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家康の疑念を呼んだ黄金、長安処刑の考察
- 慶長十八年(1613)4月25日、金山奉行の大久保長安は63歳にして徳川家康の命により突然断罪される。家康の怒りはそれに留まらず、墓を掘り起こして長安の遺体を磔にしたあげくに河原にさらすといった残忍さであった。また長安の遺産は全て没収、七人の子供に切腹を命じている。徳川家康をこれほど怒らせた原因はどこにあったのか?
- 大久保長安は天文十四年(1514)に生まれたとされるが、その生地は不明。甲斐の武田が金銀採掘の奨励を行う中、長安は甲州金の発掘などの技術を二年に渡って学んでいる。天正十五年(1580)武田家が滅亡すると、長安は徳川家康の元に走る。慶長五年(1600)石見銀山の発掘が本格化すると、一年で3600トン(七万両)に及ぶ産出を誇るようになる。ここで長安の発掘技術が活かされ、やがては佐渡金山の金山奉行へと大出世する。
- 佐渡における長安の活躍はめざましく、水銀製錬法によって全国の金産出の半分を越えるようになる。それにともなって金山奉行としての長安の権限も増大し、徳川家康を凌ぐものとなりつつあった。家康としては足元をすくわれるような暗澹とする想いであったろう。そんな時、長安が幕府転覆のクーデターを画策しているとの黒い噂が飛び交うようになる。ポルトガルとオランダも佐渡の金を求めて対立していたが、ポルトガルの船を捕らえたオランダの東インド会社はそこにクーデター画策の証拠となる密書を発見する。この時の家康の怒りは尋常ではなかったと伝えられている。
- 噂に過ぎなかった長安クーデターの証拠が見つかること自体、陰謀の匂いがする。「初めに噂ありき」に意図的な流布が感じられよう。ここに徳川家康の疑心暗鬼の闇が垣間見える。密書は幕府によって用意されたはずである。黄金の魔力は幕府宰相を根底から脅かすほど強力であった。まさに大久保長安の悲劇は黄金の光に照らされたゆえにあり、子孫末代までの血を断たれることとなった。