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★<ミャンマー>穏健派首相が解任 タイ政府「確認」
【バンコク竹之内満】タイ首相府のチャクラポップ報道官は19日、会見で、隣国ミャンマー軍事政権のキンニュン首相が「汚職容疑で身柄を拘束されたことを確認した」と発表した。キンニュン氏はヤンゴン市内で自宅軟禁状態にあるという。ミャンマー国営テレビは同日夜、首相「引退」とソーウィン第1書記の後継首相就任を発表した。
キンニュン氏は昨年8月の首相就任以降、民主化への第1段階となる国民会議を開催するなど民政移管に取り組む一方、国際社会への対応を一手に引き受けていた穏健派。同氏の解任で、軍政トップのタンシュエ国家平和発展評議会(SPDC)議長への権力集中が強まり、民主化への動きが大幅に後退するのは確実だ。
タイ政府の発表によると、在ヤンゴンの同国大使館が軍政当局からキンニュン氏拘束を確認したという。それによると、同氏は18日夜、中部マンダレーでの会合を終え、ヤンゴンに戻ったところを当局に踏み込まれたという。拘束場所については、マンダレー市内との情報もある。
キンニュン氏は昨年8月、ミャンマーの最高意思決定機関SPDC第1書記から、首相に就任。最大野党・国民民主連盟(NLD)のアウンサンスーチー書記長が自宅軟禁に置かれるなど、同国の民主化が滞る中、国民会議開催など民政移管プロセス(ロードマップ)を発表。民主化作業で中心的な役割を担ってきた。拘束には、少数民族対策など民主化作業が軍政トップの反発を買った可能性もある。
後任首相のソーウィン氏は、キンニュン氏の首相就任と同時にSPDCの第1書記に就任。タンシュエ議長の「秘蔵っ子」と言われ、信望が厚いことで知られる。
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↓拘束された
キンニュン首相Aung San Suu Kyi
●ミャンマー民主化をめぐる駆け引き
2003年7月8日 田中 宇
ミャンマー軍事政権の中枢は、3人の将軍で構成されている。トップにいるのがタンシュエ上級大将(Than Shwe)で、最高権力機関である国家平和発展評議会(SPDC)の議長と首相を兼務している。ナンバー2はマウンエイ大将(Maung Aye)で、陸軍を統括している。ナンバー3がキンニュン中将(Khin Nyunt)で、諜報や公安部門を統括している。
トップのタンシュエとナンバー2のマウンエイは保守派で、スーチーとの交渉に消極的である一方、ナンバー3のキンニュンは改革派で、スーチーとの交渉や、海外からの投資を増加させることの重要性を主張してきた。
国連のラザリに仲介してもらい、スーチーを軍事政権側に取り込むという戦略は、改革派のキンニュンが主導してきたが、スーチーとの和解が進むことで、改革派に政権を乗っ取られるのではないかと恐れた保守派のタンシュエらは、襲撃事件を起こしてラザリのヤンゴン到着の直前にスーチーを拘束してしまった、というのが「軍事政権分裂論」である。
政権トップのタンシュエは、ラザリ特使がヤンゴンにいる間、ずっとヤンゴンから遠い海辺のリゾート地に滞在していた。このことから、スーチー拘束事件の直後に、キンニュンらがタンシュエの権力を剥奪する無血クーデターが行われたのではないか、とみる向きもある。だとしたら、スーチーは政権中枢がクーデター後に再び安定するまでの間、拘束されているという可能性もある。
だがその一方で、政権中枢のSPDC内部ではトップのタンシュエが今年2月に中国を訪問して以降、中国との関係が強化できそうなので民主化の必要性はないと判断し、スーチーとの交渉打ち切りに動いたという指摘もある。こちらの分析に基づくなら、スーチー拘束の意味は、むしろ改革派が政権内で弱体化した結果だということになる。
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今回のキンニュン拘束劇は「恩を仇で返したキンニュン憎し」タンシュエが事前に手を打ったということか・・・
No-1
Than ShweNo-2
Maung AyeNo-3
Khin Nyunt
【私的めもらんだむ】
10時
台風23号、20日午前中に九州南部に接近
超大型で強い台風23号は、20日午前9時には、宮崎県都井岬の東南東約70キロの海上にあって、時速約45キロで北東に進んでいる。
気象庁によると、台風は、20日午前中に九州南部に最も接近し昼ごろには四国地方に接近する見込み。その後、四国地方または本州の南岸に上陸する恐れがある。広い範囲で暴風となり、西日本・東日本の太平洋側を中心に大雨が見込まれる。同庁では山崩れ、がけ崩れ、河川の増水・はんらんなどに警戒を呼びかけている。
台風の中心の気圧は950ヘクトパスカル、中心付近の最大風速は40メートルで、中心から半径220キロ以内では風速25メートル以上の暴風となっている。
21日午前6時までの24時間に予想される降水量は、いずれも多い所で四国の太平洋側、近畿南部で400ミリ、四国の瀬戸内側、山陰地方、近畿北部・中部、東海地方、関東地方、甲信地方で300〜350ミリ、九州南部、大分県、北陸、東北地方南部で200〜250ミリ、大分県を除く九州北部、山陽地方、東北地方北部で100〜120ミリの見込み。
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雨が降り続いている。せっかく仕上げたベースが雨漏りでピンチだ。急遽取りに来てもらうよう電話する。
【視聴予定】
21時
15-00 その時歴史が動いた サムライ魂でデパートを作れ▽勇気と涙の百貨店誕生秘話(変更あり) NHK総合
日本初の本格的デパートが東京・日本橋に誕生した一九一四年十月一日にスポットを当てる。 明治中期、士族出身の銀行員・日比翁助は、経営難の老舗呉服店の再建を任された。当時、多くの産業が近代化する中、商業は江戸期以来の商慣習が幅を利かせ、時代に取り残されつつあった。これを改革すべく、日比がよりどころとしたのは「”利”より”義”を重んずる武士の魂」。目先の利益よりも従業員や顧客との信頼を大切にし、一方でヨーロッパの最先端の商取引の手法を取り入れるという方針で、日比は呉服店の再建に成功する。
●三越百貨店の創始者
日比翁助[ひびおうすけ]
(1860〜1931)
久留米藩士の子として生まれた慶應義塾大学で中上川彦次郎と出会う。日比の才能と人柄に惚れ込み明治31年、三越呉服店の支配人として起用。不況だった三越を再建し、わが国初の近代百貨店を作り上げた「デパート王」である。
●三越の歴史
明治28年(1895)、慶応義塾出身で三井銀行大阪支店長の高橋義雄が呉服店の理事になりました。そして、翌年商標を丸に井桁三のマークに戻し、合名会社三井呉服店と改称したのです。高橋はアメリカの百貨店の研究をしており、呉服店の改革を始めました。
高橋は、三井銀行の改革に力を尽くした中上川彦次郎を通じ、三井銀行本店副支配人で、慶応義塾出身の日比翁助に三井呉服店入りを頼みました。高橋は日比の人格を見込んだのです。日比は明治31年に、三井呉服店副支配人に就任し、高橋と共に改革を進めました。
明治41年に三越呉服店は新店舗となり、従来の呉服店の雰囲気を一新しました。また、宣伝にも工夫をこらし、有名な広告コピー「今日は帝劇、明日は三越」(浜田四郎作)も生まれたのです。
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