昨日← 05/02/13 (日)翌日
 (-1)-5℃
【トピック】
シンポジウム「可視化でなくそう!違法な取調べ」
−鹿児島選挙違反事件にみる密室取調べの実態−

自殺未遂者まで生んだ「任意」という名の苛酷な取調べ
鹿児島事件は、2003年4月、鹿児島県議会議員選挙後の捜査で発生しました。
捜査機関は、当選したN氏の選挙運動に買収容疑があるとして、鹿児島県曽於郡区内の有権者らを片っ端から任意同行と称して(到底任意とはいえない方法で)警察署などに同行し、連日朝早くから夜遅くまで取調べを強行しました。なかには警察への同行が2か月以上続き、取調の実日数が37日にもなる人がいます。この「任意」取調べのせいで、救急車で病院に運ばれた人も多数おり、うつ病になった人もいます。現在もその後遺症を訴えている人もいます。
取調べられた人の中には、警察官からキリシタン弾圧を思わせる踏み字を強制されたり、取調室から口裏合わせの携帯電話を掛けさせられ、それを警察官から秘密録音された人もいました。調書を破られたと訴える人、嘘でもいいから認めてくれと警察官から哀願された人、叩き割り」と称する取調べで自殺を図った人(複数)まで出ました。
この事件では合計16名が繰り返し繰り返し逮捕・勾留され、第6回公判期日までの5か月間も接見禁止がついたままでした。警察関係者以外誰にも会えずに、連日長時間の取調べを強要され、代用監獄を利用した起訴後取調べも継続しました。

前代未聞の捜査機関による組織的な秘密交通権侵害
この事件の捜査初期の段階から、多数の弁護人が弁護活動を行いました。これに対し、捜査機関は、弁護人が接見する度に、被疑者・被告人を取り調べて弁護人との接見内容を調書に取るという前代未聞の暴挙を行って、秘密交通権を組織的に侵害しました。
また捜査官は、弁護人を誹謗中傷したり、貶めたりして、弁護人との信頼関係を破壊させ、5名の被疑者に対し、弁護人を解任させました。
さらに取調官は、弁護人の指示で被告人らが留置場でつけていたノートを盗み見したりし、別の被告人については、裁判官の命令で、留置場で取調状況を記載していたノートを差押えることまでしました。

国選弁護人の違法・不当解任
2名の国選弁護人が、第1回公判直前のころ、接見禁止中の各被告人に家族からの励ましの手紙を窓越しにみせたところ、検察官はこの被告人を直ちに取調べ、その調書を使って、第1回公判当日の朝、裁判所にこれらの国選弁護人の解任を請求するという暴挙を行いました。そして、裁判所も、これを容認してしまい、各国選弁護人は、違法・不当な解任を受けたのです。

人質司法の典型
迫られて虚偽自白を行った6名については、比較的早期に保釈が認められましたが、終始否認した7名は、何度保釈請求しても認められませんでした。高齢の被告人が身体の不調を訴え勾留の執行停止が決定されても、検察官抗告により取り消され、苛酷な身体拘束が続き、逮捕から6か月で漸く保釈されたケースもありました。N氏にいたっては、6回目の抗告審で漸く保釈が認められました。その身体拘束期間は395日に及んでいます。

全員無罪の訴え
容疑は、志布志町の谷あいの長閑な一集落で、集落の人を集め、4回に渡って買収会合が開かれ、参加者一人あたり合計26万円もの買収金が渡されたというものです。この容疑自体常識的にありえないことです。現在は、起訴されて審理されている13名全員が否認して、えん罪だと訴えています。
なお、買収会合に参加したとされ逮捕勾留された被疑者のうち3名は不起訴処分となり、買収会合に参加したとされながら、逮捕も勾留もされなかった人も4名います。

中山元県議を保釈/逮捕から395日ぶり
−福岡高裁宮崎支部が地裁決定支持
 鹿児島県議選曽於郡区の買収事件で、長期の拘置が続いていた元県議中山信一被告(59)=志布志町帖=は2日、昨年6月4日の逮捕以来、395日ぶりに保釈され、直後に記者会見に臨んだ。「みんなが待っている。風呂もゆっくり入りたい」と笑顔を見せ、「とにかく真実を貫きたい」としっかりした口調で話した。
 福岡高裁宮崎支部の決定から釈放まで、約1時間と異例の早さだった。拘置されていた鹿児島市永吉町の鹿児島拘置支所を出た中山被告は午後7時、背筋をピンと張り、会見場の県弁護士会館に姿を見せた。
 「身に覚えのない事件。あそこまで巧妙に作り上げられるものか。(逮捕された)ほかの方も大変だったと思う」と口を開いた。報道陣を見据え、「自分の身になって考えてほしい。警察寄りの報道をされては困る」と苦言を呈した。
 現金買収したとされる起訴事実については「(金を配った)会合もないし、金もやってない。ほかに逮捕された人が一番知っている」と否定。「無罪になるまでとことんやる」と決意を述べた。
 付き添いの弁護人は「選挙運動に利用したくない」と質問を事件に限定。同日は自らの辞職に伴う補選の告示日。弁護人は刑事被告人のまま立候補した中山被告を気遣った。
 保釈は9回目の申請で認められた。公判中の13被告でただ1人拘置が続き、同日の保釈にも懐疑的だった。「本当に出られるんですか」と係官に聞き返したという。約1年1カ月の間に体調を崩し2、3キロやせたが、「倒れちゃいかん」と自分を励まし、食事を取るよう心がけたことを明かした。
 弁護人によると、保釈保証金は1000万円。保釈は、公判での検察官立証は既に主要部分を終え、中山被告に証拠隠滅の恐れは低いなどと判断され認められた。決定文によると、保釈を認めた鹿児島地裁判断に誤りはなく、検察側が高裁支部に申し立てた抗告は理由がないとして棄却された。
 抗告棄却について、鹿児島地検の水沼祐治次席検事は「コメントすることはない」とした。
「本来の選挙に戻った」/市ケ谷さん
 中山信一被告の保釈について、市ケ谷誠さんの陣営は「当初からある程度予想していた」と、一様に冷静な様子だった。市ケ谷さんには、夕方、選挙事務所に立ち寄った際に伝えられた。
 市ケ谷さんは「異例の選挙といわれ、正直やりづらかった。これで本来の選挙に戻った。有権者にとっても、候補者の顔が見えるというのは歓迎すべきこと」とホッとした様子。「私が1日早く第一声を上げた格好だが、中山候補も志布志に戻って第一声となれば正式なスタート。互いに頑張りたい」とエールを送った。
 一方で事件については「同じ政治家として(長期拘置は)気の毒とは思っていた」としながらも「すでに司直の手に渡っており、事件の真相は司法が判断すること。選挙と裁判は別」と多くを語らなかった。


中山信一氏

狭山事件 第二鑑定
(1) 事件の概要
 狭山事件とは、昭和38年5月に、埼玉県狭山市で発生した強盗強姦、強盗殺人、死体遺棄、恐喝未遂事件です。この犯人として石川一雄さんが逮捕され、1ヶ月後に自供したことと、脅迫状の筆跡が一致するとして起訴されました。第一審の浦和地方裁判所では死刑判決、第二審の東京高等裁判所では、無期懲役となり、1977年に上告が棄却され無期懲役が確定しました。石川さんは、えん罪である、として直ちに再審請求をし、第一次再審請求は、1980年に棄却決定され、次いで、1986年第二次再審請が出されたが、これも1999年7月に棄却決定されました。
特に、この事件は、部落差別が生んだえん罪事件として社会的に大きな反響を呼んでいるものです。

(2) 事件の発覚
 昭和38年5月1日埼玉県立川越高等学校1年生の中田善枝さんは、午後3時半頃学校を出て、自転車で帰途についたとみなされています。そして、この日の天候は、狭山地方は、午後2時頃から雨が降ったりやんだりをした後、午後4時20分頃から本降りとなっています。家族は、午後6時頃になっても帰ってこない善枝さんを探したがいなかったので一旦帰宅し、午後7時半頃食事をしていたところ、今、入ってきたばかりの玄関入り口のガラス戸に、白い封筒が挟み込まれているのが見つかりました。封筒の表には、「少時様」の文字が消されてその下に「中田江さく」と父の名(栄作)書いてあり、封は、ちぎられたようにして開封され、中には脅迫状が入っていました。

(3) 指紋検出
 届け出を受けた埼玉県狭山警察署では、翌5月2日、直ちに県警本部に封筒を持ち込み、刑事部鑑識課で封筒及び脅迫状の現状の写真を撮影した後、指紋検出を行っています。その結果、封筒の表側から2個、同裏側から1個、脅迫状の表側から4個の指紋が検出されました。そして、関係者の指紋と選別対照して犯人の指紋を見つける鑑定をしたところ、脅迫状の指紋2個が関係者に合致し、その他は、指紋隆線は見えるものの特徴点が不足していたために対照不能でありました。以後、遺留指紋はないと言うことで37年後の今まで表に出てくることはありませんでした。

(4) 犯人逮捕
 捜査本部では、脅迫状に指定された「五月2日12時」の身代金受け渡し場所に、捜査員を張り込ませて待ち伏せしていたが、現れた犯人を取り逃がしてしまい、折しも、この年の3月に、東京で発生した「吉展ちゃん事件」でも犯人を取り逃がしていたので、またも警察の失態が論議を呼んでしまいました。翌4日、中田善枝さんは、農道に埋められていたところを発見され、、同年5月23日に石川さんは、別件で逮捕された後自供するに至っています。
 そして、同年6月26日、石川さん宅の3回目の捜索で鴨居から、被害者から奪ったとされる万年筆が発見され、有力な物的証拠となりました。しかし、この万年筆は、前2回の徹底した家宅捜索にもかかわらず発見されていなかったので、「疑惑の証拠」として論議を呼んでいるものです。

(5) 脅迫状及び封筒が作成された経緯 脅迫状及び封筒の作成経緯については、石川さんの自白によると、
○ 昭和38年4月28日に自宅で妹の大学ノート1枚を用い、兄の手箱の中にあったボールペンを使って本件脅迫状を作成した。犯行日である同年5月1日午後4時頃から6時頃までの間に、被害者を誘拐した後 殺害した雑木林で、脅迫状の「4月28日」という文字を「五月2日」に、「前の門」という文字を「さのヤ」と、それぞれボールペンで訂正しています。また、封筒に同ボールペンで「中田江さく」と宛名を記入すると共に、被害者の持ち物から取り出した同人の身分証明書を同封等に入れて封印しました。その後同日午後7時30分頃、被害者宅庭に侵入し、本件封筒を同家のガラス戸から差し込み投入するに際し、念のため、その場で封を切って挿入しておいた被害者身分証明書の在中を確かめた後、被害者宅に差し入れたものです。
○ このボールペン書きの事実認定は、後の昭和47年1月の秋谷鑑定(東京高等裁判所が選任依頼した筆記用具材質鑑定)を受けて、一部が万年筆又は、ペンで書かれたものと訂正されています。その部分は、脅迫状では、雑木林で訂正した「五月2日」と「さのヤ」であり、封筒では、「少時様」の訂正線と表裏側の「中田江さく」です。
○ そのため、東京高等裁判所は、訂正に使用した万年筆は、被害者を殺害した後、奪った万年筆で書き加えたものとして認定しています。

えん罪がはれるまで支援を
        神戸で石川さんを招いて狭山再審要求の集会
 私自身、仮出獄には反対だったが、しかし刑務所の外に出て自分自身の声で訴えた方が良いと判断し、自分の意志を曲げて仮出獄しました。今は、出て良かったと思います。それは、部落の仲間だけでなく、一般の人々も支援してくれるようになったから。
 三重県の女子中学生が修学旅行で東京に来たとき、石川さんの話を聞きたいと、私の話を1時間以上も聞いてくれ、裁判所に公正裁判をするようにハガキを出すといい、家に帰っても家族に話したと手紙をくれたんです。
 残念なのは、自分が自白してしまったことです。自分自身9件の悪いことをしており、また兄貴が犯人かと疑ってしまったこともあった。出てみれば、兄貴にアリバイがあったことがわかったんです。
 それなら、獄中で殺されても、自白すべきでなかった。その責任があるので、皆さんが面会に来られたときも、けっして弱みを見せませんでした。
--中略--
 高木裁判長はもうすぐ5年の任期になります。自分の任期中に結論を出すつもりなら、今年中に結論を出すのではないかと思います。私も全力投球します。皆さんにもいろいろとご心配やご迷惑をかけることになると思いますが、どうかえん罪が晴れるまでは今まで以上のご支援を賜りたいと思います。そして、えん罪が晴れたら皆さんのご期待に応えられるように、一生部落解放運動に捧げていきたいと思います。
---人権ステーション

講演する石川一雄氏
【私的めもらんだむ】
「裁判官、検事、マスコミは、しばしば、人間の特定の行為だけでなく、勢いあまって、その存在、人間存在自体もでをも、低劣な言葉を用いて指弾することがあります。存在自体の否定をやらかすのです。私はやはりジャン・グルニエが『存在の不幸』で書いている『悪意は暗殺者の手にする武器であって、暗殺者そのものではない。ユダはその行為によって有罪なのであって、その存在によって有罪であるわけではない』という言葉を想起するのです。
 まさに存在によって有罪なのではない。存在によって有罪というなら、人間存在は、より深く考察するなら、私もあなた方も裁判官も検事も、皆、全体として有罪と云うべきです。存在によって有罪なのではない。ということは、極刑というのは有り得ないのです。あってはならない。それを国家の制度にしてはならないのです」
---辺見庸著「単独発言」181-152頁

「誰かが危険を冒してでも世界に真実を投げかければ、世界は静聴してくれると信じよう。間違ってはいない。後悔することはない。世の中には、否定的な事実が溢れているけれども、不可能な夢の神話は、すべての史実より強い
---ロバート・フルガム Robert Fulghum1937- 牧師

11時
 ただいま「まぐまぐメール配信」へのアクセスが拒否されている状態。休日明けに再度打診する予定。妙だな?
 猫に餌やらなければ・・・その前に仕事の仕上げの準備とか、けっこう疲れる。
 おっと!画面が変わった・・・まぐまぐがメンテ中だってさ。

【視聴予定】
14時
00-15:25 スクープスペシャル「ある日突然犯人に…検証!えん罪の構図」 鳥越俊太郎
---テレビ朝日
ある日、突然犯人に…
私たちは常に「えん罪」の恐怖と隣り合わせだと言えるのではないだろうか。
日本の警察の決め付け捜査自白偏重主義
欧米では当然の権利である録画・録音、弁護士の立ち会いが一切認められない取調室という「密室」の中で一体何が起こっているのか…
1998年11月、国連の人権規約委員会は日本政府に対して「取調べの可視化」を勧告したが法務省の猛反対により実現への道は厳しい
(近年、アジアでも韓国・台湾で実現している)
1950年代〜60年代に著名なえん罪事件が続発しているが、ある司法関係者によれば、21世紀の今日、さらに事態は悪化しているという。
42年前に起こった戦後最大のタブーと言われたあの事件と、21世紀に入って鹿児島で発生した前代未聞の買収事件を通じて脈々と続いてきた「えん罪の構図」を検証する。

●鹿児島事件
一昨年4月、鹿児島県志布志町の人口わずか6世帯の集落で起こった選挙買収事件が、「日本の刑事司法の病理が集約された事件」として法曹界の注目を集めている。
突然、身に覚えのない容疑で警察の任意同行を受け、連日の厳しい取り調べで精神的・肉体的に追いつめられていく高齢の被告たち。結果、3人が自殺未遂、3人が意識不明となって倒れ、5人が救急車で運ばれた。
現金授受を裏付ける物証が一切無く、犯行日さえ特定されない中、警察検察は、「自白」だけに頼って逮捕起訴するが、被告13人全員が自白は強要されたものとして無実を主張している。
参考人が供述してもいない内容の調書でっち上げ
家族の名前を紙に書いて「踏み字」の強要
取調室から虚偽の電話をかけさせ録音。
警察のウソで次々弁護士解任に追い込まれる被告たち…
取調室という密室で行われた驚くべき違法捜査の数々を検証する。

●狭山事件
1963年5月1日、埼玉県で女子高校生が誘拐され絞殺された狭山事件。
埼玉県警は被差別部落出身の石川一雄氏を別件逮捕、1ヶ月に及ぶ取り調べで自白させた。裁判で石川氏は否認に転じるが、77年無期懲役判決が確定。その後、二度に渡って再審請求するが棄却され、現在最高裁に申し立てている特別抗告が事実上、えん罪を勝ち取るための最後のチャンスとなる。
今春にも下される最終判断を前に、元栃木県警鑑定官の斎藤保氏と画像解析の第一人者・柳田律夫氏が最新技術を駆使して、脅迫状の指紋・筆跡・インク色素・インク消し等を鑑定。42年目の今だからこそ、石川氏の無実を証明する新たな証拠が続々と浮上した!
「狭山事件の脅迫状を検証する鳥越キャスターと元栃木県警鑑定官・斉藤保氏」
そもそも、なぜ字が書けない石川氏が脅迫状を書いたとされ、最初の家宅捜索では存在しなかった万年筆が決定的物証として押収されるのか?
石川氏本人や当時の捜査官ら関係者のインタビューを丹念に発掘、はじめから「犯人=石川氏ありき」という決め付け捜査と自白強要の実態を検証する。

新じねん」TOP