コロンビア号事故の原因が絞り込まれてきたようだ。先月16日の打ち上げ直後に燃料タンクの断熱材が剥離、それが左翼にぶつかり断熱タイルが剥がれた。大気圏を降下中のシャトル機体は3000度にも達することから、タイルの一部でも剥がれれば重大事故となるらしい。しかし、まだ調査段階で、今後新たな事故原因が出てくる可能性もあるだろう。タイルの脱落は打ち上げ直後に確認され、専門家と検討の結果「問題なし」の結論に達したのだという。燃料タンクは全長47メートルとして、それに37メートルのオービタ(シャトル本体)がコバンザメのように張り付いている。【参考・スペースシャトルの構造】 側面から見ると分かるが、全体像からオービタの翼の厚さはかなり薄く、左翼に断熱材が落下して当たる確率は少ない。モニターで確認できる落下物とすれば、その断熱材はかなり大きなものと推測される。いずれにしても燃料タンクからの剥離及び落下物が、素人考えながら、オービタの翼を直撃する確立は極めて少ないと思われるのだが・・・
昨日は今回事故死したイスラエルのラモン大佐に関連して書いてきたが、バビロン作戦での同僚アビエル・セラ大佐のことを引き続き書いてみたい。セラ大佐がポラードと出会ったのは1984年4月、マンハッタンはアッパーイーストサイドのユダヤ人の婦人科医師が主催するパーティ会場であった。そこでジョナサン・ポラードという内気そうな青年がセラ大佐に接触してきた。ポラードはメリーランド州スートランドの米海軍の対テロリスト警戒本部に勤めていた。最高機密に属する情報アクセス権を与えられていたポラードは、その資料をセラ大佐に手渡そうと云うのだった。最初はいぶかしげに思ったセラ大佐だったが、ポラードの話す内容に信憑性を感じ、イスラエル空軍情報部に彼の話した内容を問い合わせる。彼らにとっては願ってもない朗報だった。間もなく空軍参謀長から接触を密にするようセラ大佐に指示が出る。かくしてセラ大佐はポラードのスパイ活動担当となり、ポラードは憧れのスパイとなって極秘情報を次々と盗んではセラ大佐に渡していく。折りしもその頃のアメリカはロサンゼルス・オリンピックで沸きかえっていた。11ヶ月に渡るスパイ活動で盗んだ極秘情報はすでに1000件以上に達していた。しかし・・・ニューヨークにおけるG5のプラザ合意でドル安政策が成立した1985年9月、その二ヵ月後の11月21日にポラードは突然逮捕される。それを知ったセラ大佐の動きも早かった。彼はFBIの追求が及ぶ前にテルアビブ行きのエルアル航空機でニューヨークを後にしている。セラ大佐は諜報界の功労者としてイスラエルに帰還したが、ポラードに待っていたのは終身刑だった。そして、その翌年1986年1月28日、発射直後のスペースシャトル「チャレンジャー号」が大爆発を起こしている。それから17年後の今日、殆ど違わぬ日に、バビロン作戦での同僚ラモン大佐が「コロンビア号」で事故死したことになるのだ。この事故のニュースをイスラエルのセラ大佐はどんな思いで聞いただろうか。
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