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★アラファト議長が死去 パレスチナ率い35年
パレスチナ自治政府のヤセル・アラファト議長(75)が11日午前3時半(日本時間同11時半)、パリ郊外のペルシー軍病院で死去した。同病院が死去を確認した。同自治政府のエレカット交渉相も同日早朝、ヨルダン川西岸のラマラで記者団に発表した。議長の遺体はいったんカイロに運ばれ、アラブ各国首脳らの弔問を受けた後、12日にもラマラで埋葬される予定。35年にわたりパレスチナ国家建設を率い、ノーベル平和賞も受けたが、聖地東エルサレムを首都とする独立国家の姿を見届けないまま世を去った。議長の死がパレスチナ指導部内に権力の空白を生めば、先の見えない中東和平がますます混迷することも考えられる。
アラファト議長は02年から、自治区ラマラ(ヨルダン川西岸)の議長府でイスラエル軍の軟禁下に置かれていた。今年10月上旬に体調を崩して同29日にパリに移動。11月3日に容体が急変し、集中治療室で人工呼吸などの延命措置が施されたが、8日夜から深い昏睡(こんすい)に陥ったまま息を引き取った。
議長の死を受け、自治政府はクレイ首相、アッバス前首相らによる集団指導体制を敷く。議長ポストはファトゥーフ評議会(国会)議長が代行、パレスチナ解放機構(PLO)の議長職はアッバス氏が引き継ぐ。
アラファト氏はイスラエルへの抵抗の象徴として、長らくカリスマ的存在だった。療養のためパレスチナを出た時点で「政治的には終わり」とされたが、渡仏から死までが短期間だったため、有力な後継者は浮上していない。主導権を握ってきた旧世代と若手の確執や、死去直前に表面化したソウハ議長夫人(41)と新指導部との対立がこじれる可能性もある。
カイロ大学で工学を学んだアラファト氏は50年代末、後にPLOの主軸となるゲリラ組織ファタハの創設に参加。69年にPLO議長になった後は幾多の政治的、身体的危機をくぐり抜け、中東の不死鳥と呼ばれた。
冷戦後はイスラエルとの和平に動き、93年に中東和平の大枠を定めたオスロ合意(パレスチナ暫定自治協定)に調印。米ホワイトハウスでイスラエルのラビン首相(当時)と歴史的な握手を交わした。この政治決断に対し、94年にノーベル平和賞が贈られた。
96年にはオスロ合意に基づく自治政府の初代議長に就任。財政と治安権限を握るワンマン体制を貫き、治安問題などでイスラエルとの対立が再燃した。イスラエルは01年12月、議長を和平の障害とみなして交渉を絶ち、米ブッシュ政権も02年6月、イスラエルへのテロを抑え込むのに消極的だと退陣を求めた。
パレスチナの若い世代からも独裁ぶりや腐敗、不明朗な資産管理などに批判が噴出、晩年の権威は揺らぎがちだった。
「私はパレスチナと結婚した」と独身を続けたが、92年に結婚を公表、長女ザフワさん(9)がいる。
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8時
雨を予測した監督が、昨日急にロータップを引き取りにきた。そして今日の雨、監督の予測が効を発したようだ。完成品を大事に運んでいく様は、嫁いでいく娘を送り出すような心境だ。大切にしてもらえよ、心で呟きながら見送った。丁寧に仕上げた仕事はそれなりに思い入れがあるのだ。今日は入れ替わりに入荷したベースの研磨作業に入る。いつもの粉地獄である。
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