明かされたカバラ16
KABBALAH REVEALED
《 明かされたカバラ16:『世界を是正する』》
こんにちは。『カバラ・リビールド』へようこそ。トニー・コジネックです。
ティクン・オラムとは何でしょう?文字通り、世界を是正することです。しかし、是正とはどういう意味でしょう?世界は壊れているのでしょうか?それとも修正されるべきなのはただ私たちの知覚や人生へのアプローチでしょうか?
私たちは危機にはいっています。世界のどこにいても方向性と目的がわからず、将来が見えない状態です。
カオスの状態になり、人間社会として行き止りに来たように感じています。科学や社会においてであろうが、宗教や国家関係、家族関係においてであろうが,現在起きているどの身近な現象においても、どうすべきかわからなくなってしまいました。
私たちの抱える全問題は知覚の問題です。なぜなら、私たちは利益を最優先に行動するように創られているからです。しかし、これを大規模にすることはでき
ません。なぜなら、私たちは全体像を知覚できないからです。もし全体に関しての規則がハッキリ見えるなら、私たちはたんにそれに従っていたでしょう。私た
ちは常にこの問題に取り組んでいます。このような状況で、どうすれば世界を本当に救うことができるでしょうか?
私たちはティクン・オラム(世界の是正)という理念を社会運動、つまり授与や人々への「親切」だと見なしてきました。しかし、私たちは社会運動が私たち
が望んだ結果を生み出さないことをはっきりと見ることができます。もしかすると、世界の是正とはまったく違うものかもしれません。
さてバール・ハスラムは「マタン・トーラー」(トーラーの授与)という記事を書きました。その記事で彼はティクン・オラムについて、ティクン・オラムは何をするのか、どのように個人と全世界に影響を与えるのかについて説明しています。
その記事を見て、私たちが世界を救うためどのような行為ができるのかを発見していきましょう。彼はこう始めます。
「汝の隣人を汝の如く愛せよ」(レビ記19:18)。ラビ・アキバは「これはトーラーの中の偉大な規則である」と言います。
この発言には説明が必要です。なぜなら、「法」、つまりヘブライ語で法という言葉は、全体、つまり詳細の合計という意味でもあるからです。つまり、それ
らをつなげて組み立てると、上記の全体が形成される。だから知覚の問題なのです。全体が存在し、その全体に対する私たちの知覚があります。そして、私たち
が分離し、これがまったく存在しないかのように全体が隠されています。
これがすべて実際に私たちなのです。それは私たちが発見できるすべてであり、そこには革新はありません。私たちが通過するこの発達のどこにも新しいことは追加されません。それを明かすとは、私たちが何であるのかという明かしであり、つまり全体と同じものです。
この全現実の構造を見るのにいろいろな見方があります。あなたたちはそれを世界システムであるかのように見ることができます。これらのスピリチュアルな上層の世界からまるで隔離されているかのように、この世と呼ばれる世界にいるのです。
これは実際に反対になった同じ考えです。これと比べると、上下が逆になったようなことです。「神聖さ」または「現実」と呼ぶものを明かすために、私たちが実際に感じ、見ることが必要です。この全体性は本当に平和であり、トーラーはそれを私たちに知らせたいのです。
それは実際、このクリエーター、この全体性、この「私たちが何であるか」を明かす方法です。それが全体であり、シャロームまたは平和と呼びます。この全体性がこの方法によって正しくて良好な存在の経験をもたらします。
バール・ハスラムは続けます。
「つまり、トーラーの偉大な規則である『汝の友を汝の如く愛せよ』というミツヴァ(教訓、戒律)に関して話す時、私たちはトーラーの残りの612個のミツ
ヴォット(ミツヴァの単数形)が、そのすべての解釈と共に、たった一つのミツヴァ『汝の友を汝の如く愛せよ』に挿入され、含まれた細部の総和と完全に等し
いということを理解しなければならない。」
この記事が伝えることは、聖書はただの物語や規則ではないということです。実は、それは私たちの存在において私たちが築いているものであり、その築き方
とそれが築かれた後にどのようにそれを動かすのかについてのマニュアルです。それはすべての隠れている現実の詳細を明かす手段です。それらがたった一つの
よい目的のために共に調和して働くようなやり方で。
聖書とカバラのすべての本とは、「汝の隣人を汝自身の如く愛せ」を行うことについてではなく、実際に成し遂げるための方法についてのものです。なぜな
ら、私たちがまるでそれを行っているかのように振る舞う時、私たちは実際には世界に破壊をもたらしているからです。私たちが実際にそれを成し遂げる時に本
当に成し遂げるものはまったく違うもので、とても実際的なことが起きます。
バール・ハスラムは続けます。
「問題の核心部分に入る前に、私たちはミツヴァに従事しなければならない。なぜなら私たちは『汝の友を汝の如く愛せよ』と命じられているからである。『汝
の如く』とは『自分を愛するのと同じ程度にほんの少したりとも劣ることなく友を愛せよ』ということである。言い換えると、国家において、すべての者の欲求
を継続的かつ慎重に満たさなければならないということである。汝が自分の欲求を満たそうと常に警戒を怠らないでいるのと同じように。」
ここで彼の言っていることは、他者に対する自分の感覚が自分自身に対する感覚とまったく同じでなくてはならないということです。これは明らかに親切な人
や善良な市民になることについてではありません。それは、知覚を根本的に変化させ、どう行動しなければならないのかを明らかにすることについてなのです。
彼は続けます。
「これはまったく不可能である。毎日の仕事の中で自分の必要を満たすことができる者はあまりいないのに、国全体の希望を満たすために、どうやって彼らを働
かせることができるのか。私たちはトーラーが誇張していると考えることはできない。それは私たちに足したり引いたりせず、これらの言葉と法律が完全な精度
で与えられたことを証明するよう諭している」
これでもまだ不十分であれば、私たちたちは自分より先に友の必要性を考えなくてはならず、仲間を愛するというミツヴァはより苛酷である、ということを簡
たんに説明しましょう。それは賢者が「彼は汝に満足している故に」に関して書いたように、ヘブライ人の奴隷に関連しています。
「たった一つの枕しかない時、奴隷にそれを与えず自分が枕に横たわるのであれば……」
ここでは主人と奴隷の話していますが、それは実際の主人と彼の命令に従う可哀そうな奴隷の話ではありません。これは人の内面的な要素についての話です。
「もし彼自身が枕をして横たわり、奴隷に枕を与えないなら、彼は「彼は汝に満足している故に」を遵守していない。なぜなら彼が枕をして横たわり、奴隷が地面に横たわるからだ。そしてもし彼が枕をしないで、奴隷にも枕を与えないなら、それはソドム人の規則である」
ソドム人のルールとは、ソドムの都市の規則です。それは、「汝のものは汝のもの、私のものは私のもの」です。もしあなたがそれを持つことができないな
ら、私はそれを持つことはできないということです。それは、それよりも悪くなるでしょう。つまり汝のものは汝のもの、私のものは私のもの、とは、世界中の
すべての国の規則であることに気づくでしょう。それはすべての社会が組織される方法です。
バール・ハスラムは続けます。
「主人である彼が床に横たわり、自分の意志に反して、枕を奴隷に与えなければならないということがわかる」
ここで少しスキップして違う段落に行きます。
「もし彼が椅子に座り、友に与えないなら、「汝の隣人を汝の如く愛せよ」の戒律を破るという判決がある。なぜなら彼が彼自身の必要を満たすように友の必要
を満たさないからだ。そしてもし彼が椅子に座らず、それを友にも与えないのなら、それはソドム人の規則と同じくらい悪である。従って、彼は友を椅子に座ら
せ、彼は立つか地面に座らなくてはならない」
それは彼が意のままに使え、かつ友に欠けているすべての必要に関する法と理解されている。いま、この戒めがどのように可能かを見てみましょう。これはそ
もそも行動によって守られる法律ではありません。人間の性質はこれに完全に反しています。そして、これは行動上で起きるような変化の話ではありません。
つまり、実際に人を物理的に満たすことによる変化の話ではないです。なぜなら、私たちはそこから始めることができないからです。そこから始められない理由は、私たちが行うすべての行為が間違っているからです。
よい行為に見えるとしてもそうです。なぜなら、私たちのいわゆるよい行為は、それが間違った理由で行われると損害を与えるからです。行為がよい結果をもたらすためには、その行為の創造の源がよいものでなければなりません。その源は正しい意図でないとならないのです。
その行為の準備にその意図が含まれていないとなりません。もし意図がその由来や準備から生じているのなら、そしてもしその意図が神性、つまりすべてを世
話する力に適合しているなら、間違いなくすべての私たちの行為はよい行為になります。それは他者が何であるのかについての私たちの感覚の背後にある意図で
す。
この意図は完全に自然法則と一致しています。この意図から、私たちは世界規模のやり方ですべての生命を見て交流することができます。それは訓戒ではありません。私たちはただそれを受け入れて外的に行うことはできません。
それは「おい旦那、これらの規則を守らないとひどい目にあうぞ」というように重荷として解釈すべきではありません。不可能です。それは、すべての重荷と混乱を人間としての経験から取り除く方法に関する内的な方針なのです。
私たちはさらに先に進む前に、本当に自分自身に尋ねる必要があります。つまり、これは非常に素晴らしく高尚な理念ですが、人はいつ本当にそうする必要があるのでしょうか?
そうです。今、私たちはそれをする必要があります。私たちは人間の発達のある点にいます。そこで私たちは扱い方のわからない状況に入りこんでいます。私たちは直ちにすべてとつながらなければならないことに気づいています。
その状態が一番目に見えるのは、例えば現在の技術や経済の進歩のような、完全にグローバル化されている世界です。世界のあるところで何かを行うと、まっ
たく違う場所ですぐにその直接的影響が大きく響きます。私たちの意思疎通のシステムでさえ、非常にかみ合うようになりました。それは私たちが何者で、何を
所有しているのかという考えを壊し始めています。
私たちがこの数千年間で経験したことは、人類におけるある特質の発達に従ったものでした。その特質とは私たちのエゴイズム(利己主義)の発達です。すべての物事、つまり私たちの秘密の場所、私有財産、国家、プライバシーが、です。
しかし、このプライバシーは、私たちの感じたい、知りたい、満足したいという欲求が凄まじく成長しているため、いまや私たちが次の段階にあるという点に
達しました。ただ、私たちはそこでの生き方を知りません。例えばインターネットに何かをアップすると、それはすぐにデジタル化され、全員に属するようにな
ります。私たちはすでにそういう世界にいるのです。しかし、そこで生きる方法がわからないので、私たちはグローバルな戦争に巻きこまれています。
グローバルな経済においてすべての人々から奪い取っている自分を見つけるのです。私たちはいまだにいたる所で貧困と苦悩を抱えています。唯一の違いは、
テレビをつけ、いたる所で全員の苦しみを見ることができるということです。このグローバル化された状態の中での生き方を学ばなければなりません。この左右
できない状態、むしろ私たちが支配されているこの状態から抜け、完全性と一体性に導く手段は「汝の隣人を汝の如く愛せよ」です。
再び図を見てみましょう。
前から存在するこの現実は明かされる必要があります。これが「汝の隣人を汝の如く愛せよ」が現実を明かし、すべての戒律を守る手段の両方である理由です。613のすべての戒律は実際、「汝の隣人を汝の如く愛せよ」の詳細です。このように──。
この現実の中に自分自身を見、その小さな部分しか認識できない時私たちは分離されたものとして自分自身を見ます。
これは私です──「自分」というもの。他のすべての人──すべての他者──は、実際にはこの全体を構成する集合的な魂の中の単一の視点ですが、自分自身
を完全に分離されていると見ているのです。いま、もしこの私が拡大し、自分自身の必要性としてエゴイズム──他者の分離したニーズ──を見始めるなら、そ
れらが実際に自分のものになるように拡大します。この拡大の結果、自分自身と同じように他者を含めるという全体の段階が明らかになります。
そして、全体の知覚のこのより大きな段階は、自分自身のように他者を愛するためだけに起こったのです。他者の器は個人の欲求と統合するとその人のものに
なります。自分「自身」と皆の「自身」の差はなくなります。要するに、この個人的な知覚は拡大し続けるとすべての存在上のポイント・各要素を含め始めるの
です。
「私のものは私に属し、あなたのものはあなたに属する」という制限を超える結果、「あなたのものはあなたに属し、私のものはあなたに属する」になり、元々
存在するもの、つまり神性は一つの全体になります。そのように拡大することで自分という知覚は消え、一つの全体的な現実しか存在しなくなります。これが私
たちが友を自分自身として愛する方法です。
すなわち、他者を親切に扱う仕方の説明の全詳細である全戒律を守る方法、そして実際に現実を十分に把握する方法です。他者に対する愛を通じることでしか
現実の全体が明かされることはありません。トーラーのこの法則、自分自身と他者との同一化の拡大を実際に成し遂げる方法のこの教えは、私たちがこのグロー
バルな状況に生きるための唯一の手段です。
このグローバルな状況はこの目に見えていない境界線からなっています。実際は、もうすでに完全にこれらのポイントとつながっています。この全体性を知る
ために唯一知るべき法則は、他者を自分のように愛する法則です。それさえ守ることができれば、互いを悪用せずにこのグローバルなシステムに一致して行動で
きるようにります。すると、システムがうまく動くようになります。
いま、この「汝の隣人を汝自身の如く愛せ」は宗教家や哲学者やすべての「よい人」が口にします。しかし、ただの口先でしかないです。実際にどうやってそれを達成するかを見せるメソッドはまだありません。カバラが取り扱うのはこのことだけです。
その外見上の複雑さのすべては、詰まる所この一つのメソッドということになります。それは、他者を自分自身として見たいという、誠実で完全ですべてを含
んだ欲求に達する方法です。この一つの戒律は、上層の現実の指令・指示です。なぜなら、それはその性質そのものであり、私たちが行う必要のある唯一のこと
であるからです。そして私たちに必要なことは、実際にこれを達成させる方法に関するアドバイスだけです。
汝自身のように汝の友人を愛せ、はスピリチュアルな世界へのドアです。なぜなら、友人への愛を通じ、本来の真実の性質を明かすために、各々の小さな個人的で利己的な扉を結びつけるからです。しかも、内面的なものとして明かすのです。
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