★高松宮妃喜久子さまご逝去 紀宮さま婚約内定の発表延期
高松宮妃喜久子(きくこ)さまは18日午前4時24分、敗血症のため東京都中央区の聖路加国際病院で亡くなられた。92歳だった。宮内庁は、同日予定していた紀宮清子さま(35)と黒田慶樹さん(39)の婚約内定の発表を延期した。新潟県中越地震の被害者に配慮して11月初旬から1カ月半近く延期されていたのに次いで2度目の延期となる。
皇族が亡くなったのは、02年11月の高円宮憲仁さま以来。
記者会見した宮内庁の日野西光忠・宮務主管と聖路加国際病院の蝶名林直彦・呼吸器内科医長ら医師によると、喜久子さまは20歳代に患った結核の後遺症で、徐々に慢性呼吸不全が悪化。2月には、同病院で左胸の乳がんの摘出手術を受け、その後、入退院を繰り返していた。
8月に入院した後は病院を出ることはなく、10月中旬からは人工透析も受けていた。1週間ほど前から血圧が低下し、意識が混濁。17日夜には意識が戻って主治医の山口建・県立静岡がんセンター総長が差し出した手を握りかえしたというが、18日午前3時ごろ心拍が停止した。心臓マッサージが続けられたが、駆けつけた2人の妹や宮家職員らにみとられて亡くなられた。
医師らによると、最後まで公務に意欲を見せ、11月の高松宮妃癌(がん)研究基金の会合にどのドレスを着て出席しようか、10月に体調が悪化するまで考えていたという。
喜久子さまは、87年に夫で昭和天皇の弟、高松宮宣仁(のぶひと)さまをがんで失った。その後、宮中晩餐(ばんさん)会や地方の各種行事、がん撲滅運動の催しなどに積極的に出向き、活発に活動した。最後の公務は昨年11月に宮邸で開かれた癌研究基金の集まりだった。
喜久子さまは、1911年12月、徳川15代将軍慶喜(よしのぶ)の七男で徳川慶喜家を継いだ慶久氏と、皇族有栖川宮(ありすがわのみや)家出身の実枝子さんの次女として生まれ、1930年2月に高松宮さまと結婚した。
がん撲滅に意を注ぎ、高松宮妃癌研究基金の名誉総裁のほか、恩賜財団済生会、東京慈恵会の名誉総裁などを務め、社会貢献活動を続けてきた。ハンセン病の元患者の救済や病気への正しい理解の促進を行う活動にも熱心に取り組んだ。
高松宮さまとの間に子どもはなく、終戦直後の皇籍離脱後も残った秩父、高松、三笠の三宮家のうち、子どものなかった秩父宮家と同様、高松宮家も途絶えることになる。 |
|

 |
高松宮妃喜久子さん |
 |
徳川慶喜 |
|