“大根役者”であった人 [ もどる ]
『Mishima』という名作と、三島由紀夫さんが“大根役者”である(失礼^^)という巷の評価(例えば)が奇妙にリンケージして、思いつきの感想文ができたので、以下に載せておきます。あくまで、感想文であり、ここで使う“大根役者”という言辞に軽侮の念はありません(微笑)
三島由紀夫さんが、映画『Mishima』のなかであたかも本人が認めた(かのような婉曲)表現があり世間の大方の評価も概ねそう捉えているであろう「(舞台)演技が下手」なこと、すなわち“大根役者”であったわけについてつらつらと考えてみたい。
彼は、《三島由紀夫》を日常生活を含めて「社会」の舞台で《三島由紀夫》を完璧に演じきっていたため、演劇舞台で《三島由紀夫》以外の役を演じることは、一つの肉体で同時に二つの役を演じきろうとするわけだから、他の役を演じるときには《三島由紀夫》を棄て切ってしまわなければ、その役の完璧な演技披露など土台無理な話である。
にもかかわらず三島由紀夫さんは、ある意味その天才ゆえに、舞台上でも他の役に仮託して《三島由紀夫》を演じようとしたために、その演技が真剣であればあるほど、つまり《三島由紀夫》であろうとすればするほど、現に演じようとするその役が板につかない、失笑を禁じえないものとなり、結果、“大根役者”という定評を得るにいたるわけである。
つまり、三島由紀夫さんは《三島由紀夫》を演じ切る以外に生き抜くことができなかったゆえに、他の役を演じるにあたっては永遠に“演技が下手な大根役者”であり続けるほかはなかった、ということである。
しかしかがら、彼の天才そのものは疑いようもないものであり、豊富な表現表出(アウトプット)能力と『花盛りの森』以降に作出した文芸作物のほぼすべてがことごとく極度に完成度の高い「作品」、すなわち“芸術作品”に仕上がっているのは、私のような瑣末な物書きもどきの目から観たときに、じつに驚嘆すべきことである。
ちなみに、世界に冠たるノーベル文学賞は、この秀抜な天才そのものに賞賛と畏敬の授賞をもたらす択び採らなかったことも、彼の不滅の天才神話に華を添えている。
しかしながら、昨今、三島由紀夫さんの自刃時の生首写真などがネットに出回っている状況に接すると、彼が望んだ“美しい死”は(少なくとも私の目には)そこにはなく、醜悪とはいわないまでも無残の一言に尽きる。もし、彼がこの写真を観ることがあったらどう思っただろうと、想いを馳せないではおれない。もちろん死そのものは、(初期のヴィトゲンシュタインが言うように)人生上の出来事にあらず、という命題に個人的には同意する(真と捉える)わけではあるが。