なぜ私たちは満足しないのか?

(回答者)アンソニー・コジネック
Anthony Kosinec


【質問】
 なぜ私は満足しないのですか? なぜ私たちは満足しないのでしょう?

【回答】
 そうですね。でも満足しないことは良いことです。なぜなら私たちはそのような方法ですべての、発展に在る動機の力を感じるからです。自然の隠された物理的そして霊的な「原因として働くレベル」においてです。
 私たちが「動き」として見なすこと、世界の他の場所に移動することから、内面の微妙な感覚の変化にいたるまでがなぜ起きるかというと、この力が私たちの居心地を悪く感じさせ、願望を満たすことを現状で不可能にし、私たちがより大きな充足感に対する欲求を抱き始め、それが新しい状況に必ずあると計算するからです。
 私たちは、ちょうどそこまで「動く」だけで、それ以上は動きません。もしこの計算でなければ、人は指一本も動かさないし、鼻をかくことさえもしません。どうやって最大限の喜びを最小限の努力で獲得するのかというもの。それはエゴのE=mc2のようなものです。この公式は何処にでもあります。
 物事がそのような形で提示されないかぎり、私たちが絶対に選択しないことがそれです。私たちは常に自分の考える苦しみか喜びのどちらかを選択し、いつも喜びを選びます。すぐに手に入るものかまたは、少々の苦しみを伴っても見こみのあるより大きな喜びのどちらかです。
 しかし喜びは、それ自体には存在していないのです。それを感じる前には何かそれと反対のものが、自然の中にないといけません。私たちは何かの「本質」を体験することはなく、たんに比較することで体験するのです。光は闇と比べて、暖かさは冷たさと比べて、喜びは苦痛と比べて感じるのです。もし比べれるものがなければ、たんにその感覚もありません。実は喜びは欲求とそれを満たすものが合致する箇所であり、欲求が大きいほど喜びの体験も大きいのです。
 では、なぜ喜びはいつも消えてしまうのでしょうか?
 お腹がすこし減ったときどうなるかわかりますよね。まずなにを食べるのか考えます。「プレッツェルにしよかな...後にしよう...」 でも空腹感はどんどん大きくなります。「ホットドック二個にしようかな...いや、ピザ一枚にしよう...」「いやわかったぞ、ステーキだ、でっかいサーロインのにしよう」<菜食主義のひとは代わりに、豆腐ハンバーグを想像してください>
 ベークトポテトと、想像できる調味料と一緒に、そして料理がやっと来たとき、地域番号がつくぐらいの大きな、ステーキが食べれる気がします。その最初の一口は快感そのもの。二口目はすばらしい。その次のはおいしい。その次のはまあまあ。その次のは何でも感じたこと。その次は「もう一口もいらない。これ以上食べたら気持ちが悪くなる」
 欲求が減少したのです。それはもうステーキには対抗できないのです。そして、もう喜びは感じられなくなります。欲求が消えたためです。これらすべてが起きる理由は、私たちが自分たちだけを満足させようとする利己的な願望が最終的に人間の経験を制限して物質的なものにしているからです。なぜなら自分自身の欲求は小さく、絶対に充足できないようにできているからです。
 それにもかかわらず私たちは永続的な喜びを切望し、それがどういうわけか必ずあると感じています。そしてそれはあるのです。しかし、それを感じるためにはまず際限のない充足感を引き寄せることのできる、際限のない、いつまでも膨らむことのできる願望が必要です。それをするためには、他人を満たすことに喜びを見いださなくてはなりません。
 この与えたいという願望はスピリチュアルな願望であり、そのひとつの味わいは、すべての生命が今までに感じた喜びすべてを合わせたものよりも大きいのです。なぜならそれは私たちの小さな主観的な欲求のなかではなく、すべてのものの中で感じられる喜びであるためです。その願望には際限はなく、その欲求から得る喜びが尽きることがないのです。

 <2019.4.1 テキストファイル化>   


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