日本教について

 

  1. 日本教について』 Isaiah Ben Dasan
  2. 「和」などに関するメモ
  3. ムラ社会型集団主義
  4. 「和」と自己実現
  5. 日本教とイザヤ・ベンダサン
  6. 日本教ロンリー派
  7. 政治とアニミズム
  8. 日本教のロゴス化
  9. 日本教へのブレーン・ストーミング
  10. メモ:日本教へのアプローチ
  11. 日本教の心性
  12. ヤポネスX
  13. 人間ピラミッド
  14. 「日本教」の探究
  15. 空体語と実体語(メモ)
  16. 日本教の数理的解析

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「和」などに関するメモ

 

 常に泡沫の輪(=和)が生まれては消える。しかもあらゆるレベルで二重三重に重なりながら…。集団がある機能を果たすべく組織化されたときに、その和は実体となって構成員を縛る。和はニューマ(pneuma、空気、雰囲気)となって、構成員の深層心理域に巣くう。理性の力でこれを統御することができるのは、米英アングロサクソン型の分析的知性(その淵源はユダヤ教の「神との契約」の思想)以外にない。和のニューマは最小構成単位が3人以上の組織体で発生する。集団の構成員が多いほどそれは肥大化するが、その本質は集団操作が必要な管理者のためのイデオロギーにほかならない。
 ちなみに政治活動の場合、和=派閥の発生のための所与は、権力の行使または接近、そして利権の獲得または保守に関する意志である。ただし、政治屋集団にあっても、政治派閥という構成員がせいぜい100人程度のレベルでは、権力掌握や利権獲得をめざした集団化=「親分と手下ども」の関係にとどまり、醜悪きわまりない叩き合いの闘争をあくことなく続けるのである。


企業人(エグゼクティブ)……いくつかの非常に有効な説得力のある戦略と効果的な戦術の提示を行い、またそれなりに実行もするが、必ず末尾に理想論(現状において非現実的な高邁なもの)を添加したがる。それが彼らのアキレス腱でもある。

政治家(または政治屋)……徹頭徹尾「現実的」で自分のこと(自己の権勢の拡大)しか考えていない。その視点は近視的であり、集団主義の「和」のイデオロギーを操りながら、常に自分にとって最大の利益をもたらす行動を選択する。

官僚(責任のない権力集団)……視点は中長期的で自負心は旺盛だが、決定事項に対する責任がないため、その政策は浮わついた戦略による安直な戦術の展開となり、一見思慮深そうな考えを開陳するものの、結局和のイデオロギーに取り込まれた前例踏襲に終わってしまう。このような人々(の集団)は真のエリートとはいいがたい。(では、真のエリートとは? それは、小室直樹先生や日下公人氏の最近の著作に垣間見ることができる。)

 


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ムラ社会型集団主義

 

 日本列島に稲作が伝来して3000年は経つといわれていますが、極東アジアのこの島国で、大切な水を共有しながら30世紀にもわたって!!営々と稲作(水稲)に従事してきたわけですから、あらゆる方面で、ムラ社会という集団主義が具現化しているわけです。

 このムラ社会(協働共同体)型集団主義では、滅私奉公というマゾヒズムに依拠した協働共同体ができるのは当然といえば当然なのであって、それが企業にも終身雇用・年功序列というかたちで醸成し、あるいは、過度に他人の目を気にするとか、みんなで渡れば怖くないとかいった他者指向の気質を育成し、その結果として、だれもが他人の「眼」によって行動を自己規制する「中心の虚ろな集団主義」が形成されました。

 この集団主義は、国家の指導管理者層が責任をとらないための(とるとすれば「一億総懺悔」の発想に見られるように、集団全体への責任転嫁によってあたかも集団の構成員全員で責任をとったかのような粉飾によって、責任の所在を曖昧にするための)格好の「システム」であり、そこでは、ほんらい指導管理者層のとるべき責任を「和」のイデオロギーを振りかざすことによって雲散霧消させてしまいます。

 その基本的な技法は、集団の「和」(=輪)を強く唱えながら構成員(国民)をイデオロギー的に金縛りにし、これと並行して、さまざまなレベルでの巧みな情報操作(特にマスコミ操作)を行って、山本七平氏のいう「空気」を醸成します。また、集団が比較的小さい場合は、いわゆる「声の大きい者」によって全体がズルズルと引きずられていきます。こんなところが、中心の空洞化した集団主義の特徴といえます。

 


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「和」と自己実現

 

いの >

 なるほど、「五里霧中」つまり方向さえもわからない状態から始める討論が、「目的追求型討論」ですね。 まさにそれは、川喜田二郎先生の提唱されるKJ法という発想法による会議の手法そのものです。KJ法の第一ラウンドなどは、まさに目的追求目的です。やり方さえわかっていれば、誰でも司会者になれます。 3人?いれば文珠の知恵と言うように小人数ならば、最高の民主主義教育のモデルだと先生は、「KJ法」 などの著作で力説されています。先生の文化人類学のフィールドワークから偶然生まれたこのカルタ風の発想法は、当初企業研修の手法として圧倒的な支持を持って受け入れられました。
 なにしろ「依らしむべし。知らしむべからず。」の江戸時代の庶民統治の知恵は、当時の企業全体にまだ残っておりましたので、言いたいことが言えるKJ法は、当時の企業にかなりのインパクトを与えました。今でも十分インパクトはあります。 前述のとおり、現在の企業ですら、ましてや学校の職員ではもちろん、「上から下の情報の流れ」 現場の生の声が管理層に上がる「下から上」への情報の流れは、今でも貧弱です。
 日の丸を国旗にしようかとしたあの問題を思い起こして下さい。NHK解説委員氏の発言では、文部省は日の丸の掲揚をしたほうが良いといった表現から、当然すべきという表現に変えようとしているとのこと。これが本当なら文部官僚は誰が誰の命令で国民に「上から下」の動きを強めようとしている のでしょうか。ちょっと熱くなってきましたが、これこそ読書感想にある松下教授の言われる「官僚主導」 型の国家を官僚組織は念頭に置いていると言わざるをえません。これでは、高血圧といっしょで上から下の動きが強すぎて、人は倒れます。 上から下とともにKJ法による会議で、下から上の動きと横同士の情報のうねりを作り上げたいですね。ま、とにかく教育現場での情報の交流、「放電」がおおいに必要でしょうね。

> 景


 ここでちょっと言わせてもらうと、政治における「上と下」の発想というのは、果たして適当かな、という 気がしています。確かに分かりやすい。お上は権力を握っているし、われわれは下々の者としてそれに平伏する。それが現実というものでしょうが、人間の集合意識(集合無意識ではない)からなる「現実」というシロモノは、 硬い壁のように見えてじつはコンニャクなんですね(笑)

 ですから、ぼくは、国家管理者たちのたむろする領域を 「上」とは思わないし、彼らを監視するぼくたちサイレントマジョリティの地平を「下」とも思っていません。 政治権力は彼らの内にある。しかし、かれらはわれわれの上に君臨するものではない。そうあってはならない。 ぼくたちがちゃんとした「国民」であるためには、そこの勘どころはきちんと押さえていなくてはならない、 とぼくはそう思います。

 でも、いのさんがいうように官主主義であることは 間違いありません。そして、さらにそれを強化しようとしている。けしからんことですね! 庶民には 聖徳太子の昔からの「和」のイデオロギーを押し付けておいて、相も変わらず政治批判の土壌を埋め殺している。国民による政治批判(と提案)のないとことに、民主主義は存在しません。日本ではエセ民主主義つまり官主民和主義が年中花ざかりです。

 ついでに言うと、「和」のイデオロギーこそは山本七平氏のいう「日本教」の根本教理だと、ぼくは考えます。これは国民国家の 樹立にとって最大の難物です。日本国民のほとんどは日本教徒ですから、この根本教理の前では金縛りにあったも 同然で、「和の精神」のまえでは、一言も反論できず、文句なしにひれ伏してしまうのです。しかし、「和」は、聖徳太子も含めて、国家管理者たちの統治のためのイデオロギーにすぎません。日本では、「和の精神」という日本教の根本教理でもって、庶民の牙を注意深く抜いておくのです。

 では、「和」の呪縛を解くものはなにか。そのキーワードは「自己実現」です。詳しくは、考えをまとめたうえで、後日申し述べます。ただ、ここで誤解してほしくないのは、「和」の底流にある<友愛>のメンタリティまでをも否定するわけではありません。この件については、もちょっと考えをまとめてからまたコメントします。あ、ついでに 補足しておきますと、政治における「上下」の発想は国家管理者たちの思うツボなんですね。垂直思考ではなく水平思考でいきましょう(^ ^)

 


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日本教とイザヤ・ベンダサン

 

 で、話は変わりますが、ぼくはいま、あのイザヤ・ベン・ダサンの『日本教について』を読んでいます。ウルトラC級の超弩級の発想が、ぼくのメルトした脳髄を震わせてくれます。 故・山本七平氏の『日本資本主義の精神』以来の知的興奮を味わえるなんて、幸せなことです。でも、この本自体はかなり古くて、 ぼくが高校時代に発行されていたようです。たぶん、当時読んでいても理解不能だったでしょうが(笑)

 E.Herbert Normanについては、『忘れられた思想家---安藤昌益のこと---』(岩波新書)をもっています。でも、昌益に関する他の著作同様まだ「積ん読」の状態です(笑) この本は確か絶版ではないかと思います。良書なので市民出版で復刊してもいいですね(^ ^) でも、版権は大丈夫かなあ(^ ^;;   

 基督教を精神的基礎にした「民主主義」に対して、昌益の唱える思想が別なスタイルの「民主主義」といってよいか、 ぼく自身としては、まだまだ彼のことよく知っているとはいえないので、躊躇してしまいます。でも、基督教精神によらないヒューマニズム?の持ち主であったことは 疑いを容れない事実---と思います。当時の牢固な封建制度(階級社会)からの人間存在の解放が、彼の胸中に激しい思想として燃え盛っていたわけですから。

 なにはともあれ、昌益の封建的階級制度の批判・労働礼賛・「自然(=気)」との合一といった「思想群」と 日本古来から育まれてきた(?) Isaiah BenDasanのいう「日本教」のロゴス化の融合の上に、新しいスタイルの「民主主義」の可能性が見えてくるのかもしれません。 でも、これだけではだめで(その融合体自体が「空体語」化してしまうため)、あの横井小楠の先鋭な実学思想が触媒の役割を果たしている必要があるでしょう。

 ところで、「日本教」のロゴス化とは、ぼくたち日本人を規定している「和」を代表例とした「空気(ニューマ)」を 言語化することで、知性で理解可能な「思想」として客体化することです。そのためには、やはり、欧米流の社会科学的(分析的)アプローチが必須となります。 唯一絶対神の足下で言語(思想)が化肉した存在である「人間」が、「人間性」に代表されるところの非言語的な、アプリオリな存在である「人間」を腑分けするわけです。 現代版「解体新書」といったところでしょうか。Isaiah BenDasanの著作や山本七平氏のいくつかの著作は、その先駆的な仕事といえるでしょう。

 そんなわけで、いのさんのおっしゃるベンダサンと故山本氏との関係ですが、ぼくも同一人なのかどうかは知りません。そうであるようでもあるし、ないようでもある…。 文体からすると違うような感じですが、決め手はありません。まあ、同一人であろうがなかろうが、書いていること(思想)が関心事なので、 どちらでもよろしいんじゃないでしょうか(^_^)

 で、いま『日本人とユダヤ人』を読み返していますが、この本はやはり突っ込みが 足りないですね。右から左へ流し読みができますから。中ほどの「日本の農業はキャンペーン農業」というくだりがちょっと注意を引く程度かな。 四季の移ろいのなかで、春から秋にかけて、一日刻みで「いっせいに」水稲の「製作」に取り組まなければなりません。日本の気候風土がそうさせるわけです。 その「作業」がなんと30世紀以上にわたって営々といとなまれてきた。いつの時代も人口の8割以上がその作業に従事してきた。

 武士道精神などというものは、この長さに比べると、ごく最近登場した(戦闘的支配階級の)ごくごく新しい「思想」です。 天皇制の端緒は、浅学のぼくとしてはいつからとは断定できませんが、大和朝廷勃興の頃とすれば3世紀というわけですから、稲作文化はそれよりも千年以上も長いことになります。 したがってぼくたちは、基本的には、この「直耕安食」の子孫であるといえるでしょう。そしてこの歴史的事実が「日本教」 のバックボーンをなしている、とぼくには思えます。「日本教」はすぐれて政治的な「思想」とベンダサンは看破していますが、天皇制や武士道精神は、「日本教」の統治(支配)に関する 章を担当しているのではないか…?と思われます(^ ^;;

 いずれにしても、まず、「日本教」そのものを ロゴス化することが肝要に思われます。いや、発想としては逆かもしれません。「人間」に化肉してしまっている「日本教」のドクトリンを言語(ロゴス=思想)に還元すること。この場合の「還元」はいわば「反・化肉(反・受肉)」ということであり、存在の淵源である「神(=言語)」の 世界(ユダヤ一神教の世界観)にまでコード変換することを意味します。

 ベンダサンはまさにこの作業をおこなったわけですが、 ぼくには少々不満です。もっともっと突っ込めると思います。突っ込んでどうするの? という批判めいた質問がでてきそうですが、 「日本教」を性格に把握することによって、日本人としての存立基盤(アイデンティティ)と国際人として活動する際の「自信」を確かなものにするのが狙いです。いずれにせよその成果は、わが愛するヤポンのなかで達成されるでしょう(^_−)v

 


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日本教ロンリー派

いの >

 私は、日本の中心には、自然崇拝のアニミズムがあるのだと思っています。日本の思想や発想の中心は、アニミズムです。 アニミズムとは、自然のあらゆるものに生命を見い出し、崇拝します。神道では、締め縄ですか?巨大な木に縄を張りますし、強い横綱にも綱、何か人間の力を超えたものを崇めるのです。色々な神社の崇拝の対象は、人間であったり、蛇であったり、狐だったり、竜だったりします。田んぼの中にも、滝にも、海にも、山にも、川にも、神社があり、手を合わせて崇拝するのです。アフリカでも自然崇拝だそうですが、日本古来の自然宗教はこのアニミズムだったのではないかと思っています。 この自然崇拝に於いては、あらゆる人間を超えるものにひれ伏すのです。東洋には拝跪礼というのでしょうか。頭を地面にこすりつける挨拶があります。これは極めてアジア的ですね。

 結局そういう心理的傾向は、人間を超えた自然のもならず、人間の作ったもの、具体的には文明や思想やそういものにまで、そういう姿勢で臨む傾向があるのでは(笑)という具合に、ちょっと飛躍があるかもしれませんが、そんな気がしています。一本筋の通ったというところが弱いという気がしてなりません。 ですから、中国はすごいと真似する時代があったし、戦後はアメリカの真似をする時代となりました。この真似る姿勢は、謙虚だがどこか空虚な心、アニミズムの心をを想起させます。

 まさしく「空体語」とはアニミズム思想のことだという気がしてなりません。神仏習合などの発想もこの自然崇拝の発想から出てきたのではないでしょうか。日本における宗教は、どんな宗教宗派であれ、この自然崇拝思想の影響を受けていないものはないです。 山本七平氏は、空気という言葉を使われたそうですが、それは自然の空気そのもであると、そんな風に想像します。政治は、現在とても悪くなっていると思います。景先生の言われる茶坊主うんぬんもこれは相当当っていると思います。

 大切なことは、何も言わずにみんなについていくのではなく、「自分はこう思う」と開き直ってしゃべってみることだという気がしてなりません。 「自己」を超えるものにひれ伏すのではなく、「自己」の思うところをしゃべってみることから始まるのではないでしょうか。そんな気がします。群集の中で埋もれるなということですね。簡単に言うとですね。自然を受容するのではなく、自然に働きかける自動性がキーワードという気がします。(^-^)/

> 景


 茶防主政党批判に対して一定の理解を示していただきありがとうございます。このような時代だからこそ野党の一角に踏みとどまり、 目先の景気政策で庶民を欺き問題先送りの反動的政策を推し進める現政府を一度徹底的にたたく。そして、そのうえでのイニシアティブを取った政権参加の構想ならば、これは頼もしい政党に成長したもんだと、根本から見直したに違いありませんが、 残念ながら、大臣のイス欲しさのただの「茶坊主」の寄り合い所帯にすぎませんでした(笑) あの世紀の小番頭、竹下の寝技にほだされた 日本教創価学会派は、まだまだ政治集団としては「民主党」程度に脇の甘さがあるようです。ちなみに、竹下=小渕体制の現政府は日本教無信仰派というべきもので、いわばファンダメンタルズの面々です。

 民主党の羽田グループも同根です。国旗国家法案に賛成起立した連中ですね。ですから、民主党はすでにその基礎から根腐れしています。 民主党の生みの親の鳩山由紀夫氏がこの悪しき傾向をどう捌くかが見どころです。脇の甘い菅さんには力の限界があるようですから。 まあ、いずれにせよ、このままではますます弱体化して、いずれ空中分解するのは目に見えています。これもちょっと残念なことではあります。

 さて、ついでに共産党。この政党は日本教共産派ですが、いちおう成文化したドクトリンがその存立基盤となっていますので、 無信仰派(日本教徒としてはファンダメンタリスト)とはもっとも遠いところにいる政治集団です。おそらく、その距離が埋まることはないでしょう。でも、日本教徒なんですね。ここの島民はだれもこの不文の呪縛から逃れることはできません。

 社民党に至っては何をか言わんやです。 先の村山首相誕生の時に、この政党は社会主義愛好派からファンダメンタリズムへぐっと傾斜しました。そして、謝罪(日本的意味では、責任をとること=一方的な責任追及から解除され「話し合い」の関係にはいること)を外交手段としてとる愚を冒しました。これは、日本教徒のなかにだけ通用する手法なです。日本教徒は、世界広しと言えどもこの島国の中にしか いません。トンちゃんは、それを中国や韓国、東南アジアに対して行い、謝罪(アジア諸国のとらえ方は=国家の責任を認めること=他国において戦争という「犯罪」を犯した国家であることの宣言=これにより今後も常に謝罪を迫られその都度損害賠償をせびられることを覚悟したこと)というプレゼントをせっせと配って歩きました。 

 トンちゃんの北朝鮮行脚もおそらく「謝罪」しにいくつもりだったのでしょう。この日本教社会主義愛好派は、個人的には好きなのですが(^_^)、国際法の体系(謝罪は国際法に含まれない)をふまえて外交すべき者としてはやはり失格であったと思います。その結果、中国や韓国のの内政干渉が勢いをまし、教科書を通じて、日本は戦争犯罪国家であるという罪悪感(ベンダサンの指摘するように、日本教徒は歴史感覚が欠如しているため、過去のある時期のこと「であった」として扱うことができない)が、これからの若い世代の子どもたちに絶えず刷り込まれ、この国の衰亡の大きな要因を形成していくことになりました。 中国も韓国も「バカな日本人め。してやったり!」とほくそ笑んでいることでしょう。

 さて、ここまで言って、やっとぼくは実感します。この島国のタコツボ会社のたくさんあるタコツボ社会では、不文律(=空気)としての「日本教」という基礎的な宗教(神道でもない)が支配している、という認識を深める?ことがきた、と。あとは「日本教」のロゴス化ですが、ぼく自身も日本教徒(ロンリー派)であるため、これから先は難渋をきわめそうです。分析主体の理詰めなスタイルばかりでなく、小説による物語的アプローチも効果的かもしれないなと、最近思うようになりました。ただし、ベンダサンによれば、日本語そのものが日本教につかえる宗教言語ということですから、ちょっと心もとない気もしますが、まあせいぜいロンリーにロゴス化(言語化=客体化)を試みたいと思います。では、今日はこの辺で。日本教徒(ロンリー派)の景より日本教徒(○○○○派)のいのさんへ。

 


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政治とアニミズム

いの >

 ところで、宗教についてしゃべってきました。ぬきさしならぬ問題、取りようによってはタブーの領域に近づいています(笑) そこで、私が一連のアニミズム発言をしてきましたのは、自分の主義主張をおしつけようとか、宗教の一つである神道を批判しようとか、そういうことが目的ではありません。それではなぜ、日暮先生のレッドゾーン(笑)に急接近を試みたのかについてコメントします。(逆鱗に触れた日には、このチャットを追い出され、日暮らしゼミよろしく、ミンミンと鳴いて暮らさないといけなくなります)

 つまり、この書評のところにも紹介していますが、憲法学者の松下圭一先生の著作に、実はこの「アニミズム」という言葉が用いられていたのです。松下先生の本を読みますと、例えば「政治行政の考え方」P18に、「明治憲法は、一条『大日本帝国ハ万世一系の天皇コレヲ統治ス』」に見られるように神話にさかのぼる天皇主権から出発し」という記述にもありますように、神話が天皇の権威の強化に役にたってきた歴史があるのです。また、P35には、「国家主権という言葉は、日本の文脈では官僚統治をめぐる国家観念の神秘化・実体化となります。」という記述があります。

 松下先生の考えのポイントの一つを自分の理解の範囲で、述べますと、国民主権をうたった日本国憲法下の現在でも、国家主権の考えをひきずった国会運営が行われているというものです。P33には、ここの書評で紹介した、国家主権と国民主権の構造対立についての図が掲示してあり、それについてのコメントがあります。「国家主権こそは、戦後も憲法学の中枢概念で、その実態は官僚主権です。ですから、国会は戦前の帝国議会と同じく官僚が立案し、内閣が提出する法案の審議、議決、つまり実質は明治憲法37条の『協賛』」にとどまりがちです。「日本の国会は国レベルの基本政策をみずから法案にまとめて立法する意志ならびにスタッフ機構を戦後50年を経た今日も実際に欠如しています。」というのです。

 ちょっと長くなりましたが、国家主権型の統治を継続しようと目論む戦前型の政治家や政治思考が、今回の国旗国家法案などにおける議論を見ると、また復活してきているのではないかと心配になってきたのです。首相や外相などの内閣の閣僚の答弁にも、政府が内閣の上にあるような答弁を聞いたことがあると思いませんか。長いこと政府ってどこにあるんだろうと思ってきましたが、松下先生の本を読むと、なるほど政府ってのは、官僚組織のことだったのだとわかりました。官僚が天皇という神話でオブラートに包まれた存在を前面に出して、神秘的な権力として、「絶対無謬の存在」としてふるまうために天皇の歌(君が代)斉唱や国旗掲揚などを言い出したのではないかと。そこにまた、戦前からの権力機構を温存しようとする自民党などの勢力がのっかったのではないでしょうか。

 それにしても…。あれほど自民党を批判してきた小沢さんや神崎さんが、仲良く自民党と手を結ぶなんて…(絶句)。公明は、中選挙区に戻そうとの魂胆あってのことでしょうが、政治家中心に物事を考えていますよね。長くなりました。今日はこのへんで。うまく考えを言い尽くせませんが、大体のところで(笑)(^-^)/ 例によって一言言い忘れました(笑) 結局アニミズムという言葉そのものずばりは、松下先生の本からは、見つけ出せていません(笑) そしてこの日本人の政治意識におけるアニミズムとは、神話という神秘思想によって武装した官僚統治機構の統治を無批判に有難がる意識を意味しています。また折を見て、アニミズムという用語の使用箇所を捜してみます。景先生の政治家批判は、我々庶民には、言いえて痛快ですけれど、今回はそれだけではいけませんよと。ウォルフレン氏も指摘する官僚機構の問題も含めたトータルな論議にしていきましょうよとあえて辛口な一言を申し添えました。

> 景


 辛口の批判、ありがとうございます。官僚制に関しては、小室直樹先生のお考えに私淑するところですが、もうすこし自分なりに咀嚼する必要があるのかもしれません。ただ、ヤポンの民主主義体制においても官僚はいます。したがって「官僚制」と呼べるシステムはあります。でも、連邦政府と8州の地方政府において、それぞれ小さな政府の裏方として機能しているので、日本の各省庁のような直接の政策決定権をにぎってはいません。また、彼らはつねに国民の代表によって構成される団体(委員会)の監視下におかれています。日本の官僚制についての批判は、これだけを攻撃しても余り意味がなく、むしろ財界指導者連と自自公の政治屋連中との国家経営体コングロマリットのなかで、その一部門として扱うのが適当でしょう。

 そして、いまもっとも誤った行動をとっているのはあの茶坊主政党なので、ぼくとしてはその誤動作を指摘しているわけです。官僚制は「思想」ではなくシステムに過ぎません。この肥大化したシステムを抑えるのは、自民・自由以外の政党の連帯による「民主化」しかないのですが、そしてこの極めて大事なときに、選挙区という地盤安定化のために政権側ににじり寄るようでは公明党もまったく国民の側にたった政治センスがないとしかいいようがありません。実に実に残念なことです。この政党は野党の側に踏みとどまり、民主・社民・共産までをも含めた野党連合の中核として働き、新しい政権の担い手となるべき途を開拓すべきなのです。この絶好のチャンスに、政権側にくみするとは! 愚かなりとは、このことです。

 官僚制は基本的に国家運営のツールにすぎませんから、新しい「民主化」政権によって、このツールをもっともっと使いやすく改変すればよいのです。そのとき、リエンジニアリングはこの集団に対してもっとも効果的に働くでしょう。

 

いの >

 昨晩、本棚を捜しましたら、松下圭一先生の発言のなかに「アニミズム」ということばを見つけました。それは菅直人著「大臣」のP178にありました。1997年8月の雑誌世界誌上での対談で、こう言われています。「日本では明治以来、国家観念を擬人化したり、実体的なものとして想定してきました。これは国家観念アニミズムです。実際には国会内閣からなる国レベルの政府があるだけなのに、この政府を国家という観念で神秘化してきたのです。しかも、日本の文脈での国家観念は絶対無謬、国民全体を包括していると考え、その中核として内閣・省庁つまりオカミを想定してきました。」とあります。

 実は、「大臣」を書評で紹介いたしました昨年あたりから、このアニミズムという言葉の意味について折々に考えてきたのです。松下教授の言われる国家アニミズムとは、内閣の背後にあって国会を陰であやつってきた官僚システムにとって好都合な、官僚無謬論の根拠になってきたものです。戦前に、召集令状一枚で、庶民は戦争に狩り出されたのですが、あれを出したのは誰だったのでしょうか。具体的にといわれるとどこが出したと言えないのですが、これも官僚組織であったのは間違いないことです。これにノーと言える人は誰もいなかったのです。その理由は、この「国家観念アニミズム」で官僚組織が武装して、「畏れ多くて」政府にものも言えなかったのですから。

 ところで昨今の国会は、どんどん議案が通っていきます。これも公明党が自民ににじりよったからですが、先の国会で通過した議案は少なくとも108以上ありますが、この中に議員立法がいくつあるというのでしょうか。教えてほしいくらいです。おそらくごくわずかでしょう。官僚が出した案件がどんどん通る体制になってきていないかと心配です。実際新聞記事などを見ても、これは戦前の「大政翼賛会」なみであるとの声も世の中に実際出ているのです。これは、「ばか殿」ははんこだけ押せば良いという「江戸時代人モデル」の復活です。すなわち国会の形式化が、逆に進んでいるのではないか、戦前の議論を重視しない、少数者(今は過去に選ばれた議員)の意見で勝手に進める、君が代を天皇の歌と平気で言うなど、歴史が逆行したはいませんかね?

 景先生のご意見は、大変具体的でよくわかります。ただ小生としては、官僚組織の機能を過小評価されとる様に思います。経営の教科書でも、官僚組織(ピラミッド型組織)は、迅速性や正確性、機能の重複がない等の長所がありますが、「訓練された無能、最低許容行動、人間的成長の否定」等という欠点を有しています。もっともこの官僚性組織とは、官僚の世界だけにあるのではなく、民間の営利組織でもポピュラーなもので、広く世間に見られます。ではまた。(^-^)/ 蛇足ながら、官僚制組織と政治的官僚組織とはちょっと違います。参考程度に、聞き流して頂ければけっこうです。

> 景


 政治とアニミズム、あるいは官僚制とアニミズム?とでもいったらよいでしょうか。いのさんのおっしゃりたいことは分かるような気がしますが、アニミズムと政治もしくは官僚制との結びつきが、どうもいまひとつすスンナリと腑に落ちないんです。むしろ、「日本教」といったほうがまだその本質にアプローチしやすいのではないか? アニミズムという捉え方はたぶん「日本教」のことをいっているのではないか? アニミズムとは、いのさんによれば「自然のあらゆるものに生命を見い出し、崇拝します。」とのことですが、正確には「アニミズム的」もしくは「アニミズムのような」メンタリティではないかと、そういうふうにぼくは「感じ」ます。

 いうなれば、「自然」を生命の塊であるかのように見、なかでも「人間」自身の生命(人間存在の源泉)を絶対視する「思想」は日本教の根幹に迫るものですが、これといのさんのおっしゃる「アニミズム」とは実に近い距離にあるように思えます。もしそうならば、「日本教」そのものが官僚主義と親和性のある「思想(ほとんど宗教)」ということになります。ただ、一方で現行の日本型エセ民主主義も「日本教」の産物でありますから、この両者はあるときは主導権争いをしながら、またあるときはほとんど一体となりながら歴史の波乗りを続けてきました。

 ぼくは官僚制(の弊害)を過小評価してはいませんが、権勢欲に狂った現行の驕慢なシステムをほんらいの「力なき機能集団」に矯正するのは、結局、政治の力しかないのですから、官僚制というマシンをどのように安全で害のない快的なシステムに造り変えていくか。この方法を考えてゆけば充分ではないかと思います。官僚機構そのものは「政治思想」ではなく、国家という機関を構成する構造物です。彼らに「意見」を言わせてはならないし、国政に関する「判断」をさせるなどもってのほかなのです。彼らが「官僚」である以上は、国民の代表に仕える者に過ぎないし、その足下にあって、その意図を明確に遂行し実現するためのマシンに徹しなければなりません。

 彼らはドライバーではなく、自動車それ自体です。自動車に自らの意思で運転させている現状が間違いであり、問題なのです。これは、じつに致命的な誤りであり、この誤りは、国民の代表が充分な働きをしていないことからくるものです。そしてその根底には、日本庶民が「庶民」のままいつまでもあなた任せでいようと企んでいることにも、「責任」の一端があるといえます。まあ、日本教徒の世界はせいぜいこんなところかもしれませんが、あまりにも残念なので、イザヤ・ベンダサンと山本七平氏がやり残した「日本教」の徹底したロゴス化を自分なりに推し進めていくことで、日本国民の誕生の一助になれば、などどエラそうに考えているところです(^_^;;

 でも、この作業は集団心理学の集合無意識の分野に深く関わっているので、あまりに難しい試みでもあります。ぼくの弱い「脳力」ではたかがしれているとは思いますが、これこそがいわばライフワーク(^ ^;; なので、あまりせかさずにおつきあいくださいませ。したがって、官僚制のこき下ろしは基本的にはマスコミにまかせおきたいと思います。いずれ、この驕慢な機能集団モドキについては、システム改変と統御の方法(ポリティカル・プロセス・リエンジニアリング)として新たな章を構えることになるでしょう。ヤポンの国家経営の配線図として、ですが。

 やはり、問題なのは「政治家」の有り様であり、彼らを選出している庶民のスタンスです。この部分が曲がっていれば、いくら官僚制をつついてもさしたる効果はあがらないでしょう。この柱をあの御柱のようにまっすぐ立てることができれば、官僚制に巣くう官僚貴族(その実「官僚乞食」ども)は棲息不能となります。順序を間違えてはなりません。彼らはただのシステムにすぎませんからね。で、ヤポンの「御柱」はこれから徐々に立てていきます。その際の木遣りはこのボードです。よろしく!

 

いの >

 いやはや実におっしゃる意味がよくわかります。景先生と小生の言うことは、表現は違っても、言っている内容はほとんど相似形です(^-^) まるで双子ですね。でも小生は批判的、評論的な部分が多くて、景先生の言うことは小説に近いとでも言うべきでしょうか。小説家の小説は、批評家によってこっぴどくたたかれるのが世の常です。実際小生も奥さんの童話をこっぴどく批評して、意欲を喪失させて、嫌われています(^^;

 ところで、調子を合わせるばかりでなく、今日も提言ですが、政治家批判が主流になったのは、大変な進歩ではないかと思うのです。すなわち副大臣制度の発足や、政府委員制度(役人が国会で受け答えする制度)の廃止など、今国会での民主化進展には、目をみはる部分も実はあります。ですから、話しの筋が通っているか不明ですが、ぜひ頑張って構想を描いて下さい。のびのびとですね。

> 景


 一定の理解を示していただきありがとうございます。でも、押し付ける気など毛頭ありませんので、どうぞジャンジャン批判なさってけっこうです。政治家と官僚の主導権争いについては、文春新書の『政官攻防史』をチビリチビリと読んでいます。けっこう興味深いものがありますね。それから、菅さんの『大臣』でも官僚どもが基本的にはコウモリのように、でもあるときは禿鷹のように(=自民党の政府要人のように)うごめく様が読み取れます。そして、そのようすが手に取るように眼前に見えてきます。

 官僚たちの行動様式はじつに単純です。その組織体は強靱に見えて、その実、砂上の楼閣ほどにもろいものです。「国民」ならば、彼らを監視しながら使い切ることに徹しなければなりません。彼らから、政治上のいっさいの事柄について「判断」する権限を取り上げなければなりません。そうすると、この驕慢なグループは、ほんとうに判断を停止し、そのことで、現行の政治的スケジュールを機能マヒに陥れようとする構え(一種のストライキまたは脅しの対抗戦術)をとります。このような了見違いの輩は職務専念義務違反により、かたっぱしから罷免して、若い力のある官僚のなかから責任感のある者を抜擢して登用すればよいのです。次官・局長クラスも管理責任を問うてどんどん免職します。

 どうせ公務員は余っているわけですから、政府を構成すべき与党政治家(閣僚及びその補佐役)の命令に迅速的確に応じない輩は税金による人件費を支給する必要などないわけで、自力(自己の才覚)で生活してゆけばよいわけです。かれらは国家のシムテムを支えるマシンであるので、涙も気遣いも無用です。有能とうぬぼれるこの連中が、たくさんの害ある規制を数多くつくり、さらに天下り先を山のようにつくって、これらコバンザメ団体に規制の遂行をゆだねている。そして、みずからもそこに天下って(アマクダルなど、民主主義をコケした実にケシカランことばですが)規制の遂行と世情の監視に目配りをしている。さらに、そこを辞めるときは(2度目の)退職金をたんまりとかっさらっていく。この金も大半は、公的資金という名の実質的な税金から充てられたお金です。

 このような人々を日本社会では「高級官僚」とよび現代の貴族であるかのように見ていますが、彼らのほとんどは規制によって寄生する日本国のコウモリ(それも吸血型の)にほかなりません。で、このような吸血コウモリたちは、官僚制が腐食した結果排出している者どもですから、政治のリエンジニアリングによってマシンを洗浄をする際のもっとも代表的な部分(パーツ)のひとつになります。もちろん、このパーツは交換で処理するではなく、パーツ自体をマシンから「除去」しなければなりません。リエンジニアリングとはそういうものです。

 で、なんどもいいますように、そのためにも、庶民の代表の政治屋から国民の代表の政治家にその使命を託する以外に方法はないのです。まさかこの時代に1人1殺もないでしょうから(また、そんな手法は民主主義の敵ですから)、「国民」としての覚醒による民主的なアプローチによってのみ、この悪しき状態はリエンジニアリングできると思いますし、また、早急に対処しなければならないと考えます。

 そもそも、官僚に国政をまかせるなど、まったく言語同断なわけで、そのこと自体が「民主的」であろうとすることから、絶望的な遠距離にあるわけです。民主政治(国民主権=「国民」による国家統治権の執行を保証する政治制度)では、あなたまかせは通用しないわけで、有権者各人が一定のルールを守ったプレーヤーなわけですから、お気楽な観戦者であることは許されません。観客として「飼われた豚」でい続けるのか、プレーヤーとして、汗水垂らして、エンドレス・ゲームを続けるのかは、各人の「自由」な選択というわけにはいきません。民主政治の実現は汗水垂らした泥臭いエンドレス・ゲームによってのみもたらされます。

 この点、日本庶民は「怠慢」なので、このようなカッコワルイ(泥臭い)ゲームをやるのがシンドイことだと思っているようです。歴代政府の3S政策(スポーツ・スクリーン・セックス)にほだされて、たぶんエンドレスなゲームを放棄し続ける気でいます。愚かな話ですね。政治は政治家のものでも官僚のものでも財界のものでも、そのコングロマリットである日本エスタブリッシュメントのものでもありません。

 政治は、ぼくたちサイレント・マジョリティのものであり、そんなぼくたちの「持続可能な安全で平和な日々の生活」を保持しようと意志する者たちのツールです。それは「より確かな生きがい(=自己実現)」を求めてやまないぼくたち普通の人々の力の源泉でなくてはなりません。すくなくとも現行憲法はそのように主張し、保証しています。それを禿鷹やコウモリにまかせっきりでは、日本庶民自ら憲法違反を実行しているといっても言い過ぎではないでしょう。政治的に「怠惰」であることは罪悪であることに思い至るべきですね。

 

いの >

 おおーっと、声を上げたくなるほど、今日の景先生の文章は実にエネルギッシュで、パワフルですね。平たく言うと地がでてる? 景先生の今日の意見の中で、「天下り」という言葉についてコメントがあります。これは、私は非常に感じます。何をかというと、日本の官僚が民間を下に見ているその意識がはっきりと見て取れるこの「天下り」という言葉の背景ですね。それは日本における政治的無意識と言っていいでしょう。これがまさに、松下圭一教授が著書にかいておられる「国家観念アニミズム」です。この考えについてですが、まず国家については、内閣と国会と官僚組織が別々にあるのでなく、それを包う国家があり、かつ、観念とは実体はないのに、考えとして存在するという意味と解釈できるのではないでしょうか。

 アニミズムの意味は、アニミズムと同様に、国家という観念を、あたかも神様を崇拝する如く、その国家というものを崇拝すると理解でできるのではないでしょうか。国家公務員の不祥事続きで、最近でこそ、そう思わなくなりましたが、つい最近まで私たりは「日本の官僚は、政治家と違って、私心がなく、高潔で、しかも世界一優秀だ」と。そう固く信じて来ました。お役所から指導があると、アニミズム教(造語です)信者の様に、厚生省ご推薦とか、宮内庁ご用達とか、通産省認定とかいうものを、畏れ多くも、有難いものと、信じてきました。こんな事を言っている私自身が、「通産大臣認定資格」を取得しようろ懸命になっています。これは笑えます。(^ ^;

> 景


 全然問題ありませんよ。これは大臣資格であって、事務次官や局長による資格付与ではないのですから。大臣と官僚の違いはよくご存知のはず(^ ^; 官僚はシステムであることをお忘れなく。一般に、官僚たちは「政府役人(=政務を司る官僚)」といった無意識の捉え方をされているのが問題ですね。

 おっしゃるように、この捉え方もアニミズムの系譜なのかもしれません。でも、アニミズムと言ってしまえばそこでストップするような気がします。「アニミズム」ということばは学術用語として確定しているので、それ以上先に進めません。対象をロゴスによって追いつめ、言語化によって白日のものとする(無意識の暗闇に閉じこめておかない)ためには、「アニミズム」という心理学関連用語は壁となってたちはだかります。もっと「対象」に肉迫し、これを分析することでその「構造」を見極めるためには、やはり学問的にオーソライズされていない「日本教(あるいは人間教)」の系譜によったほうが、自由闊達に作業ができるでしょう。ですから、ぼくはこの途を歩いていきます。あちこち道草しながら(笑)

 それから、アニミズムは宗教発生の母体とも言われていますから、「アニミズム教」という命名は本末転倒なような気がしますが…。ま、これはちょっと気になった程度のものです(^^; 「政府役人」と思われときにそう呼ばれる?官僚は、「政府官僚」と言い換えてみると、そのミスマッチがよくわかると思います(もしわからなければそのひとは相当の政治音痴です)。

 日本国憲法下においては内閣が三権のうちの行政権を有していることから、内閣がこれに基づき政務を担当するにあたり、配下の官僚たちに命じて(例えば増税などを)正確迅速に執行するわけですから、「日本政府」は「内閣」であって省庁ではないのは10歳の子どもでもわかることです。ところが、官僚はこの執行過程で、そこにさまざまな規制の網を作って「権限」という名のもうひとつの権力基盤を構築し、片や「政府委員」と称して国会答弁まで行うことが許されている(むしろ不勉強な政府閣僚から求められている)ため、政府役人(政府決定による執行を命によって実行する吏員)が政府官僚(政府すなわち官僚制=各省庁)という誤った転化を「現実」のものとして日本庶民に植え付けている。そんな現状にあるわけですよね。

 いわば、政官攻防の歴史において、政が官に屈服している状況が長く続いているわけです。で、こういう「転化」をやすやすと許してしまうところが問題であって、その「原因」として、日本庶民のアニミズム志向があると松下教授はおっしゃっているわけですよね? もしそうなら、やはりぼくとしては、このアニミズムの前で立ち止まってしまいます。おそらく、これでは「アニミズム悪玉論」になってしまって、アニミズム払拭の方策をあれこれ考えるという、つまり、宗教の母体として考えられているものに対して、別の「宗教」あるいは「反・宗教?」を持ち出してくるという、概念の陣取り合戦に終始するような気がします。

 そうではなくて、ぼくは「日本教」の概念的アプローチによるさらなるロゴス化(ことばによる対象の分析と再構築)の作業を推し進めることが大切だと認識しています。いかがでしょうか? で、そういう意味で、ぼくもいのさんの胸を借りてドスコイドスコイとここで相撲(ロゴス化)の稽古をするのは、実に実に!意義あるものとなっています。そんなわけで、今後ともよろしくですが、やっぱり問題なのは、現行政治屋連中の目に余る怠慢が官僚の有害なノサバリを許してきたわけですから、例の「茶坊主政党」をはじめとした独善的もしくは悪らつな政治屋どもの批判はこれからも続けます。どうぞ、ご期待ください(^ ^)/~~~

 


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日本教のロゴス化

 

 いのさんの「『アニミズム』による政治・官僚組織解釈論」は、発想としてはおもしろいのですが、「アニミズム」が日本型政治・官僚組織の解析ツールとして使えるのかについては、疑問です。日本政治や日本官僚のこんな事実・こんな現象も(日本的スタイルの)アニミズムによるものだ、といくら言ってもあまりに抽象的でピンときません。そこでもっと具体的にいうと、おそらくその正体は「国家神道ということになるのでしょう。そうなると、いままでいくつかの(宗教がかった)政治結社が声高に言ってきたことと大差ないようにも聞こえます。

 いのさんの先日の国家神道批判はまさにそういうことだと思うわけですが、国家神道=天皇制イデオロギー(国体論)=古来の律令制による天皇制の護持=官僚どもの跳梁跋扈、という図式になって、それはそれでスジは通っているのですが、ぼくとしては、この図式はあるものの表皮にすぎなくて、その「あるもの」の国家経営という一章にすぎないように思われます。その「あるもの」とは、巷間のごく一部の俗説で「日本教」と呼ばれているものですが、この正体(機能や特徴)を言語によって明瞭に表現し、その功罪を精確に剔出したうえで、「あるべき民主政体」にとって「有益」なイデオロギー(政治思潮)に組み直すこと。この作業の方がズッと重要だと考えるわけです。

 そして、この一連のロゴス化の作業の強力なツールとなるのが、(かつて大流行した)構造主義であろうとにらんでいます。加えて、心理学における「集合無意識」への分析技法があれば、これもまた強力な解析ツールになると思いますが、今のところ思いつきません。「構造主義」的なアプローチにおいては、数学(集合論)と論理学の素養が必要なので、これらも啓蒙書でおさらいしています(^ ^;

 数理経済学やゲーム理論、はてはゲーデルの「不完全性定理」などに触れていると、解析学や確率論・集合論などの数学的素養がないと、対象の直接的把握(各種の証明)は達成できないようですね。数学というミームの凝縮した世界(意味=秩序の塊の世界)は、おそらく、人間の「意識活動」のなかでも神の台座にもっとも近いものでしょうから、当然といえば当然かもしれません(^_^) では、日本教の教理と機能を見極めるために、その愚直な試みのために、乾杯!

 あ、それから肝心の「日本教」については、Isaiah BenDasan の『日本教について』を中心に、書評という形でそのエッセンスを編綴していますので、少々お待ちください。それをお読みになれば、おおよそどういうシロモノか見当がつくはずです。あのK.v.Wolferen教授のいう「日本というシステム」の設計図であることは、間違いないと思っています。「日本教」のロゴス化に成功すれば、同時に、「日本というシステム」を明確に認識できるでしょう。

 ことばを操るぼくたち人間(人間存在)の本質は、ことばそれ自体であって行動する「身体」でも情動する「意識」でもない、という思想がキリスト教の根底にはあります。そして、そのことばは神(全知全能にして万物の創造主)に起源を発し、人間存在はことばが肉となったもの(化肉または受肉。つまり身体はことばの化身であり器である。ことばはまた意識活動のうちの理性を構成し、祈りのことば=偽りのないことばによって神の恩寵をうける)ですから、まさに「初めにことばありき」のテーゼが貫かれているわけです。

 こうしてみると、アニミズム(有霊観、万有精霊説、物活論)的心性とユダヤ一神教的心性とは、まったく異質なものということができます。おそらく、アニミズムは徹底的にことばを排斥した領域(瞑想または舞踏)において「リアル」な存在となるのでしょう。ちなみに「日本教」においては、「神は空名なれども名あれば理あり」の<空体語>とこれをうけた「理あれば応あり」の<実体語>による天秤の世界が支配しているというベンダサンの指摘ですから、とりあえず、アニミズム的心性を奥底に胎蔵した高度な言語操作の世界とでも位置づけておきましょう。この世界では、アニミズム的な意識の特徴(心性)を集合無意識層に押し隠しながら、ことばは<空体語>と<実体語>に引き裂かれて、<自然>を台座にした<人間>という概念が両者を載せた天秤の支柱となっている。たしかに、世界に類を見ない?実にユニークな世界です。

 さて、この世界をどうやって”意味するもの”と”意味されたもの”に分解するか。そして、そこに隠された「構造」とは? 実はここでハタと立ち止まってしまうわけですが(^ ^;; ベンダサンやウォルウレン教授によると、日本人あるいは日本社会は極めて「政治的」であるとみているようです。この「政治的」という観点が、ひとつの重要な切り口になるのではないかと睨んでいます。ヤブニラミかもしれませんが(笑)それから、<空体語>と<実体語>は、日本社会であからさまに言うところのタテマエとホンネにそれぞれ対応しているとみています。

 八百万の神々のいますアニミズム的精神風土のこの世界で、高度な!言語操作をおこなうために慢性化した言語分裂症が日本人の「理性」の根幹を形成している----そんなふうに思えるのです。これもまだ、仮説にすら至っていない思いつきの段階ですが、最終的には適切な記号化を施し、集合論の技法を用いて、数学的に証明することを目指しています。いまはこの場を借りて、先覚者の思想を吸収しながら、自分なりにアイディア創出のイメ−ジニアリングを行っているところです。

 


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日本教へのブレーン・ストーミング

 

 「人生、意気に感じる」とは西郷隆盛のことばだそうですが、たぶんここらあたりの心境になると、ほとんど日本教徒のエトスの領域でしょうね。そういう意味では、ぼくも隠れ日本教徒(Shadow Japanist。これより、日本教徒を勝手にJapanistと呼ぶことにします。)なのかもしれません(^^) ちなみに西郷隆盛は、日本教(Japanism)のもっとも著名な導師(グル)の一人と思われます。さて、ほかにどんな人物がいるでしょうか?

 古くは、聖徳太子。中世では、たぶん…おそらく?親鸞(これには異論も多いかと思いますが)。最近では…見当たりませんねえ、グルというべき人物は。ただし、スポークスマンはいます。例えば、故・司馬遼太郎。日本教のグルもまた、時代の大きな節目に、実行力のある精神的指導者として立ち現われます。でも、このような影響力のある人物がすべて日本教のグルであるとはいえないのです。というのも、BenDasan氏が言うように、ある種の「純粋さ」が求められますからね。

 さて、いうまでもなく、日本教の大司教は「天皇」です。あるいは、天皇制そのものといってもよいでしょう。Japanistは天皇制を支持し、天皇に帰依する者でもあります。天皇とは、アニミズムの世界を生きる「八百万の神々」と地上の日出づる国を生きる「生身の草民」を契る「無垢の精霊」と位置づけられます。その精霊のイメージは、「秋の蒼天のもと輝く黄金の稲穂」にあります。さて、現代のJapanismは、急激な工業化・高々度情報化の波によって、無残にも千々に引き裂かれています。不幸なことです。

 戦前の軍部台頭を許した大和魂(武士道精神の軍隊的解釈)は、Japanismにおける「鬼」の部分を余すところなく発揮しましたが、この鬼もいまは影を潜めておとなしくしています。ときどき、自民・自由党の建設マフィアの使い走りである鷹派議員が、あえて失言する程度です。でも、Japanismにおける鬼も決して死んではいません。Japanismに立つ者は、この鬼面を歴史の壁に張りつけ、決してかぶることのないよう心すべきです。日本教世界での民主主義を標榜するなら、ややインパクトには欠けますが、「秋の蒼天のもと輝く黄金の稲穂」を常に思い起こすこと、です。え〜と、これは一種のブレーンストーミングです。適当に聞き流してください(^_^)

 


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メモ:日本教へのアプローチ

 

深層レベル【能記】

            <米欧型>

  集団域=>(中心力)=> 権力→弁舌・個人責任

  個人域=>(形成力)=> 欲望→主張

 

             <日本型>           

  集団域=>(中心力)=> 権力→調整・全体責任   

  個人域=>(形成力)=> 欲望→抑制        

 

構造レベル【異化】

  天秤理論・空体語と実体語

話し合い・お前のお前(ラカン型鏡像関係?)

 

表象レベル【所記】

  律令政治・キャンペーン型農業・全員一致

  しつけ(集団への訓化)・甘え(集団の庇護)

  


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日本教の心性

 

いの >

 寝る前に、ウォルフレン氏の「怒れ!日本の中流階級」を読んでいます。日本を変えるには、「中流階級」がしっかりしないとだめだという主張です。いつか(笑)読み終えたら、また報告しましょう。(^-^)/

> 景


 最近でたばかりの本ですね。ぼくも読みたいと思っていますが、まだ手に入れてません。Wolferen氏が現代日本の民主化に大きな影響を与えたことは論を待ちませんが、今度のタイトルもかなり刺激的ですね。
 きっと「有益」な見解がたくさん述べられていると思いますが、ひとつ不思議なのは、これほどJapanismの本質を理解している人がなぜ日本語を話さないのか。なぜ、日本語で語りかけてこないのか。これは、前々からのぼくの素朴な疑問の一つです。
Japanism(日本教)について云々するときはJapanist(日本教徒)の心性(the mental tendency)を把握している必要があります。これは、Japanese(日本語)の理解なくしてありえません。JapaneseはJapanismに奉仕する宗教言語であるからです。
 さて、意思表示をセンテンスの最後にもってくるこのファジーな宗教言語をぼくたちは巧みに操りながら、極東の弓なりの島国のなかでまるでオシクラマンジュウみたいに押し合いへし合いしつつ毎日を生きています。やはりこの国は、世界でもかなり特異な(異質ではない!)国といえるでしょう。
 ですが、この国は、個人の主体性を重んじる米欧型民主主義のエッセンスを取り入れることにより、さらに、他に類を見ない驚異的な発展を遂げるでしょう。経済的にも文化的にも、そして政治的にもです。
 そしてそのときこそ、この国は世界のリーダーとしての一翼を堂々と担うことができるはずです。このことは、わが愛するヤポンにおいてシュミレートしていきたいと思っています(笑)

 

いの >

 小生の記憶によると、こういう外国人がいました。日本語と英語とフランス語を使うことのできるその人が言うには、日本語は物事を明晰に語るのには向かない。一番理路整然と話せるのはフランス語であると。確かそんな話しでした。
 日本にいて日本語でしゃべっていると、ものごとをあいまいに、相手をきずつけまいと婉曲に話すことになるということでした。確かに、日本的な発想法は、日本語と密接な関係があるかもしれません。日本人が日本語を使っているときは、左脳が働いていて、英語を使っている欧米人がしゃべっているときには、右脳が働いているという話しもあります。確か「角田」という方の著作です。
 かのウォルフレン氏は、オランダ語を使い、あの著作を書いているのでしょう。想像ですが、きっと日本語も相当できるのでしょう。でも論理的に考えを展開するには、オランダ語の方が良いということではないでしょうか。
 日本語を知らないと、本当の日本がわからない?ある意味では、例えば日本人の人間関係のニュアンスなどはそうかもしれませんが、政治と社会の分析には日本語にこだわる必要はまるでないのでは。想像の域を出ない、あやふやな論理展開になりましたが。(^^;

> 景


 ウ〜ム、ちょっと誤解が生じているようです。
 ぼくは「Japanism(日本教)について云々するときはJapanist(日本教徒)の心性(the mental tendency)を把握している必要があります。これは、Japanese(日本語)の理解なくしてありえません。JapaneseはJapanismに奉仕する宗教言語であるからです。」とは言いましたが、「日本語を知らないと、本当の日本がわからない?」とは、申しておりません。
 語の定義の問題もありますが、the mental tendency of Japanist が必ずしも「本当の日本」とはいえないし、そもそもJapanese(日本語)の理解はthe mental tendency of Japanist の探求のための当然の前提であって、それで必要十分なわけではありません。
 その意味で、「日本語を知らないと、本当の日本がわからない?」といったスマートな要約をしていただくと、ぼくとしては困ってしまいます。もちろん、匿名チャットの軽口のノリですから、ぼくの説明不足が原因であり、申し訳なく思いますが、要約に当たっては、どうかくれぐれも誤解ないようお願いします。

 


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ヤポネスX

 

 いまのところ、ぼくにとって喜ばしいことは、遅々として進まないいくつかの章曲作品を仕上げること。英語とエスペラント、数理経済学と複雑系数学?の完全習得による「世界」の記述。それに、構造主義的アプローチによる日本教の徹底解明と愛するヤポンのヴァーチャルな建国です(^_^)

 そうそう、もうひとつやることがありました。「市民出版」ですネ。だれもが手軽に安価に出版することで、自らをクリエイトできる。このコンセプトと方法論を「事業」という形で展開する企画は、もちろん進行中です。家の件が一段落して、借金返済の目処を立てたら、HPも完全リニューアルして本格的に取り組む予定です。

 でも、正直言って、これで食べていくためには、しっかりした生産技術の確立と生産性自体のかなりな向上が必要です。ニーズ(市場)そのものは充分に潜在していますし、高齢化に伴ってますます増大していきます。

 したがって、少し延びてしまった準備期間では、「生産」に照準を合わせて業務内容の改善を行います。生産物(製本された本)の均質な出来ばえが事業の信頼獲得につながりますから。そして、営業面でのきめ細かい対応が着実にニーズを掘り起こし、この市場はしだいに大きく広がっていくでしょう。

 ところで、ぼくもようやっと『怒れ! 日本の中流階級』を手に入れて、読み始めました。翻訳がうまいせいか、スイスイ読めそうですね。この本でも、Wolferen教授の主張はほぼ100%理解できそうです。

 ただ、充分理解はできても、タコツボ社会の内側からそのシガラミを突き崩していく行動の書としての性格は、この著作もまたもっていないような気がします。分析と要約と激励はあっても、それが「解放」の原動力には結びつかない。なぜか?それが先日ここで申し述べた「『日本教』の宗教言語としてのJapanese(日本語)の理解なくして〜」という言及に象徴されます。やはり行動の書は、日本教のアンチテーゼとして、その内部から言挙げされねばならないでしょう。そしてその起点は、日本教の徹底解明にあるのです。

 まだ、ほんの数行読みはじめたばかりですが、そんな印象を受けます。でも、もちろん、氏の他の著作同様、日本国民にとっては「有益」な書であるといえます。で、「解放」のための行動の書は、ぼくたちサイレントマジョリティが自力で書きあげ、実行に移す以外にないでしょう。ちなみに、この書物の草稿は、ぼくが担当します。ご期待ください!! おっと、また力んでしまいました(爆)


 『怒れ! 日本の中産階級』はやっと4分の1程度ですが、 今のところ100%理解可能です。「階級」の件については、ちょうどぼくもそのことに思いをめぐらしていたので、ぼくの政治的感性はタイムリーだなと 確信を深めました。

 W教授もおっしゃるように、人間社会の厳然たる事実である「階級」の存在について、ぼくたちは マルクス程度に充分な関心を払い、「階級闘争」はマルキストの専売特許ではなく、人間存在の事実のひとつとして、これをいかに民主主義の装置として意味のあるものに 調律しなおしていくか、そのための政治的行動はどうあるべきか、についての洞察を深める必要があるとお思います。

  ちょっとわけのわからない言い回しになりましたが、要は、マルキシズムはすたれても「階級闘争」はすたれることのない真実であり、民主主義の根幹のひとつであると言いたいのでした。失礼。


 1/29の景です。品川で一泊したんですが、寒い首都でした。人は多い。クルマも多い。でも、やっぱり活気のようなものが感じられない(いや、きっとぼくが老けて、感性がマヒしているのでしょう…。そう思いたいですネ)。ホテルでいやに目に付いた外国人たちが、いくぶんエネルギッシュな雰囲気でした。 不思議なメガロポリスです。

 さて、飛行機の中で読み進んだW教授の本は、いくつかの有益な提案をされていることがわかりました。でも、まだ突き動かすほどのものが得られない。遅まきながら、日本で「ブルジョアシーの階級闘争」を仕掛けるとしても、その際の闘争相手は「日本教」(あるいは、W教授の指摘する「イエ」のイデオロギー)とその忠実な信徒たちであることを明確にし、これを望ましい「民主主義」に変換する技術を生成・習得することが必要なのですが、W教授のこの本では、 まだいまのところ、そこまでの行動に駆り立てるエネルギーを組み上げることができません。

 あの素晴らしい著書『人間を幸福にしない日本というシステム』も そうなのですが、行動に駆り立てるエネルギーをどうやってタコツボに生きる者たちが獲得するのか、実はこのことが、日本教の呪縛との関係で、実に難しい問題として横たわっているのです。この腐れ縁を絶ち切るのは 結局のところ、W教授のような「外部」の識者の提言によるのではなく、だれか強烈!なオピニオンリーダーがタコツボ社会の中から、わかりやすくて好戦的なことばとパフォーマンスでもって、言挙げするしかないと思われます。

 ただし、そのような人物は、今のところ現れていません。でも、近い将来、 現れるでしょう。(残念ながら、それはボクではありません。ボクにはそのような力量はありません。) このマルコムXのような人物を仮にヤポネスXと呼ぶことにしましょう。早く出てこい! ヤポネスXよ!!! (失礼しました。)

 


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人間ピラミッド

 

 ところで、ぼくたちの職場では、人事異動の内示とやらがありました。ぼくは蚊帳の外の外で(笑)、なにひとつ変化ありません。喜ぶべきか悲しむべきか(^ ^; ま、これで、なんの障害もなく新居にきちんと収まることができるので、その点ではラッキーでした。

 それから、引き続き「孤独な探究(lonly investigation)」に専念もできます。大きな変化も欲しいのですが、そうなると この超地味で、かつ超思念的な作業など、跡形もなくふっとんでしまうでしょう。若干の借金もかかえたことだし、今は英語力と数学力を身に付けながら、 章曲創作のなかで孤独な探究を展開し、一方で市民出版の立て直しを図って、いずれ訪れる、来るべき日のために備えたいと思います。

 やれやれ、ほとんどなえそうな自分の気持ちを励起するために、またしても自家中毒の所信表明演説をやってしまいました。でも、こうやってときどき海図のない航路を確認しないと不安なのは、まだまだ本気じゃない部分があるからかも知れませんね。さて、昼間の仕事も頑張らねば(笑)

 

いの >

 まじめにやっておけば、きっと良いことがありますよ。待てば海路の日よりあり、です。さて、昇進や昇格について、私も組織人として、大変関心があります(笑) これはあくまで個人的意見ですが、この考えの根底には、商品やサービスによる「顧客満足度」が高い企業が生き残るという事実があります。 最近思うのは、組織における昇進や昇格は、何によって決まるのかと言えば、その人が組織に与える「組織満足度」によって決まるのではないかということです。 逆に言えば、高い顧客満足を与えることのできない企業は、顧客から支持されず、衰退するということです。

 例えば、散髪というサービスをきちんとできない理容店は、顧客に高い満足を与えることができないため、顧客は離れていくという例があげられます。 これは組織における昇進や昇格に当てはまるのではないかということです。商売における「顧客満足」がそのまま「組織満足」に置き換えることができるのではないかと、そういう個人的で勝手な仮説を立てています。

 ただまじめにやっている人は、そういう面では不足があります。組織がその人に求めるニーズを敏感に把握し、そのニーズを満たす行動を取る必要があるのです。 ただ週に40時間働くのでも、組織が忙しい時にのんびりやる人は評価されないという面があるのではないでしょうか。

 まあお互い年も年ですから、良い意味での「自己満足」、組織満足を満たすだけの才覚と、集団のニーズを読み取る感性が、 たとえ不足気味であったとしても、良い意味での「自己満足」はしっかりと充足させ、悔いのない人生を送りましょう。(^-^)/

> 景


 なるほど、組織満足ですか。これは組織への貢献度というべきものですかね。集団主義社会における組織満足とはどのようなものか?  それは基本的に(小室先生いわく)協働共同体であり、それゆえ一丸となって事に当たり、対「外」的にまずいことがあれば、構成員として当然かばいあい隠ぺいします。

  民間会社であれ役所であれ、「組織がその人に求めるニーズ」は基本的には同じ。人事評価権限を付与されている直属の上司に対して、いかに自分が その協働共同体(基本的には職場環境)を支えているかをアピールすること。言い換えれば、Real Japanist(正当な日本教徒)であることを 職場(会社、役所など)という名の教会(あるいは寺院)で明示すること。

 そのためには、おっしゃるように「ただまじめにやっている人」だけでは、 不十分ということで、共同体はさらにそれ以上の(生活面での)個人的な関わりを求めますから、身も心もこの共同体に捧げなくてはなりません。

 もちろん、ぼくは身も心も捧げていないので(正当な)日本教徒とはみなされず、ヒラ社員のままなのは当然の結果なわけですが(笑)、 いのさんもぼく同様、いまだに管理職という日本教の司祭階級の仲間入りをしないでいるのは、ちょっと意外ですね。ぼくの「公式」に当てはまらないはずはないのですが、要因分析がちょっと不足しているのかなあ? いのさんはまったく正当な日本教徒なんですがねえ。

 上司と部下の間に軍隊のような厳格な規律はないので、上司の居心地のよさを確保するために、身も心も捧げた「全人格的な」関わりを要請されやすく、そのような環境のなかでは、いわゆる「気脈を通じる」という 要素が非常に重要になってきます。これは英訳不能な例の「阿吽の呼吸」と呼ばれるものの一パターンですが、俗に言えば「ゴマスリ」とも言われているものですね(笑)

 これから察するに、○○派日本教徒であるいのさんに不足している要因は、おそらくこの「上司と気脈を通じる=ゴマスリ」ではなかろうかと推測されます。 いのさん、宝くじを買うばかりでなく、上司に大いにゴマをすりましょう。これは、組織満足のなかの重要な項目のひとつだと思いますからネ。

 なぜなら、契約型の組織ならいざしらず集団主義社会の組織においては、これは組織を維持する上でも極めて重要な要素と言わざるを得ないからです。 唯一絶対神の存在しない社会的エトスのなかでは、集団主義自体が強力にはびこるため、これは論理必然的に導き出されると確信しています。 この点に関しては、いずれ日本教を数理的に解析していくなかで、明確に証明したいと思っています。

 さて、そんなわけで、 サラリーマンの自己実現のためには、仕事をガンガンやるだけでなく、直属の上司に大いにゴマをすり、組織という人間ピラミッドのより高いポジションを目指しましょう!

 あれ、Take it easy! でしたよね。いやあ、失礼しました。ぼくも今後の身の振り方を真剣に考えながら、一方で、いまのこの 「研究可能な」環境をなるべく長く保てるようにと、矛盾した気持ちを抱えながら、気楽にやっていきますね。

 


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「日本教」の探究

 

 2000.7.7の景です。Isaiah Ben Dasan の『日本教について』(文藝春秋刊)の要約(文章抽出)を始めました。何度、読み返してもエキサイティングな書物です。 『日本人とユダヤ人』をはるかに凌ぐ名著です。日本と日本人をかなり深いレベルで捉えています。Wolferen教授よりもさらに本質的なレベルで 捉えきっているのです。驚嘆に値します。いまから28年前に刊行されたこの書物は、いまでも輝き(説得力)を失っていません。  日本教の数理的説明の可能性もこの書物から着想しました。要約版が完成したら、まずはHP「保管庫」の「書評コーナー」に掲載します。

 ここで突然ですが(笑)、むりやり実施した小選挙区制に救われ、かろうじて生き延びた現政権にとどめを刺すためにも、この作業は必要だと思っています。

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 7/11の景です。最近、小室先生の最新刊『日本人ための宗教原論』を読んでいます。日本教のことも触れてあって興味深いです。 ただ、深入りしていないのが残念です。でも、『「天皇」の原理』(文藝春秋)に詳しく論じてあるそうなので、それも読んでみることにします。

 で、Isaiah BenDasanの『日本教について』の要約版も着々と進んでいます。この作業を行いながら、同時に数理化の方法を模索しているわけですが、 数理解析的なアプローチのポイントは、おそらく「複雑系思考(Thinking in Complexity)」あたりにあると思います。クラウス・マインツァー(Klaus Mainzer)の同名の著書を読んでみて、この方向でほぼ間違いないと確信しています。 したがって、数理解析のツールとなるものは、カオス理論・フラクタル幾何学・ファジーシステム(ニューラル・ネットワーク)付近で使用されている数学的記述が有力な候補になるものと思います。

 その一方で、「日本教(Japanism)」の要素分解を行う必要があります。たとえば、「和」の概念。「『人間らしく』あること」の意味。それらをベースにした「『性格』の良し悪しとその判定」。そして、もちろん「没個性型集団主義」と「キャンペーン型稲作文化」の相関関係。さらに、その基礎となる共同体感覚と多神教的あるいは汎神論的なアニミズム(自然崇拝)の雰囲気。そして、極東の島国であるという地理的特性をも背景とした「万世一系の『天皇』」による「シンボリック」な統治システム。

 まさに「空体語」と「実体語」の極みがここらあたりに充満しているわけですが、これらを段階的・包括的に数理化することは、けして不可能ではありません。 そしてまた、数理化しないと、いともたやすく「空体語」に呑み込まれ、「建前」のパック詰めにされてしまいます。その結果、この無記名の宗教国家は、盲目的信仰のまま(自己の客観化なきまま) デラシネのごとく(いきあたりばったりに)国際社会の波高き大海を漂流していくことになります。これだけは絶対に避けなければなりません。

 日本人は自らを知るために「日本教」を客体化し、そのうえでこれに改良を加えつつ、自覚的な「日本教徒」として「信仰」生活を続け、 必要に応じて(!)国際社会にも布教していくべきです。そう、これまでとはちがって自覚的に、自信をもって、文化の輸出のスタイルで。その時、日本と日本人は、世界において個性的なリーダーシップを発揮できるはずです。

 さてここで、何でも「理屈」として呑み込んで「そうとも言える」という「建前」にまつりあげてしまうこの「空体語」。この生き霊を捕獲し客観視するためには、数学的(あるいは記号論理学的)アプローチ以外に方法がありません。つまり、日本語自体が「日本教」に仕える宗教言語なわけですから、通常言語による説明では手に負えないわけです。いま日本語で開陳しているぼく自身のこの主張も、発言した瞬間からつぎつぎと「理屈」として「空体語」の天秤皿に乗せられてゆきます。

 「実体語」と「空体語」、これは本音と建前と言い換えることもできます。したがって、これを日本の政治にシフトして考えれば、 自民党こそが、この「空体語(=建前の世界)」とそれをいわばシェルターとした「実体語(=本音画の世界)」を巧みに使い分けている政党といえます。その「バランス感覚」は極めて政治的であり、その意味で、徹頭徹尾「日本教」を体現した政党であるといえましょう。「本音と建前」も「自民党」も「日本教」の本質に深く根差した「ことば(=存在)」である点でイコール(等価)です。したがって、「日本教」の特性を示す主要なキーワードたちでもあります。

 さて、べらべらとまくし立てましたが、ぼくの「日本教」の探究は、やっと登山道の入り口まで来たという感じです。脈絡なくしゃべりながら、自分の考えをまとめています(笑)

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 7/31の景です。懸案の『日本教について』の要約版ができました。 これにより、「日本教」の本質がどのようなものか、よくわかると思います。イザヤ・ベンダサン氏は一種の天才ですね。すごい「脳力」の持ち主です。 彼が山本七平氏なのかどうかは知りませんが、彼はノーベル賞級の頭脳の持ち主であり、この著作は「人間存在の論理学」ともいうべき分野におけるノーベル賞級の成果です。

 さて、ぼくはこの一大成果をまえに、どのように「人間存在論理学」を数理化するか、途方にくれているわけですが(笑)、そういいながら実は、とっかかりのメドはつけています。それは先日も申し上げた「複雑系」の数理解析の範疇に含まれています。これに、構造主義や物理数学によるアプローチ、さらにカタストロフィー理論等の位相幾何学や集合論を柱とした記号画論理学の援用によって、「日本教」という魑魅魍魎の正体をクリアーに描き出すことができると思います。いずれにしても、この書で基本的な図式化を伝授していただいたベンダサン氏に感謝、感謝です。

 それから、この書を熟読していて、ウォルフレン教授の『人間を幸福にない日本というシステム』と実によく符合しているのを感じました。いずれ両者の比較検討も行ないたいと思います。「本質」をついたものは、表現の違い、アプローチの違いはあれ、同じ地点にたどりつきます。なぜなら、真実は一つしかありませんから。

 


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空体語と実体語(メモ)

 

空体語=キャンペーン型農業、協働(労働)共同体
実態語=狩猟、市民社会

空体語=集団主義、団体行動
実態語=個人主義、単独行動

空体語=和、集団の規律、世間、気配り、遠慮、気遣い、本音と建前
実態語=個人主義、我(が)、議論、わがまま、自己中心的、ジコチュウー

空体語=みんな、みんなと同じ、みんなと一緒、みんなで渡れば怖くない

空体語=甘え、依存、他人志向、受け身、あうんの呼吸、以心伝心
実態語=自立、自己責任、議論

空体語=あきらめ、諦観、しかたがない

空体語=人間、人間性、人間的、人間として、人間らしく、人間であれ、性格(が良い・悪い)、人格者
実態語=機械、機械的、鬼、人非人、畜生、鬼畜、悪魔、化け物

空体語=自然 、 八百万の神々、御利益
実態語=言葉、絶対唯一神 、創造主、啓典宗教

一部利得者(権力者)=実体語の体現者とこれを隠蔽する「空体語」=御用学者や批判者など
 −>共同体(没個性型集団主義)における個と全体との分極化とバランス
 −>言葉の分極化を必然とする

実体語の内実は<欲望>にあり
共同体の中に注意深く秘匿された<人間存在>そのものとしての<欲望>、ことに「権力欲」
日本教における「人間性」を「人存」という。 

 


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日本教の数理的解析

 

 さて、ぼくがいまお勉強しているのは経済学、とりわけ数理経済学の入門編。それと一頃流行った構造主義。それの啓蒙書を中心に専門分野の成果品も少々。それとこれらの理解のために必要な微積分や集合論など数学の基礎のおさらい。

 BenDasanの「天秤の論理」などは数学的に解析可能なものですし、それ自体は構造主義のいう「構造」そのものであると確信しています。あるいは、カタストロフィー理論で説明できるかもしれません。「おまえのおまえ」論はジャック・ラカンの「鏡像関係」を想起させますし、<空体語><実体語>の対比については、構造主義のもっとも得意とする言語学あるいは記号論の範疇に属しますから、これまた解析可能なはずです。

 ただ、<空体語>と<実体語>においては、言語と無意識の関連にふかく関与しているため、アプローチには充分な準備と注意が必要と思われます。しかし、最終的には、数理的に解析しモデル化することができると思います。

 そして、これら一連の作業は、「日本人の特異性=日本民族の特徴」についての構造人類学的な成果をも引きだすことになると確信しています。しかし、ここで問題なのは、なにぶんぼく自身がこれらのすべての分野においてズブの素人なので、その達成の見込みは(現段階では)低いということです(^_^;

 でもまあ、あと20数年?の余命のうちに、足がかりでも築ければ御の字でしょうね。未達成であっても、ヤポンの(バーチャルな)建国にこぎつけることは可能ですから、これだけは仕上げたいものです(^ ^) ではおたがい頑張りましょう。

 ちなみに、「頑張る」とは「我を張る」ことに由来しているそうです。「我を張る」つまりムラ集団の庇護と抑圧の世界から<外>の世界へ出る(=旅する)ときには、それまで小さく萎んでいて(お気楽で)よかった「自我」を大きく脹らませないと、外界の魑魅魍魎におびやかされて旅の目的を達成することができなくなる。そんなわけで、もっと<外>へと旅したいぼくたちは、これからもおおいに頑張りましょう!


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