JFK暗殺めにゅー
オズワルドが日本で遊ぶ
- オズワルドは兵卒の安月給(85ドル)にもかかわらず、銀座のバーで派手に遊んでいた。そのカネの出所を知りたいものである。彼は「クィンビー」の馴染み客で、そこのホステスを基地にも連れてきている。基地付近のバー「大和」にも出入りしていたらしい。ONI(米海軍情報部)は、クィンビーのホステスからカネが出ていたのではないかと疑っている。50年代末期、ホステスが数百人いるといわれた銀座のキャバレー・クィンビーは世界的にも有名で、もう一つは厚木基地にあったが90年代初期に焼失した。オズワルドが特に入り浸っていたのが厚木のクィンビーで、取材にはなぜか口が堅いという。存命確認数名の当時のホステスが全て精神病院に入院しているというが、これも実に奇妙なことである。CIAのマインド・コントロールに関係しているのではないか?オズワルドは日本の女性がことのほか気に入ったらしく、演習をサボるために自分の腕を撃ったこともある。しかし演習をサボるどころか、無登録の武器所持で軍法会議で処罰される間抜けでもあった。日本におけるオズワルドの謎は、その母親によって少しは垣間見えてくる。それによると息子は日本で「アメリカ政府のスパイ」をやり、フィリピンでは「特別な任務」というものであった。厚木からカリフォルニアの海兵隊基地へ移った後も、オズワルドの懐には多額のカネが流れ込んでいた。銀行口座に203ドルしかなかったとされる彼が、スイス大学に入るために早期除隊し、ロンドンやヘルシンキまで旅行した不可解さをウォーレン委員会は調べようともしない。そして何より彼らが隠蔽してしようとしているのが1959年10月10日の深夜過ぎのヘルシンキ行き航空便である。公文書のオズワルド到着時刻とホテルのチェックイン時刻が違うのである。オズワルドは航空便が到着する以前にホテルにチェックインしていた。ということはオズワルドは特別の米軍機ですでにヘルシンキに運ばれていた、ということになる。さらに1962年に帰国したオズワルドが売国奴として逮捕されなかった最大の謎がある。ここに私は何度も書いているクロッソンと、その上司キッシンジャーというキーワードを示唆する。全ては緻密な計画に基づいており、その統帥者は米政府やCIAを思うがままに操ることのできる存在であろう。
- 1959年10月31日、オズワルドがモスクワの米国大使館にソ連亡命を告げた時、その応対にあたったのが東京CIA支局のリチャード・E・スナイダーだった。JFK暗殺の五日後にスナイダーはオズワルドに関する分析報告書をワシントンに送っているが、そこにはスナイダーとともに駐日大使エドウィン・O・ライシャワーの署名も確認されている。オズワルドがいかに監視され、そして注目されていたかがうかがえる。今から数年前にオズワルドの妻マリナが忽然とアメリカに現れ、記者団に取り囲まれたことがあった。私はこのマリナに何か得体の知れないものを感じてきた。帰国の際にロシア人妻マリナを伴い、オズワルドが真っ先に就職したのが『ジャガー・チルズ・ストーバル』という軍の地図作製をつくる会社だったというのも奇妙である。米政府の最高機密に属する会社に売国奴を就職させてしまうほど管理が甘かった、などとは考えられないことだ。このへんからCIAの手先だったジョージ・デ・モーレンシルツがオズワルドに接近するのだが、彼は1977年3月30日にパームビーチ郊外の友人宅で散弾銃をくわえて自殺したことになっている。これを額面通りに単なる自殺と受け取る者が少なかったのも当然過ぎることだ。オズワルドはFBIとも関係をもっていくが、その機密文書にはIDナンバーS179、1962年9月よりJFK暗殺発生まで毎月200ドルが支給されたと記録されている。
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