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【トピック】
南アの核兵器開発技術者が闇市場に関与
2005年04月12日06時28分

 南アフリカで昨秋、核兵器開発に使われるウラン濃縮用の部品などを大量にリビアに輸出しようとして当局に逮捕された男性が、かつて南アが極秘裏に進めていた核兵器開発に直接携わっていた原子力公社の技術者だったことが明らかになった。核軍縮に伴って職を失う科学者、技術者がノウハウを売り渡そうとする試みは主に旧ソ連で懸念されてきたが、実態が明らかになったケースはほとんどない。核拡散のすそ野の広がりを浮き彫りにする事件で、国際社会はあらためて闇市場対策の強化を迫られている。
 この男性は南ア国籍で、50代。当局の調べでは、男性は00〜01年、ウラン濃縮用遠心分離器の部品やウラン製造過程で使う高性能旋盤を許可を得ないままリビアに輸出しようとして、南ア大量破壊兵器不拡散法違反の容疑に問われた。当局は男性の過去の職業などは明らかにしていない。
 しかし、男性の弁護を担当するヘンリッヒ・バーデンホースト弁護士は朝日新聞の取材に対し、この男性が84年から93年まで、プレトリア郊外の南ア原子力公社(AEC、現在は南ア核エネルギー公社)ウラン濃縮工場に勤務した技術者で、核兵器の材料として使われる高濃縮ウラン製造用の遠心分離器を扱っていたと明らかにした。問題の遠心分離器の部品は男性自身が原子力公社勤務当時に得た知識を生かして製造したという。
 遠心分離器はウラン濃縮の核心にあたる機器でその構造や性能は核保有国にとっては極秘事項だ。
 男性はAECを退職した後、ヨハネスブルク近郊のプラント製造会社に勤めていたという。
 事件では、男性に部品の製造を依頼したとして、南アに住むドイツ人ら2人も同時に逮捕された。このドイツ人は、パキスタンの核開発者カーン博士を中心として核兵器開発の物資や技術を供給してきた「核の闇市場」の欧州での重要人物とみられている。80年代から博士に協力してきた闇市場の欧州の中心人物ゴットハルト・レルヒ氏とも密接な関係を持ち、リビアに核開発関連物資を供給していた疑いがもたれている。
 バーデンホースト弁護士は「男性は遠心分離器の部品製造が違法と認識していたが、闇市場で使われるとは知らないまま、依頼人の求めに応じた」と弁明した。
 捜査の結果、男性が勤めていたプラント製造会社からは、船積み用コンテナ11個分の遠心分離器の部品や仕様書が押収された。男性は容疑を認めて検察側の証人となる司法取引をしたため、訴追を免れた。依頼人2人は公判中。
 依頼人が勤める民間企業は80年代、AECにウラン濃縮関連機器の部品を納入しており、取引を通じて男性は依頼人らと知り合ったとみられる。
 南アは70〜80年代に「広島型」の原爆6発を完成させ、91年に廃棄した。93年当時のデクラーク政権が一連の経過を公表。関連文書や職員名簿は廃棄したと説明している。
 核兵器廃棄を実施した元AEC総裁のワルド・ストンフ氏(現プレトリア大学教授)は「原爆開発には1000人以上の技術者がかかわったが、名前などは一切公表していない。原子力公社元職員の闇市場への関与が明らかになったのは、初めてだと思う」と話した。

南ア、小型核数十発を製造 93年の全廃宣言で触れず
2005年04月11日03時06分

 核兵器の廃棄を93年に宣言していた南アフリカが、当時廃棄したと発表した6発の核兵器のほかにも、数十発の小型の核兵器を80年代までに開発して保有していた、と同国の核開発や軍関係者らが明らかにした。小型核は威力が広島原爆の数分の1以下で、実戦で使いやすいと考えられていた。その後「小型核は解体された」というが、実態は不明だ。核拡散の問題は昨年明らかになった「核の闇市場」の存在で深刻さが浮き彫りになったが、南アに未公表の核が存在した可能性が浮上したことで、核廃棄を宣言した国での検証や情報開示のあり方も根本から問い直されそうだ。
 南ア政府は93年3月に過去の核開発の事実を明らかにし、すでに完成させていた核兵器6発と、製造途中だった1発を廃棄した、と発表した。核兵器は重さ約1トンの「広島型」で、これらが南アが過去に開発した核兵器のすべてとしていた。しかし、朝日新聞社の取材に応じた南アの国家情報機関幹部は、「80年代に保有されていた核弾頭は数十発で、国営兵器公社と軍の一部だけで管理されていた。核弾頭の中には、巡航ミサイルや長距離砲にも使えるほど小さなものもあった」と明かした。
 この核兵器の管理にかかわった軍の元幹部は「公表されていたものとは別に、サッカーボール程度の大きさの核兵器があった」と述べた。核兵器開発に携わった原子力公社の元幹部は、小型核の技術水準について「80年代では世界で最高レベルの技術だった」と、いずれも小型核の存在を認めている。
 核兵器の行方について、同公社元幹部は「小型核は解体されたはずだ。私は引退したので詳細は知らない」と語った。93年の廃棄宣言で、なぜ数十発の小型核の存在が公表されなかったのかは不明だ。実際に解体されて処理されたのかどうかも、謎に包まれている。
 小型核は戦術核とも呼ばれ、大陸間弾道ミサイル(ICBM)などに搭載される戦略核と区別されてきた。最大の保有国は米国と旧ソ連で、冷戦時代は双方合わせて2万発以上を保有した。爆発規模は広島原爆の数分の1以下で、破壊力の巨大な戦略核と比べ、実戦で使いやすいと考えられていた。
 南アは70〜80年代、アンゴラに駐留するキューバ軍が侵攻することを恐れ、抑止の核兵器開発に取り組んでいた。小型核については、南アの黒人学者らを中心とした非政府組織「歴史公文書室」が、情報公開法に基づいて軍の最高機密文書を入手している。75年3月付で、軍参謀総長が各軍首脳に「アンゴラなど周辺諸国の脅威に対抗するため、迎撃されにくい戦術核ミサイルや小型核爆弾などを配備する必要がある」と述べている。
 南アの核兵器廃棄宣言を受けて査察した国際原子力機関(IAEA)は、核兵器に使われていた高濃縮ウランが研究用原子炉の燃料に転用され、核開発施設も閉鎖されたことなどを確認した。南ア政府は関連資料をすでに廃棄していたため、兵器用の高濃縮ウランの保有量や開発の全体像は不明のままだった。



南ア小型核製造について-神浦元彰

 すでにこのホームページでは南アとイスラエルが共同で、1979年9月22日小型核砲弾を南ア近くの洋上で核実験したと書いている。1977年8月には南アのカラハリ砂漠で核実験を試みた時は、広島型のウラン型原爆を櫓(やぐら)の上で爆発させる計画だった。しかしこの櫓をソ連の偵察衛星が探知してアメリカに通報した。それでアメリカが南アを説得して核実験を中止させるという経緯があった。
 しかし広島型のウラン核爆弾は核実験が必要ない。構造が単純で複雑な起爆装置を必要としないからだ。事実、広島に投下されたウラン原爆は核実験なしで投下されている。しかし小型化できる長崎型のプルトニューム原爆は、起爆装置が精密・複雑で核実験なしに核保有はできない。だから長崎に原爆が投下される前に、プルトニューム型原爆はアメリカの砂漠で核実験されている。このプルトニューム核実験を南アは1979年9月に洋上で行ったのである。使われたのは核砲弾だった。当時のアメリカはカーター大統領の時代であるが、あわててこの核実験を隠蔽する米政府の工作が面白い。南アが行った核実験の1ヶ月後にアメリカのマスコミが知ると、米政府は洋上の大爆発(核実験)を隕石が原因と公表したのである。
 ところが南アに初の黒人政権(マンデラ大統領)が誕生する94年の前年(93年)に、白人の南ア政府は世界に向けて核兵器の破棄を宣言した。黒人政権に核兵器が渡ることを恐れたのである。そして原爆の核弾頭は実験用原子炉の燃料などに再使用された。
 そこでこの記事の目的である。今の南アの白人右翼組織は、マンデラ大統領の死後に強い危機感を持っているのだ。マンデラ大統領が老齢で死ぬような事になれば、彼ほどカリスマを持っている政治家は存在しない。最悪の場合、ジンバブエのように白人追放政策を主張するものが出てくる可能性がある。そのような極端な動きを、白人右翼は核兵器で威嚇しているのではないか。「もし我々を南アから追放すれば、核兵器で攻撃する」という追放抑止論である。そのことを主張するために、朝日新聞の記者に白人右翼は核能力を誇示して見せたと思う。
 しかし93年当時、IAEAが徹底して南アの核開発施設を解体・封印した。また小型核兵器もすべて破棄されたと見て良いのではないか。当時の白人右翼組織は、マンデラ新大統領の死後を恐れたのではなく、あくまで黒人政権が核兵器を持つことを恐れていた。もし隠した小型核兵器が発見され、黒人政権に渡ることを恐れたはずである。ましてそれが核兵器の闇市場に出ることなど想像外である。これはハリウッド映画のストーリーとしては面白いかもしれないが、それが現実になると悪夢以上のものがある。
 だがこれは新しいタイプの核兵器の抑止効果を考えた謀略になるのは間違いない。
※南アとイスラエルの核実験については、私が書いた軍事小説「北朝鮮 最後の謀略」(二見書房 1994年刊 52ページ)にさりげなく書いてあります。
【私的めもらんだむ】
アメリカとイスラエルの小型核爆弾共同開発について

「1945年から85年までの間に、アメリカでは1日あたり4発、合計6万発の核弾頭が製造されたと推定される。116の兵器システム用であり、大は都市攻撃用の超大型熱核兵器から、小はジープ搭載バズーカ砲用の小型核砲弾まである。--中略--イスラエルは1973年には少なくとも20発の核弾頭を持ち、ヒルバット・ザカルヤには少なくとも3台のミサイル発射台があり、プロジェクト700の一環として製造された移動式のジェリコT発射台も保有していた。1971年からは、ミサイルでアラブ諸国の首都とソ連南部を攻撃できるようになっていた。また、核兵器を搭載できるF4戦闘機の飛行中隊があり、レホボットに近いテルノフ空軍基地の地下格納庫に、24時間いつでも飛び出せる状態で待機していた。特別訓練を受けたF4戦闘機のパイロットはイスラエル空軍のエリートであり、部外者に任務を話すことを固く禁じられていた。行動半径の広いF4を使えば、モスクワまで核兵器を抱えて片道飛行はできる。
 この頃には、ディモナの技術陣が核弾頭の小型化のための基本的な問題を、ほぼ解決していた。核弾頭が小さくなったことから、核兵器の設計にあたって様々な方向を選べるようになった。例えば、戦場で用いる小型の戦術核を開発できるようになった。アメリカもこの動きに一役かっている。1970年代はじめにイスラエル国防軍に175ミリと203ミリの長距離砲輸出を許可。射程40キロのこの大砲が、イスラエルの核オプションの1つに組み込まれた。アメリカ情報機関はのちに、イスラエルが長距離砲の砲身を2本、縦につないで、射程を70キロ以上に伸ばす実験を行ったことをつかむ」
---セイモア・ハーシュ著「THE SAMSON OPTION」262-263頁より

【視聴予定】
19時
30 クローズアップ現代 大水害 高齢者をどう守るか



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