03/09/25 (木)
1966年、南ベトナム軍を指揮するウェストモーランド司令官
 先の日誌で私は北ベトナムの解放戦線死傷者を約227万人と書いたが、これは百科事典「マイペディア」を参考にしたものである。当初、ペンタゴンが策定した北ベトナムの兵力総数はおよそ27万人とされていた。すると200万人もの格差は何なのだろう?
 アメリカがベトナム戦争に介入してから6年後、主任分析官サム・アダムズはこの数字に疑問を抱き始めている。その時点で、ラングレーは60万も下回る数字を出して捏造している、との結論に達した。つまりは意図的に過小評価している、というのだ。軍事情報将校リチャード・マッカーサーは1967年当時、南ベトナムの潜伏ベトコン兵力を8万と報告、それが半数の4万に減らされて報告されていることを知り、上官に抗議している。その上官の返答に彼は唖然とした。上官はこう言ったのだ「ちょっと嘘をつくだけだ」・・・これを拒否したマッカーサーは倉庫係に左遷された。
 同じ1967年の8月20日、南ベトナム援助軍副司令官クレイトン・エイブラムズ大将はワシントンに向けて最高機密扱いの電報を送っている。

「ここ数年来、我々は成功のイメージをつくりあげた。万が一、もっとも高い数字が公表されるようになれば、どんなに有効な警告や説明を行ったとしても、マスコミが誤った悲観的な結論を引き出すのを阻止することは出来なくなる。そうすれば戦争への間違った見方を抱く者が激増し、我々の任務は困難なものになる」

 これを受けたウェストモーランドら派遣軍首脳は「敵兵力の数字を30万前後にとどめておくべきだ」と援護している。
 これにCIA情報副本部長ポール・V・ウォルシュは「当本部からすれば、サイゴン側の状況説明は寵臣ポチョムキンが女帝エカテリーナにニセ領地を見せて以来、最大のイカサマと云わねばならぬ」と皮肉った。しかしウォルシュは軍の圧力に屈して「我々は戦闘秩序にみられる敵兵力の推定が、全般的に敵兵力の実力を過小評価するものと考えるが、それでもその評価がサイゴンで合意をみた数字と合致しなければならぬという責務は認めざるを得ない」と苦し紛れの決断をしている。

 勢いづいたウェストモーランド司令官はさらに「敵兵力は24万人に減少した」と公表したが、実際には北ベトナム軍が毎月2万人ずつ南下していたことを知っていて、その数字を6千に捏造してワシントンに報告していた。そして翌1968年1月30日早朝、アメリカ軍将兵2200人が犬死するテト攻勢が行われたのである。数字では勝利していた、敗戦であった。ウェストモーランド司令官らは敵兵力を意図的に過小評価、ために自国を敗戦に追い込んだのである。実に奇怪なことであった。彼は1965年から1年間に17万から54万人へと派兵を3倍も激増させた張本人でもあった。ウィリアム・C・ウェストモーランド司令官の正体は今もって謎だが、彼のベトナム戦争で果たした負の役割とその正体は、後世において暴露され驚きをもって迎えられることだろう。また、そうでなくてはならない。
 映画「7月4日に生まれて」のロン・コーヴィックのように、あたら若い命とその青春を戦場の地獄に失わなければならなかった悲劇を、それらを奪い取って平然としている為政者権力を許してはならないのだと・・・私たちはベトナム戦争に何を学んだのだろう?それらが教訓となって、より平和な世界が現出したのであろうか?いまを平和だと、そう思っている人がいるとすれば、コーヴィックが両親の偽善を、罵倒したその言葉を、もう一度ぶつけたくなる。

連中はこう教えた、戦え!殺せ!共産主義を阻止?ボクは女、子どもを殺してしまったんだ。教会も、共産主義は悪だと教えた。戦うよう後押しした。汝、殺すなかれ、ボクらにそう教えただろ?連中は今もまだ殺しまくっている。この国は滅ぶ!神はいない、この脚みたいに死んだんだ!残ったのはボクと車椅子だけ、一生このままなんだ。

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