以下の文章は、三島さん改め三島先生の講演を録音した『学生と の対話 (新潮CD 講演) 』の前進にあたるカセットテープ版を以前から後生大事にもっていて、1968年10月3日に早稲田大学で行われた「国家革新の原理」というこの録音は質疑 応答まで含めると全編1時間40分のティーチ・イン(学内討論集会)を音声収録したものだけれど、この講演の最初の20分弱の問題提起(本人曰く“独り 言”)において示唆に富む発言が自分的に満載なので、「人間と国家の関係」について勉強するために印象に残る箇所を拾い上げることで、自分なりに学び取る ことにしたしだい。


◎ 自分が怖いというものが自由の本質には必ずある
 人間というものは、広大無辺な人間性から守ってほしい、救いだしてほしいという一方、そういう恐怖と脅威の観念をもっている
 私は人間というものをヒューマニティと考えれば、人間性をヒューマン・ネイチャーとして区別する

◎ 現実にある国家や社会はわれわれの保護監察機能をもって存在する
 われわれを危険から、われわれの中に潜む人間性から人間を救いだすために、われわれは好んで保護してもらっている
   
◎ 国家の第一の機能は人間の保護監察機能
 小さな共同体のなかの保護観察が大きな共同体、さらに国家というものに成長してナショナリズムの元になっている
 同時に、国家というものは、そこで一つの権力をもてば、権力がそれ自身を守る機能というものも、当然そこにでてくる
 国家ないしそういう共同体は、一方では民衆に対する保護監察権能があって、一方では国家権力自身の権力防衛機能というものがある
 国家というのは、保護者であることが強ければ強いほど圧迫をかけることも強い——これはほとんどひとつの問題の両面


◎ 言論の自由というものを政治と完全に抵触する概念と考えるか。あるいは、それは政治と調和する概念と考えるか——これが問題の分かれ目

◎ 政治というものは必要悪であって、妥協の産物であって、相対的な技術であって、政治になんら理想はない
 民主主義に理想を求め、民主主義の行く手に人民民主主義の理想を追求して現在の民主主義を改良できるという革新の方法は、論理的でない
 なぜなら、われわれの普通選挙制の議会制民主主義というのは、理想主義とはなんら縁のない政治形態だからである
 この政治形態のなかでは、言論の自由というものは政治と根本的に関係のないものである
 言論の自由の延長下には政治は必要悪にすぎない、政治の延長下には言論の自由というものは邪魔ものにすぎない
 これがわれわれの政治形態の特徴——そういう政治形態がいいかわるいかについては議論があるだろうが、ファクトとしては、われわれはここで言論の自由を味わっている
 こういう、享楽する言論の自由というものはなにを意味するか。これと政治の関係はなんなのか
 こういうことから私は、さらに戦争の問題、平和の問題、その他さまざまの問題に触れていきたい
 


 

 なお、まったくの余談ながら、上記CD版のアマゾンレビューのなかに、「この講演の内容は速記『学生とのティーチ・イン』という形で1969年出版の 『文化防衛論』(三島著、新潮社)に収められている」という記事があったので、この本をもっておればわざわざ時間をかけて(基調部分の)文字起こしをする 必要もなかったことをこのとき知ったわけだけれど、それなら、聴き取り難所4か所の“正解”を確認するためにも早速手に入れねば、とその古書を入手し調べ たところ、以下の4か所の不明箇所の正しい言葉がわかった。
 (1) ヨーロッパのモダニズムも自由に輸入されたし、新しいヨーロッパの芸術{ドオリ(14:30)}がソビエトは非常に歓迎される時代がありました
 (2) 考えようによっては、完全な{彼らの(16:30}経済力と軍事力に抑えられた形で、しかし言論の自由は完全に享楽している
 (3) 政治というものは必要悪であって、妥協(compromise)の産物であって、{相対(17:07)}的な技術であって、政治になんら理想はない
 (4) 民主主義の行く手に人民民主主義の理想を追求して現在の民主主義を改良{し続ける(17:23)}革新の方法は私には論理的でないと思われる



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