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東インド会社
- ヨーロッパのアジア侵略はポルトガルとスペインによる大航海時代に端を発するが、一般に知られるコロンブスやマゼランといった冒険家も実際には侵略者の頭目であった。コロンブスはアメリカ大陸を発見した時、そこをインドと勘違いして西インド諸島と命名した。冒険家ならぬ略奪者コロンブスは「ダイヤの産地インド」と勘違いしたまま原住民を奴隷にしてダイヤを探しまくっていたのである。ダイヤの見つからない腹いせに、コロンブスは原住民の虐殺を繰り返している。次の十六世紀に冒険家(侵略者)として登場するのがフランス、イギリス、オランダなどの探検隊である。彼らによって「オランダ東インド会社」が十七世紀に誕生すると、十八世紀には「イギリス東インド会社」が誕生している。日本の大久保長安が処刑されたのが1613年、ちょうどオランダがインドのダイヤを略奪している最中に、日本の黄金にも狙いをつけていたわけである。対立するポルトガルを出し抜くかたちで、オランダ東インド会社は徳川幕府と密書の偽造で長安落としの謀略を図る。オランダはポルトガルを退け、徳川家康は邪魔な長安を葬る、利害の一致がここに成立する。これによってオランダ東インド会社は日本の黄金を独占的な貿易交渉で動かすことができる。
- 一方、一世紀後に発足したイギリス東インド会社はインドの貿易を支配し、東アジア諸国一帯を植民地化しながら北上、中国大陸を狙うとインドでアヘンを大量に作り出す。イギリス政府は東インド会社を通じて中国にアヘンを輸出し、その中国からは銀を吸い上げていた。十九世紀前半、中国に蔓延するアヘンに業を煮やしていた清朝は、特任の派遣大臣として林則除にイギリスとの交渉にあたらせる。アヘンの引き渡しを東インド会社無視された林はイギリス船からアヘン二万箱を押収して焼却、変わりにイギリスにお茶を与えて採算があうようにした。これに激怒したアヘン商人サッスーンはイギリス政府ならびにシティ支配者の後ろ盾を得ると、1840年7月、アヘン戦争を仕掛ける。二年後、清朝は海賊帝国イギリスに屈服し、香港は強引にイギリスの植民地とされる。その香港が中国に返還された去年(1997)、過去に中国の受けた屈辱をどれだけの人が思い浮かべただろうか。最近、ようやく中国の実態が竹のカーテンから垣間見れるようになってきた。洋の東西を問わず、中国でも黄金に目の眩むのは同じ、それも貴重な遺跡が農民や盗賊入り交じって根こそぎ荒らされる異常ぶりだという。
- 【参考『赤い盾・上』144〜155頁】