●学校占拠、バサエフ一派の犯行か…ナゾ残す武装勢力
ロシア・北オセチヤ共和国の学校占拠事件は、なお多くの謎に包まれている。だが、証言や手口などから、犯行グループ像が徐々に浮かび上がってくる。
◆犯人像
今回の事件での犯行声明はまだ出ていない。だが、一昨年のモスクワの劇場占拠事件で犯行声明を出したチェチェン共和国武装勢力の対露最強硬派、シャミル・バサエフ野戦司令官一派による犯行との見方が強まってきた。
3日付のロシア紙コメルサントによると、今回の事件の主犯格は3人。武装勢力側と人質解放交渉で連絡をとり合った警察官や人質らの証言から、3人は「マガス」「ファントマス」「アブドラ」と名乗っていたことが分かった。
このうち、リーダー格の「マガス」について、露治安当局者は「マゴメド・エブロエフ」という人物だとタス通信に語った。
「エブロエフ」は、チェチェン共和国生まれのイングーシ人で、25歳前後。第1次チェチェン戦争(1996年終結)後に同共和国に隣接するイングーシ共和国で誘拐ビジネスに手を染めるようになった。その後、武装勢力の最強硬派バサエフ司令官率いる部隊に加わり、同司令官の側近中の側近となった。6月にイングーシ共和国の内務省庁舎が襲撃され、90人以上の死者が出た事件も彼が中心になったとみられている。
【詳細】
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チェチェン
シャミル・バサエフ
野戦司令官
Shamil Basayev |
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★チェチェン戦争が育んだプーチンの権力
2000年1月21日 田中 宇
1999年9月22日夜9時すぎ、ロシアの首都モスクワから200キロほど離れたリャザンという町で、バスの運転手をしているアレクセイさんが帰宅時、自分のマンション(公共住宅)の前に、自家用車が停まっているのに気づいた。ありふれた国産車「ジグリ」だったが、プレートには、ナンバーの最後の2桁の部分に紙が貼ってあり、「62」と書かれていた。それはリャザンの地域番号だったが、紙の下にある、もともとの番号も透けて見えた。「77」。それは、そこから走って何時間もかかる、モスクワの番号だった。
当時ロシアでは、モスクワなどで公共住宅の連続爆破事件が起きており、300人以上が犠牲になっていた。マスコミは無差別爆破の危険を大々的に報じ、「不審な人物や荷物を見たら、すぐに警察へ」といった広報を頻繁に流していた。
警察がマンション(13階建て)を捜索すると、地下室に、白い粉を入れたいくつかの大きな袋が置いてあるのが見つかった。調べてみると、それは爆薬で、袋の近くには時限発火装置がセットされていた。
取り外された時限発火装置は、翌朝5時半にセットされており、大事を取って、それが過ぎるまで、警戒が続いたのだった。午前5時半という時刻は、何日か前にモスクワの公共住宅が爆破されたのと、同じ時刻だった。
不審な車には男2人と女1人の計3人が乗っており、別の住民がこの3人を目撃していた。ロシアで続いていた連続爆破事件は、分離独立を狙うチェチェン人組織の仕業である可能性が高いと、マスコミでは報じられていた。リャザンのマンションに爆弾を仕掛けたのもチェチェン人ではないか、とも思われたが、不審な3人はチェチェン人ではなく、ロシア人のように見えた。
▼「防犯訓練」と言わざるを得なかった連邦保安局
翌日の夜、テレビを見ていたリャザンの人々は驚いた。連邦保安局の長官が登場し、「爆弾は防犯訓練のために当局が仕掛けた。火薬のように見えた袋詰めの白い粉は砂糖だった」と発表したからだった。
訓練にしては、おかしな点がいくつもあった。爆弾が見つかってから訓練だと発表するまでに、丸一日以上過ぎていたし、訓練なら多くの地点で実施すべきなのに、なぜリャザンだけで実施したのかも不明だった。
だがその翌日、人々は合点がいった。ロシア軍が、チェチェンに対する空爆を開始したのである。爆弾騒ぎは、ロシア当局のチェチェン攻撃と関係がある、もっと言えば、マンションの連続爆破事件は、ソ連時代にはKGBと呼ばれていた連邦保安局が、ロシア人の反チェチェン感情を煽る目的で実行した可能性がある、と人々は考えた。
当時、首相だったプーチンは、その1ヶ月前まで、連邦保安局の長官だった。彼が首相になった直後に始めたチェチェン攻撃は、ロシア人の愛国心を揺さぶった。プーチンへの支持率は急上昇し、1999年大晦日にエリツィン大統領が辞任し、プーチンは大統領にまで登りつめた。
つまり、99年9月の連続爆破事件は、プーチンを権力の座に押し上げるためにあったようなもので、事件の背後には、プーチンの出身母体である連邦保安局の影が見え隠れしている。
【詳細】
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1999-ロストフ
アパート爆破テロ |
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★チェチェンをめぐる絶望の三角関係
2000年1月17日 田中 宇
▼「天国へ直行」を利用する司令官たち
アフガニーたちがチェチェンを武力支援し、ロシア軍が撤退した後の1997年になっても、チェチェンの多くの人々はまだ、イスラム原理主義を嫌っているか、敬遠していた。この年、ドダエフ大統領がロシア軍によって殺されたが、その後の大統領選挙で、イスラム急進派のヤンダルビエフ(Zelimkhan Yandarbiyev)が敗れ、ドダエフの政策を引き継いだマスハドフ(Aslan Maskhadov)が当選したことに、それが表れている。
だが人々の意識とは裏腹に、1996年にロシア軍が撤退し、事実上の自治が確立したチェチェンでは、イスラム原理主義勢力がますます力を増した。チェチェン政府は1997年、旧ソ連の中で唯一、イスラム教を国教と定める宣言を行った。
この背景には、ロシア軍との戦闘を通じて政治力を増したチェチェン軍の司令官たちが、イスラム原理主義を自らの信条として掲げていたことがあった。「聖戦で死ねば天国へ直行できる」というイスラムの教えは、死に直面する兵士を奮い立たせるもので、戦争を遂行する司令官にとって、原理主義は便利なものだったからである。
チェチェン軍の最高司令官であるバサエフ(Shamil Basayev)も、ワッハビズムの厳格なイスラム信仰を実践してはいないものの、イスラム原理主義の考え方を戦略的に使っている。
【詳細】
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チェチェン
マスハドフ大統領
Aslan Maskhadov |
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★アンナ・ポリトコフスカヤのプロフィール
Anna POLITKOVSKAYA
ノバヤ・ガゼータ紙評論員
1980年ロモノソフ記念モスクワ国立大学ジャーナリズム学科卒業、
1982-93年、「イズベスチア」紙、「航空輸送」誌、創作連合「エスカルト」、出版社「パリテット(均衡)」などで働く。
1994-99年、「チェレズブチャイナヤ・プロイズシェストビヤ(緊急事態)」「オブシチャヤ・ガゼータ(総合新聞)」評論員。
1999年6月より「ノーバヤ・ガゼータ(新新聞)」紙評論員に就任。以来、幾度と無くダゲスタン、イングーシ、チェチェンの戦場、避難民キャンプを訪れ、チェチェン戦争報道を行う。単行本レポルタージュ「地獄への旅 チェチェン日記」がある。
1999年12月空爆下のグローズヌイから、老人ホームに暮らす89人の老人たちのロシア領内への避難を助けた。
2000年の夏、老人たちの内、22人が、グローズヌイの安定化を宣伝するために送り返された。しかし、そのグローズヌイには、水も、必要な医薬品も、食料も、衣服も無かった。
2000年8月、ポリトコフスカヤの発意で「ノバヤ・ガゼータ」紙の「グローズヌイ老人ホーム」支援キャンペーンが始まり、5000ドルの支援金と5.5トンの支援物資が集められた。
彼女の報道活動に対しては、「ロシア黄金のペン」賞、ロシア連邦ジャーナリスト同盟の「善き行い、善き心」賞、一連のチェチェン報道に対する「黄金の銅鑼」賞などが送られている。
2001年春には、ロシア軍が彼女を拘束し、第2のバビツキー事件となることが懸念されたが、多くのロシア報道機関が事件を報道したため彼女は事なきを得た。現在、右翼のテロを警戒して国外に出て健筆を揮っている。
【関連】
★アンナ・ポリトコフスカヤ服毒か、アンドレイ・バビツキーはモスクワで拘束
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アンナ・
ポリトコフスカヤ
Anna POLITKOVSKAYA |
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