広島市内で開かれていた二つの原水爆禁止世界大会は6日、それぞれ閉会の集会で米ブッシュ政権の核政策や小泉政権の「対米追随姿勢」を批判、「核兵器使用の危機」と来年の被爆60年に向けて新たな取り組みを呼びかける決議やアピールを採択した。両大会は7日から舞台を長崎に移す。
原水爆禁止日本協議会(原水協、共産党系)などの「閉会総会」には約7000人が参加。来年5月の核不拡散条約(NPT)再検討会議に向けて「いま、核兵器の廃絶を」とする署名運動や、日本政府に非核三原則の厳守・法制化、「核の傘」からの脱却を求める「広島からの呼びかけ」を決議した。
原水爆禁止日本国民会議(原水禁、旧総評系)などによる「まとめ集会」には約650人が参加。原子炉事故や米国がイラク、アフガニスタン攻撃に使った劣化ウラン弾などにより「いまなお世界中でヒバクシャがつくり出されている」とし、「世界のヒバクシャと連帯し、『核絶対否定』の思想を広める」と訴えるヒロシマ・アピールを採択した。
★なぜ広島に原爆が投下されたのか
▽マンハッタン計画▽
1942(昭和17)年8月、米国は原爆製造のため、「マンハッタン計画」に乗り出しました。44年9月にはこの新兵器を日本に対して使用することを決めました。そして45年7月16日、米国西部ニューメキシコ州の砂漠地帯にあるアラモゴード実験場で、世界最初の原爆実験を成功させました。広島に原爆が投下される、ほんの3週間前の出来事でした。45年5月までに、ドイツは無条件降伏し、戦況は連合軍の圧倒的な勝利に傾いていました。
▽急がれた原爆投下▽
米国が原爆投下を急いだ理由は、次の3点にあると思われます。
1-日本をできる限り早く降伏させ、米軍の犠牲を少なくしたかった
2-1945(昭和20)年の米、英、ソ連の首脳によるヤルタ会談で、ソ連はドイツの降伏から3カ月以内に日本に参戦することを極秘に決めていた。米国はソ連の対日参戦より前に原爆を日本に投下し、大戦後世界でソ連より優位に立ちたいと考えていた
3-米国は原爆という新兵器を実戦で使い、その威力を知りたかった
★第5回 米国における人体実験と政策
3. 第二次大戦後1950年代にかけての米国における人体実験の実施基準と実際
放射性同位元素を患者に投与する実験は、原子力委員会が発足する以前から、マンハッタン計画の一環として、全米の研究機関で行われていました。1947年1月1日に発足した原子力委員会は、それらの実験を自らの委託研究へと移行させる際に、一定の規則を定める必要性について「暫定医学諮問委員会
Interim Medical Advisory Committee」を組織して議論しました。顧問弁護士たちは被験者自身の書面による承諾を得るよう提案しましたが、暫定委員会委員長スタッフォード・ウォレンらの意見を入れて、最終的には「治療に先立ち、各々の患者は、説明を理解できる状態にあり、治療の本質と副作用について明確に説明され、当該治療を受けることに同意を表明(?)した、ということを公の記録によって証明できる」「[この公的記録とは]少なくとも2人の医師が、患者の理解状況と、説明の内容と、治療を進んで受け入れた(?)こと、書面で証明する」(87) といった条件を含む報告になりました。こうした条件は、原子力委員会の初代事務局長 General Manager キャロル・ウィルソンが1947年4月にウォレンに送った書簡で、原子力委員会の規則とすることが宣言されました。
★原爆の物理学的影響(広島・長崎)
広島に投下された原子爆弾(ニックネ−ム・Little Boy - ちびっこ)は、1945年8月6日午前8時15分、原爆ド−ム(当時の広島県産業奨励館)に近い、島病院の上空、高度580m
点で炸裂しました。この原子爆弾には、ウラニウム 235が使われ、その威力はトルニトロトルエン火薬約15キロトンに相当しました。そのエネルギ−分布は、爆風50%、
熱線35%, 放射線15% と云われております。爆風は、爆心地から約4km
地点まで、熱線は約3.5km 地点まで、また、放射線は約2km
地点まで達したと推定されております。
★原爆-リンク集
★平和都市、ヒロシマの願い
1945年8月6日、広島市は人類史上最初の核兵器の惨禍を蒙りました。 核兵器はその後、量的にも増大し、質的にも高度化し、人類の生存そのものを脅かしています。
この危機に対して、世界に軍縮を求める世論が高まり、核軍縮に向け実質的な歩みが始まりました。しかし、今なお、多数の核兵器が蓄積されており、核兵器保有国が増加するおそれもあり、私たちはより一層、核兵器の廃絶と世界恒久平和確立への努力を強めなければなりません。 この写真集は、広島に投下された原子爆弾による惨禍を記録したもので
あります。
★国立広島原爆死没者追悼平和記念館
平成16年度企画展「しまってはいけない記憶−体験記にみる救援・救護活動」を開催しています
国立広島原爆死没者追悼平和祈念館とは、国として、原子爆弾死没者の尊い犠牲を銘記し追悼の意を表すとともに、永遠の平和を祈念するためのものです。併せて、原子爆弾の惨禍を全世界の人々に知らせ、その体験を後代に継承するための施設です。
【私的めもらんだむ】
11時
天地創造での神さまの僅かな手違い、水素創造過程における余計な中性子と、ウラン創造過程における中性子の不足分が、やがては地球上に地獄の大王プルトーンを目覚めさせてしまうことになろうとは・・・神の僅かなミスは初めから天地創造の俎上にあったものなのか?神よ、教えてほしい。それでないと、あなたは地上に悪魔の台頭を許してしまったことになるのだから・・・ヒロシマ・ナガサキの原爆犠牲者は神の計画には必要不可欠だったのかと・・・焼き尽くされた彼らの断末魔の悲痛が今も私の心に痛いまでに迫ってきます。
ヒロシマに落とされた「ちびっこ」ウラン235に中性子がぶつかった瞬間の、閃光ピカドン・・・1945年8月6日午前8時15分の意味を考えている。それを基軸とした22日前の1945年7月15日には日本がすでに全面敗北の講和を申し込んでいたことを、少なくともジェームズ・フォレスタル国防長官は知っていたはずだ。彼自身の日記にそう記録されている。また2ヶ月前の6月1日には予告なしの迅速な原爆投下を決定した委員会が成されている。
議長はヘンリー・スティムソン・・・ハワード・タフト内閣で陸軍長官、フーヴァー内閣では国務長官、ルーズヴェルト内閣とトルーマン内閣でまた陸軍長官と、華々しい経歴をもつこの人物は、モルガン商会の顧問弁護士にしてロックフェラーと連なる銀行を上客とする法律事務所を経営していた。
そして議長代理ジョージ・ハリソンは「NY生命保険会社」社長にして、その重役はモルガン商会から派遣されていた。
委員ジェームズ・バーンズはモルガンの息のかかった「ニューモント鉱業」の重役だ。
同じく委員ヴァネヴァー・ブッシュは「マサチューセッツ工科大学」管財人だが、ここに「スタンダード石油」「ゼネラルモーターズ」「デュポン」らが多額の献金をしていた。「カーネギー財団」管財人でもあった彼は、原爆開発始動「ウラン委員会」議長として、マンハッタン計画の企画本部を組織している。
同じく委員カール・コンプトンはブッシュの上官にして「マサチューセッツ工科大学」総長だが、のちに「ウラン委員会」の委員長となっている。
同じく委員ジェームズ・コナントはモルガンから多額の資金援助受けた「ハーヴァード大学」総長にして「デュポン」顧問でもあった。
【視聴予定】
22時
00-23:30 ETV特集「バチカンと現代世界」 イラク戦争・ローマ教皇、動く▽一般的な平和よりも具体的な戦争反対を▽”第三者”が持つ倫理的な力 加藤周一 西谷修 NHK教育テレビ
暫定政府は発足したものの、いまだ混乱が続くイラク。世界に吹き荒れる市民を巻き込んだ無差別テロと報復の嵐。9・11同時多発テロ後、世界の不安と恐怖は増幅している。
唯一の超大国アメリカがテロとの戦いにまい進する中、民族・宗教を超えた対話をよびかけ、国際社会に「殺すな」という平和のメッセージを送り続けている存在がある。世界11億人の信者を擁するローマ・カトリック教会の総本山、バチカンとそのリーダー、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世だ。教皇は東西冷戦の最中、強力な指導力を発揮して出身国ポーランドの民主化運動を支援し、ソビエト共産主義の崩壊と冷戦の終えんに大きな影響力を与えた。年を重ねるにつれ世界情勢にますます積極的に関与し、去年はイラク戦争を回避しようと、アメリカ、イラク、国際社会に異例とも言える直接的な働きかけを行った。結局戦争は止められなかったが、6月にはブッシュ大統領が訪欧のスケジュールを繰り上げてまでわざわざ教皇を訪ね、その苦言に率直に耳を傾ける姿を示すなど、アメリカでさえ無視できない大きな存在となっている。
84歳になり、重い病をおしてまで反テロや平和を訴える「神の代理人」ヨハネ・パウロ2世の姿と、千数百年の歴史を持つバチカンが現代社会にどう向き合ってきたかを見ながら、21世紀、アメリカ的価値観の前に立ちはだかったもう一つの価値観を考える。
出演: 加藤周一(評論家)
西谷修(東京外国語大学大学院教授)
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