本的に見直そうという「脱石油」の動きも加速している。植物性の廃食油から作ったバイオディーゼルでトラックを走らせようと言う運送会社、石油原料をほとんど使わないタイヤを開発した大手メーカーなど、原油高騰が日本経済の体質転換を迫っている。 原油高騰は私たちの暮らしに何をもたらすのか、苦悩する日本経済の最前線に迫る。
(NO.2137)
スタジオゲスト : 柴田 明夫さん
    (丸紅経済研究所・副所長)

21時
15 その時歴史が動いた 藤堂高虎の出世方程式足軽から大名になった武将に学ぶ実力社会の処世術 ---NHK総合

その時…慶長20(1615)年5月6日 
出来事…大坂夏の陣で藤堂高虎の軍勢が長宗我部軍を破り、家康勢を勝利に導く

 戦国時代、織田・豊臣・徳川のもとを渡り歩き、地侍から国持ち大名に上り詰めた藤堂高虎。なぜ高虎は“戦国の勝ち組”となったのか?自らの価値を上げるため10人の主君を変え、キャリアアップが必要となれば城作りを学び、築城の名手として地位を得ていく。しかし、秀吉の死後、家康の天下統一が進むなかで、これまでの生き方が通じなくなった高虎は、大坂夏の陣で命を賭した戦いに立ち上がった。戦国武将・藤堂高虎の「200ヶ条の家訓」をひもとき、その出世の方程式に迫る。


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