長崎は9日、59回目の「原爆の日」を迎えた。爆心地に近い長崎市松山町の平和公園では、「長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」が開かれ、被爆者や遺族、小泉純一郎首相らが参列、犠牲者の冥福を祈る。伊藤一長市長は平和宣言で、核廃絶への道を共に歩むことを米国市民に直接訴え、最大の核保有国である米国に核軍縮への転換を求める。
午前10時45分からの式典では、今年7月末までの1年間に新たに死亡が確認された2707人の名前を記載した原爆死没者名簿3冊が納められる。これで死没者は13万4592人となる。
原爆が投下された午前11時2分、「長崎の鐘」などが鳴り響き、参列者が1分間の黙とうをささげる。
伊藤市長は平和宣言で、「アメリカ市民」へ直接語り掛ける。核拡散の阻止には米国の姿勢転換が不可欠と指摘し、人類生存のため残された道は核兵器の廃絶しかないことを訴える。市民・主権者への初の呼び掛けについて、同市長は「核の問題を知ってもらい、米国政府に働き掛けをしてもらいたい」との狙いを事前に説明していた。 (時事通信)
★長崎平和宣言
第二次世界大戦の末期、58年前の8月9日、午前11時2分。米軍機が投下した一発の原子爆弾は、松山町の上空約500メートルで炸裂しました。熱線と爆風、放射線が一瞬にして人とまちを襲い、長崎はこの世の地獄となりました。死者7万4千人、負傷者7万5千人。死を免れた人々の多くは、身体と心に癒すことのできない深い傷を負い、今なお原爆後障害や被爆体験のストレスによる健康障害に苦しみ続けています。私たちは、このような悲惨な体験を繰り返してはならないと、核兵器廃絶と世界平和を訴え続けてきました。
★長崎原爆資料館
★原爆の物理学的影響(広島・長崎)
長崎に投下された原子爆弾(ニックネ−ム・Fat Man - 太っちょ)は、1945年8月9日午前11時2分、長崎市北部の浦上、松山町171番地のテニスコートの上空、高度約500m付近で炸裂しました。この原子爆弾には、プルトニウム239が使われ、その威力はトルニトロトルエン火薬約21キロトンに相当しました。そのエネルギー分布は広島型原爆と同じく、爆風50%、熱線35%、放射線15%と言われております。爆風は、爆心地から約5Km地点まで、熱線は約4Km地点まで、また、放射線は約2.5km地点まで達したと推定されております。
●広島・長崎原爆:原料ウラン購入、米がベルギーと戦中密約
【ブリュッセル福原直樹】広島、長崎に1945年、投下された原爆などの原材料となったウラン鉱石の供給を確保するため、米国がベルギーとの間で独占購入権を結んだ秘密協定の全容が4日、ベルギーの歴史家の調査で分かった。米国は第二次世界大戦中、ベルギーが当時の同国領コンゴ(現コンゴ民主共和国)で採掘したウラン鉱石約3万トンを1億ドル近くで購入し、戦後の冷戦下にも協定に基づいてウラン購入を続けていた。広島、長崎の原爆製造にコンゴ産ウランが使用された事実は知られているが、ウラン鉱石の売買をめぐる秘密協定の詳細が判明したのは初めて。
協定文書は、ブリュッセル自由大学のバンデルリンデン教授(ベルギー史)がロンドンの英国公文書館で発見した。
同教授によると、ベルギーの国策会社が大戦前から旧植民地の現コンゴ民主共和国の南部でウラン鉱石を採掘。39年、同社は販路を北米に求め、米やカナダにウラン鉱石を輸送して貯蔵、陶器着色剤や医療用ラジウムの原料として販売を始めた。
これに着目した米国の「マンハッタン計画」担当者が42年9月、ニューヨークの同社事務所を訪問して売買契約を結び、44年までにウラン約3万トンを同社から購入した。しかし、さらにウラン供給を確実にするために同盟国の英国とも協議。44年8月、ベルギー亡命政府(ロンドン)と秘密協定を結んだ。当時、ベルギーはナチスドイツに占領されていた。
協定文書は、ウラン供給協定の目的を「文明擁護のため」と明記。▽米国、英国は軍事用にウランの独占購入権を持つ▽ウラン採掘に米英が資金を提供する▽将来的にベルギーに核の平和利用の技術を提供する−−などを規定している。またウランを「Q11」、ラジウムを「K65」などと暗号化し、輸出入文書に使うよう決めた。45年から協定が期限切れとなった60年までのウラン輸入は約1.5万トン、約1億5000万ドルに上った。
一方、ベルギー政府は秘密口座を設置し、同社から売り上げの一部を税金として徴収するなどして1400万ドル以上を貯蓄。口座の管理は政府幹部2人だけで行った。
同教授によると、広島、長崎原爆の原材料となったウランの少なくとも約75%はコンゴ・ルートで入手したものが使用された。また米国は大戦後の核兵器製造にもコンゴのウランを大量に使用したとされる。
◆ことば◆マンハッタン計画
1942年6月に発足した米の原爆開発計画。米陸軍がニューヨーク市マンハッタンに事務所を開設、ウラン鉱石を集めた。
45年1月にオークリッジ(テネシー州)にウラン濃縮工場、
ハンフォード(ワシントン州)にウランから製造するプルトニウムの生産施設を設立。
45年7月にニューメキシコ州でプルトニウム型原爆の実験が成功。
広島用の原爆は濃縮ウラン、長崎用はプルトニウムが使われた。英国は研究者を米国に送り、同計画に協力。一方、ドイツは資源不足などで42年に原爆製造を断念した。
(毎日新聞)
【私的めもらんだむ】
10時
冒頭の写真は長崎への原爆投下直後の現場をコラージュしたものだが、背景の横たわる人々は三菱軍需工場で働いていた人々で、その多くは勤労奉仕で働いていた少女だったという。最近では教育関係者の間からも「悲惨な現状を伝えるばかりが反戦の意志表示とはならない。無惨な死体を見た子供たちが、そのショックで人間不信に陥る危険がある」という声が出ている。人間不信・・・戦争においては「まさに」その通りであろう。累々たる死体の山を見て「人間とはいったい何なのだろう?」と、自分を含めた人間不信を実感しないものはいないだろう。だからこそ我々は逆に戦争を直視する必要があるのではないか?惨酷だからといって戦争の実際を隠蔽しようとすることにこそより危険が潜んでいるような気がする。私は内臓を抉り出すような悲痛を込めて叫びたい「さあ、子供たちよ、ごらん、これが戦争だ!」忌まわしい戦争を・・・二度と繰り返さないために・・・
15時

上の写真は道ノ尾付近で被曝した田中キヲさん、そして80歳になった当時の写真だ。キヲさんは乳飲み子を寝かして野良仕事をしている最中に被曝した。子どもは数年後に死亡したという。原爆投下直後の焼け跡に立つ人々は、一様に放心したまま立っているのが精一杯だったという。
右の映像は爆心地付近の自宅跡に立つ、当時16歳の龍智江子さん。彼女の後ろには母親の遺骸が横たわっている。彼女は母親がいつも刺しているカンザシで、自分の母親であることを認識したという。これが自分だったら・・・多分半狂乱になっただろうと・・・しかし、原爆はそんな人間感情さえ吹き飛ばしてしまうようだ。映像はいずれも「NHKアーカイブス
ヒロシマナガサキの記憶(03)長崎映像の証言」より引用した。
★原爆の詩-以下「ヒロシマの空」部分抜粋
ああ、お母ちゃんの骨だ。ああ、ぎゅっとにぎりしめると白い粉が風に舞う。お母ちゃんの骨は口に入れると、さみしい味がする。たえがたいかなしみが、のこされた父とわたしを襲いかかって、大きな声をあげながら、ふたりは骨をひらう。菓子箱に入れた骨は、かさかさと音をたてる。弟はお母ちゃんのすぐそばで、半分骨になり、内臓が燃え切らないでコロリところがっていた。その内臓にフトンの綿がこびりついていた。死んでしまいたい!お父ちゃんは叫びながら弟の内臓をだいて泣く。焼け跡には鉄管がつきあげ、噴水のようにふきあげる水が、あの時のこされた唯一の生命のように、太陽の光を浴びる。わたしはひびの入った湯呑み茶碗に水をくむと、弟の内臓の前においた。父は配給のカンパンを出した。わたしはじっと目をつむる。お父ちゃんは、生き埋めにされたふたりの声をききながら、どうしようもなかったのだ。(中略) ふと、お父ちゃんは虚空をみつめ、風がひどい・・・嵐がくる・・・嵐が、といった。ふぅーっと大きく息をついた。そのままがっくり、くずれて、うごかなくなった。ひと月もたたぬまに、わたしはひとりぼっちになってしまった。涙を流しきったあとの、焦点のない、わたしのからだ。前を流れる河をみつめる。うつくしい、晴れわたった、ヒロシマの、あおい空。
17時
●蒸気漏れで5人心肺停止 美浜原発3号機の建屋内
経済産業省原子力安全・保安院に入った連絡によると、9日午後3時半ごろ、関西電力美浜原発3号機(加圧水型、82・6万キロワット)のタービン建屋内で蒸気漏れが発生した。保安院によると、11人が負傷。地元消防によると、うち5人が心肺停止状態という。
原子炉は自動停止した。放射能の外部への漏れはないという。
2次循環系のトラブルで蒸気が漏れたとみられる。タービン建屋には蒸気が充満しているという。関西電力が詳しい原因を調べている。
★美浜原発ホームページ
★蒸気発生器展示館
蒸気は200度の高温、11人負傷うち7人重症、1人意識不明の重態。さらに9人が負傷と、情報が交錯し、そのまま報道されている混乱状態。5人が心肺停止なら、5人とも意識不明の重態と認識すべきだろう。放射能漏れはないので地域住民に避難勧告は出さないとか、この非常時においても安全性を強調しているのも腑におちない。原子炉が自動停止したのが午後4時半頃、それから10分後に5人が心肺停止と発表されていることから、相当に緊迫した状態だったことが窺がえる。しかし、午後3時半に蒸気漏れが発覚したのなら、1時間後に原子炉が自動停止するのは遅すぎるのではないか?こうした一刻を争うような場合、手動停止すべきだと思うのだが、今後の報告を待つことでしか分析も出来ない。
以下、過去の関連情報
★蒸気発生器に板状の異物 美浜原発3号機 2000/08(阿修羅掲示板)
美浜原発3号機内の蒸気発生器にある三本の伝熱管の間に、約四―五センチ四方の板状の異物がはさまっていると発表した。異物は金属とみられ、関電は取り出して調べることにしている。福井県原子力安全対策課によると、伝熱管三本に管の厚みが減っている信号が出たため点検した結果、異物が見つかった。約一・三ミリの伝熱管の厚みは最大で約半分になっており、異物が周囲を削ったとみられる。異物は蒸気発生器内のものの可能性が強いという
。
★Subject:91-05-10福井県三方郡美浜原子力発電所事故について(日本弁護士連合会)
去る2月9日、福井県三方郡美浜町の関西電力美浜原子力発電所2号機(出力50万キロワット)で発生した事故は、わが国で初めて緊急炉心冷却装置(ECCS)を本格的に作動させた重大事故である。通産省及び関西電力の発表によると、事故は格納容器の中の蒸気発生器の第6支持板付近の細管が金属疲労に因り完全に破断した、いわゆる「ギロチン破断」であり、そのために20数トンの一時冷却水が漏出したと推定されている。また、事故当時、細管の振動を防止する固定金具が設計位置に付けられていなかったことや、2つの加圧器の圧力逃し弁が作動しなかったことも明らかとなっている。
【視聴予定】
21時
00 体いっぱいで原爆を語りつぐ 長崎・ろうあ被爆者の記憶▽あの日、爆心地の自宅へ▽衝撃を伝えるこん身の手話 NHK総合テレビ
昨年、長崎原爆の平和祈念式典で、山崎栄子さん(七七)はろうあ者として初めて被爆の惨状を訴えた。山崎さんの活動を見つめ、ろうあ被爆者の苦難の半生をたどる。 山崎さんの手話による”証言”は大きな反響を呼んだ。「原爆」とは一体何なのか。正確な情報が伝えられず、被爆体験を表現する機会もないまま、この世を去ったろうあ被爆者も多い。山崎さんはそんな仲間たちに代わって「語り部の旅」を始めている。
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