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【トピック】
東京大空襲 米軍は実験済みだった
いかに焼き尽くすか
砂漠に下町を再現

 一九四五年三月十日。二時間余りの爆撃で約十万人が亡くなった東京大空襲。米軍は、これに先立ち米国・ユタ州の砂漠に日本の木造家屋を建て、焼夷(しょうい)弾の燃焼実験をくりかえしていました。「東京大空襲・戦災資料センター」(早乙女勝元館長)に提供された英文資料の研究などから、実験の詳細が明らかになってきました。
 戦災資料センターの資料は、米国・アイオワ大学の日本研究者、デービッド・タッカー氏が米国国立公文書館などにあった資料を複写して、二〇〇三年八月、同センターに提供したものです。同センター顧問で建築家の三沢浩さんが翻訳、研究にあたりました。

細かいデータ
 米国は一九四一年から、スタンダード石油副社長を中心に新型焼夷弾の開発にあたっていました。四三年の二月から三月にかけ、ユタ州ソルトレークシティー南西の砂漠にダグウェイ試爆場をもうけ、日本とドイツの建物を建設。同年五月から九月にかけて繰り返し焼夷弾を投下して、落下軌道、発火範囲、燃え方、消火にかかる時間など細かいデータをとっています。
 効果を調べる綿密な実験をもとに、住宅密集地帯である東京下町を選んで、大空襲を実行しました。
 燃焼実験では、日本の木造長屋を正確に設計。二階建ての二戸三棟の建物を四列ならべ、全部で十二棟二十四戸を建てました。トタン屋根、瓦屋根の二種類をつくり、雨戸や物干し台をつけ、家の中には畳を敷き、ちゃぶ台や座布団などの家具、日用品もおきました。路地の幅も日本と同様にし、日本の下町の町並みを再現しました。建材も、できるだけ日本のヒノキに近いものが使われました。
 このような正確な設計が可能だったのは、戦前一九三七年まで十八年間、日本で設計士として働いたアントニン・レーモンドが、米国に戻ってから戦時局に依頼され、設計に協力したからでした。レーモンドは、フランク・ロイド・ライトの弟子として帝国ホテルの設計に携わり、戦前・戦後あわせて四十四年間、日本で多くの著名な建物を設計。「日本近代建築の父」といわれます。

効果的に敗北
 彼は、日本建築に愛情を持ち、「近代建築の基になるもの」と高く評価していました。にもかかわらず、自分が設計した物もふくめ、愛着ある建物を焼夷弾でいかに効果的に焼き尽くすかという実験に、間接的にせよ協力したことになります。『自伝』(一九七〇年出版)では「戦争を最も早く終結させる方法は、…日本を可能な限り早く、しかも効果的に敗北させること」だと考えたとのべています。
 建築家である三沢さんは、戦後、レーモンドの事務所に入った、弟子です。「東京大空襲へのレーモンドのかかわりを調べ、公表することは、師を告発する重いものです。しかし、歴史的事実は明らかにされなければならない。それまで日本の建築のために尽くしながら、なぜ、実験に協力したのか。矛盾ははかりしれない」と語ります。
 この実験は、米国の戦史家、E・バートレット・カーが著書でふれるなどしていますが、詳しい分析が今後期待されます。いったん戦争になったとき、科学者、学者、建築家、芸術家らが、どう行動するのか、行動せざるをえないのか。重い問いを突きつけています。

 アントニン・レーモンド(1888―1976年) チェコ生まれ。1919年に来日。東京女子大学、軽井沢聖パウロ教会などを設計。37年に米国に戻り、戦後、48年に再来日。群馬音楽センター、南山大学などが代表作。前川国男、吉村順三らを育て、日本の近代建築の基礎をつくったとされます。

2005年3月6日(日)「しんぶん赤旗」

東京大空襲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

東京大空襲(とうきょうだいくうしゅう)は、第二次世界大戦中アメリカ軍により行われた空襲のうち、1945年(昭和20年)3月10日と5月25日東京に対して行なわれたものを一般的に指す。

特に、3月10日未明のB-29爆撃機344機による爆撃は、40km2の円周上にナパーム製高性能焼夷弾を投下して東京の住民が逃げられないようにした後、東京市の隅田川沿岸地区を中心にその円の内側を塗りつぶすように約100万発(2,000トン)もの油脂焼夷弾、黄燐焼夷弾やエレクトロン焼夷弾が投下された。当夜は低気圧の通過に伴って強風がふいており、この風が以下の条件と重なり、大きな被害をもたらした

警戒用レーダーのアンテナを揺らしたため、確実に編隊を捕捉できず空襲警報の発令を極端に遅らせた
低空進入」と呼ばれる飛行法を初めて大規模実戦導入したことで、爆撃機編隊を通常よりも低空で侵入させ、そのまま投弾させたため、着弾範囲が以前より精密だった(逆に火災による強風で操縦が困難になり、焼夷弾を当初の予定地域ではない場所で投下した記録もある。そのため、火災範囲がさらに広がった箇所も)。
火勢を猛烈に煽り、延焼を助長した
近郊の飛行場に配備されていた戦闘機の発進を妨げたため、ただでさえ絶望的に少ない迎撃のチャンスを奪った(通常は戦闘機が到達できない高度から爆撃を行っていたが、この日は違った)
これら複数の要因が重なり被害が拡大。8万人以上が犠牲になり、焼失家屋は約27万戸に及び、東京の3分の1以上の面積(40平方キロメートル)が焼失した。

また、このとき使用された焼夷弾は日本家屋を標的にしたものであり、当時の平均的な構造とは違う作りをしていた。通常、航空爆弾は瞬発または0.02〜0.05秒の遅速信管を取り付けることで、爆発のエネルギーを破壊力の主軸にしている。しかしこれでは木材建築である日本家屋に対してはオーバーキルとなる。そこで爆発力ではなく、燃焼力を主体とした「焼夷弾が開発され、これが日本家屋の火災に対する衰弱性を直撃した。

火災から逃れるために、燃えないと思われていたコンクリート製の学校に避難した人もいたが、火災の規模が大きく、炎が竜巻や滝のように流れてきて焼死する人も多かった。川に逃げ込んだ人もいたが、水温が低く凍死する人も多数いた。

これ以降も、日本側の産業基盤を破壊し、また戦意をくじくため、全国各地で空襲が行なわれ、その結果多くの一般市民が犠牲となった。非戦闘員に対する大量虐殺(ジェノサイド)は、明らかな戦争犯罪であるが、極東国際軍事裁判がおもに戦勝国による裁判であったためその責任は問われず、また日本政府もサンフランシスコ平和条約により賠償請求権を放棄している。空襲による正確な犠牲数も不明である。

なお、日本政府は1964年(昭和39年)、本爆撃を含む対日戦略爆撃を指揮したカーチス・ルメイ少将に対し、航空自衛隊の育成に貢献したとの理由で勲一等旭日章を授与している。

東京都は1990年、空襲犠牲者を追悼し平和を願うことを目的として、3月10日を「東京都平和の日」とすることを条例で定めた。




NHKスペシャル
東京大空襲
60年目の被災地図より


【私的めもらんだむ】
 焼夷弾の開発を率いていたスタンダード石油の副社長と、ダグウェイ試爆場で日本家屋のモデルを設計したアントニン・レーモンドは、その後も親密な関係であったようだ。レイモンドは戦後の日本においてソコニーハウスと呼ばれるスタンダード石油の社宅を設計している。ソコニーハウスは1949年から50年にかけて横浜市本牧元町75番地の4戸ほか、東京の伊皿子に4戸、横浜山手に1戸建てられたという。【参照-スタンダード石油社宅(ソコニーハウス)について】 このレーモンドとスタンダード石油の縁を結んだのが東京を焦土と化したモデル実験ダグウェイ試爆場であったことは容易に推察できよう。またレーモンドは1939年にロックフェラーセンターで個展を開いているが、スタンダード石油がロックフェラー家の持ち物であることも興味深い。
アントニン・レーモンド
Antonin Raymond
【視聴予定】

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