JFK暗殺めにゅー
オズワルドが厚木基地でスパイとなる
- 1978年、元CIA職員が下院暗殺問題調査特別委員会において「オズワルドは日本の厚木でCIAに雇われ、そこから二重スパイとしてソ連に送られた」と証言している。証言者は当時CIA東京支局のビルに勤務していたジェームズ・B・ウィルコットである。『クリプト』(秘密結託者)というプロジェクトの現金出納係だった彼は、1962年にオズワルドがソ連での「任務終了後の報告」(ディブリーフィング)のため日本に戻されたことを知った。これはウォーレン委員会とは全く違った内容だった。公式には「アメリカへの帰国を申し出たオズワルドは、モスクワから北欧へ向かった」とされているのである。さらに帰国したオズワルドがニューオーリンズに戻り、JFK暗殺の三ヶ月前のラジオ番組に出演したときには「スポンサーはアメリカ政府だった」とうっかり口を滑らしている。
- 1961年2月、社会党衆院議員(当時)の飛鳥田一雄は衆院予算委員会の一般質問で「厚木のJTAG(連合技術顧問団)にはU2の基地とスパイ養成機関がある。JTAGに送られてくる郵便物は全てアメリカ大使館気付になっている。明らかにここはCIAの配下にあり、U2機の乗務員もここに住んでいる」とすっぱ抜いた。さらに飛鳥田議員は「1954年1月、ロシア大使館職員ラスボロフが亡命後、一時JTAGに保護され、亡命者を装うスパイ要員を訓練、通信機器、写真機、ピストルから時限爆弾まで持たせて『鉄のカーテン』の内部へ送り込んでいた」と指摘した。
- 元基地司令官パルナク大佐も最近ようやくJTAGの存在を認めている。「JTAGとU2計画には一定の機密委任の許可が設定されていて、それには徹底した保安処置が施されている。JTAGの工作員は世界中にいる。在日海軍でさえその存在は知らず、JTAGの職員家族にも接触することは許されていない。空港でも眼を合わせることすら禁じられていた」
- 厚木でロシア語を学び、カリフォルニア州サンタアナに配属された時のオズワルドは試験に合格するまでに上達していた。オズワルドは厚木基地から10キロほど離れた上瀬谷にある最高機密の海軍空軍施設にいたとされる。彼の所属部隊は海兵隊航空管制第一飛行大隊、管制塔からU2機など軍用機を追跡していた。コードネームは『コーヒー・ミル』。オズワルドがソ連への亡命後、提供したのはこれらU2機の情報だった。オズワルドがJTAGで訓練を受けていたのは明らかだった。しかしその極秘性からアメリカ政府はことごとくオズワルドとJTAGの関連を否定、U2機追跡の任務についていたことまで否定している。
- オズワルドの13ヶ月厚木駐留期間中、彼の所属していた海兵隊航空管制第一飛行大隊は、1957年11月にフィリピンU2基地キュービーポイントに寄港、1958年9月に台湾の金門島危機での作戦に赴いていた。当時アジア最大のU2基地は台湾にあり、台湾CIA支局長レイ・S・クラインの指揮下にあった。元ハーバート大学歴史学教授クラインは1958年から62年まで台湾に在住し、中国上空からミサイルのサイロや原爆プラントを空撮させる一方、「竹のカーテン」の向こうにスパイを送り込んでいた。当時の軍事記録にはオズワルドは台湾ではなく厚木基地にいることになっている。しかも個人記録と給料支払い記録はなく、オズワルドの所在を隠蔽する工作がうかがえる。クラインは台湾の右翼団体の国際化を図りながら、その一方ではオズワルドの任務に歩調を合わせるように台湾に在任していた。さらにクラインは韓国の李承晩と蒋介石が結成したアジア人民反共連盟の顧問として、同盟に加わっていた日本の右翼とも太いパイプでつながっていた。クラインはその後CIA諜報担当副長官となり、1980年〜84年まで世界反共連盟に出席している。そしてオズワルド帰国の責任者がキッシンジャー配下のボリス・クロッソンだったというわけである。さらにオズワルドは情報収集のためだろうか、日本共産党とも接触している。
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