明かされたカバラ12
KABBALAH REVEALED
《 明かされたカバラ12:『カバラと宗教の違い』》
こんにちは。『カバラ・リビールド』にようこそ。トニー・コジネックです。
カバラは人と上層の力であるスピリチュアルの世界やクリエイターとの関係を扱っています。そのため、カバラは宗教ではありませんが、よく宗教と勘違いさ
れます。宗教を信仰している人がクリエイターの存在を信じているため、カバラも宗教だと思われているのです。彼らは祈りを通して、クリエイターとの関係を
築いています。そしてまた、彼らが感じているクリエイターが彼らに求めている事や、宗教の伝統にしたがって確信している事を実行しています。
宗教に準じて、クリエイターと親密な関係性を構築しているのです。もし彼らがすべてを持っているなら、クリエーターの存在と、その関係性、自らをクリエーターへ近づける方法・・・それ以外に何か可能性はあるのでしょうか?何か他に可能な事はあるのでしょうか?
まあ、実際、それ以上はありません。問題はそのやり方、それが起こるパラダイムです。カバラは宗教ではなくメソッドで、実際には科学です。クリエイター
と直接的な関係を確立する方法です。カバラは宗教と同じ要素を用いてますが、パラダイムは完全に異なります。違いはゴールが内的か外的か、そのどちらへ向
かってその要素に取組んでいるかにあります。
カバラは内的と見なされるプロセスについて述べています。この2つには極めて顕著な違いがあります。宗教とまったく同じ要素でも、もし、人がカバラのパ
ラダイムで取り組んだら完全に違った経験をします。上層の力との直接的な関係をもって理解を深め獲得することは、単なる人生の喜びではありません。それは
クリエイターの精神による真実の喜びで、そこにクリエイターとの真の関係性があります。
では、一体どんな違いがあるのでしょうか。真の関係性を実現するために、これらの要素で何ができるのか見ていきましょう。
まず、私たちの師、マイケルライトマン博士による記事「カバラと宗教の違い」を読んでいきます。この記事でライトマン博士は正確な違いを指摘しています。その違いは小さなものですが、この洞察は人生を変えるものです。彼はこう言っています。
宗教は、人の行動に応じてクリエイターはその態度を変えると前提しています。しかし、上層の力は不変であり、人の行動が上層の力に影響を及ぼすことはあり得ないと、カバラの科学は述べています。代わりに、人の行動はその人自身を変えることができます。
もし人が、クリエイターへより類似する目的で自分を変えるのなら、上層の支配をまったく違うものとして知覚できるでしょう。その人は、クリエイターを優
しい善なるものとして知覚することができます。人の特性(受け取り)とクリエイターの特性(授与)の違いが大きくなると、人はクリエイターの態度をより否
定的に感じます。自分たちが生きている場所、取り巻く環境を見れば、完全に私たちは環境に依存しているのだと気づきます。
環境は私たちをしたいようにすることができます。そこには、私たちが理解しようとする巨大な力が存在します。私たちはその巨大な力を科学を通して習得し
ようと試み、それらをコントロールするために、できる限りすべてを行います。なぜなら、私たちはそれらを畏れているからです。
そして、それらをコントロールできないと気づくと、私たちは別のアプローチを試み、それらと取引しようとします。私たちはそれらに要求し、犠牲を払うのです。そして、自分たちで直接コントロールできないこれらの力に対して何らかの影響を与えようとします。
この全取引は「祈り」と言われるものに相当します。なぜなら、私たちの物事を理解する方法によって見えている、すべての事に私たちは関係しているからで
す。そして、自然も私たちのように反応すると信じています。つまり、もし誰かに良いことをしたら、その人も良いことを返してくれると信じているのです。つ
まり、自分たちの性質から物事を見ているということが、私たちのエゴの性質です。そのため、私たちが理解していない自然法則もまた利己的に働くと、判断し
ています。良い行いをすれば、見返りがあるだろうと。
これは、私たちは利己主義者であるため、見るものすべてがそのように見えるからです。だから、気づけば私たちは大きな力に逆って人生の状況を改善しようとしています。チャリティーや動物保護、社会活動、自己犠牲などで善人であろうとするのです。
そこには、これらの隠された畏れる力が良い態度を返してくれるという期待があります。カバラの文書には、被造物に対するクリエイターの態度は不変である
と示す表現がたくさんあります。「私は名前を変えない」「彼は被造物に対し、善人にも悪人にも、善する善である」「上層の光は完全に静止している」などで
す。
ご存知かもしれませんが、これらは聖書の中に書かれている言葉です。実に神秘的な感じがしませんか。
これは何について語っているのでしょうか。
ここでは、クリエイターの性質や授与の性質は、変化するものではないと語られています。それに対して変って欲しいと願うことはできません。常に同じよう
に作用し、同じことをしています。それは、「光は静止している」と言われるもので、安息日(Shabbat)を意味します。
安息日(Shabbat)は、人がこの世で、そしてこの世を超えたところで到達することのできる最も高い状態との最も強いつながりとみなされています。つまり、アツィルトの世界へのつながりで、これは静止状態ということです。
「静止」とはどういう意味でしょうか?
光は絶対に変化しない性質があるため静止しているのです。それは万物を創造し、いつくしみ続けるという性質です。それはすべてを包含する、愛の不変の態
度です。私たち本来の利己的で下等な性質から抜け出て、スピリチュアルな世界に入ったカバリストたちは、上層の光の不変性について語っています。
そして自然は、私たちが自然と交渉しようとする時の考え方とはまったく逆に機能すると述べています。上層の力は不変で、変わる必要もないものだと、私た
ちは思ってます。なぜなら、それが不変であり授与であれば、時に授与して時に授与しないということはありえません。それでは授与ではありません。
上層の力であろうとなかろうと、すべての宗教が言うように、「クリエイターは善である」と私たちが感じられないのなら、問題は上層の力ではなく私たちにあります。したがって、祈りは自己判断、自己分析と言われています。
これは、人がクリエイターにアピールする代わりに、上層の不変の力について自分自身を判断して分析している時のことだ。人は変わるにつれ、不変で絶対的
なクリエイターに自分自身を関連させて是正する。自分自身とクリエイターに対するこの態度は、カバラと宗教の違いを構成するものです。
宗教では特定の個人的な変化を求めるが、それはクリエイターへの訴えに基づいている。この世において、宗教は上層の自然の力を広範囲にもたらす世界最古の信仰と似ている。それで、もし祈りによってクリエイターを買収できないのなら、私たちは何を祈り、叫ぶのでしょうか?
クリエーターを理解できるように私たちを変えてくださいと、クリエーターに頼まなければなりません。クリエイターに態度を変えてくださいと頼むのではな
く、私たちの知覚手段を変える必要があるのです。私たちはこの事を知っています。なぜなら、カバリスト達が私たちにそれを遺したからです。
この考えは私たちの性質から創造されたのではなく、私たちの性質を抜け出た人々によって、カバラの書物の中に遺されました。そしてもちろん、トーラーや
他の聖典はすべてカバラの一部です。私たちがこれらの言葉を神の言葉と言っているのは、人の性質を超えた段階からきている言葉だからです。
そこでは、発達の過程で私たちが求めることとは反対の、まったく違う態度をとるようにと、言っています。そのため、トーラーの規則は地主の規則とは反対であると言われます。「トーラーは上層の光」で「地主」は私たちの性質、利己主義です。
ライトマン博士は記事でこう言っています。
クリエイターが人への態度を変えるという信念は、嫉妬を導く。クリエイターにより大きな愛で遇された、「神に選ばれし者」は誰かということになるから
だ。それは人の間だけでなく、宗教間での確執も生じさせる。様々な宗派の代表者は、クリエイターは誰の祈りにより喜んで答えるのかと討論をしているのだ。
このパラダイム、つまりカバラと宗教の違いを見ていきましょう。この世界には宗教を信じる人々がいますよね。その人たちは、上層の力であるクリエイターを信じています。その人たちにこの上層の力から、色々なでき事や力、状況がやって来ます。
上層の力はこの概念のすべての責任を持っています。これらのでき事は、世界の人びとにとって肯定的か否定的か、そのどちらかに感じられます。人ができ事
を否定的に感じると、宗教的で説明されているアプローチで、行動を開始します。その体験を否定的なものから肯定なものへ変えるため、上層に影響を及ぼすと
される行動を起こすでしょう。
そのため、その人は慈善活動をします。その人は自己犠牲の行為をするでしょう。つまり、コミュニティの中でいろいろなことをします。良い結果を得るた
め、ここに効果をもたらすすべてをします。そして彼は「祈り」という要求を高めるでしょう。主の慈悲によって、彼が起きると信じているクリエイターの態度
の変化が表われるように見えます。
言い換えると、クリエイターは矛盾しています。私に対して時には良いことをし、時には悪い事をするのですから。なされた行動とこの嘆願の組合せでは、ク
リエイターから悪い結果や態度を得る代わりに、人が要求するなかで、これらの事を通して肯定的なものに変えられるような影響力があるでしょう。
つまり、人の持つクリエーターに対する認識とクリエーターの態度が完全に矛盾しているということ。肯定的か否定的か、そのどちらかになるというのは可変です。そのため、ここではクリエイターの実際の性質について、まったく何も発見しません。
ここでは、人のために存在する支配原理に基づいた全システムを人が操作しているからです。ここでは、良い事をだけを経験しなければなりません。しかしこれは、利己主義というこの原理を導く定義から見た「良い事」です。
つまり、ここでは物事を変えたくありません。クリエイターからどんな悪い事も感じたくありません。
自分は同じ状況のままでいたいのです。人はこの定義を通して快適さや良い状況を受け取りながら、自分の周りに対してクリエイターの態度が変化することを望んでいます。自分のためだけに望んではいません。
つまり、おそらく人は表向き、利己主義者としては振る舞いません。利己主義者にならないように努めています。彼らは家族や自国、生態系のことを案じているかもしれません。でも、人々はクリエイターの態度が悪いと考えていて、依然としてそれを変えようとしています。
カバラのパラダイムにおいても、まったく同じ要素があります。クリエイターがいて、世界中には人がいて、人々に影響するでき事があります。カバリスト
は、それらのでき事を肯定的と感じたり否定的と感じたりします。しかし、カバリストは起こることすべてが良い事だという原理を起点にしているため、クリエ
イターの行いは変わりません。
クリエイターの行いは常に良い事なのです。ということは、人生で起こるでき事もすべて良い事です。だとすると、人が恵みを請う場所はどこになるのでしょうか? この図のこのような所です。
宗教家が良い結果を要求し、クリエイターが神の恩寵を示すことができる場所です。この2つのパラダイムでは、変る・変らないの点が完全に異なっていま
す。ここでは、クリエイターとクリエイターの力が変らないことが分かっています。ここでは、人の態度が変らないことが分かっています。
人は変わらないし、成長しません。クリエイターは不変でクリエイターの力も不変です。つまり、唯一変化する所は彼ら自身の態度です。多かれ少なかれ、彼らはクリエイターが送ってくる各でき事の背後に良い事を感じることができています。
カバリストが上げる祈りは、でき事の不変性と、その背後にある考え、その両方を理解するための祈りです。そのためカバリストの祈りはまったく異なった支
配原則によって機能しています。この支配原則は、なぜ起こることすべてが善であるのかを定めている、天地創造の思想ですだから、すべてが善であることを理
解させて欲しいと、カバリストは絶えず要求をあげ続けています。その結果、その人自身は次のように理解を深めていきます。
表面的な外的事象は、良く見えたり悪く見えたりするが、すべてクリエイターから一定不変に来る正しい意図のもう一つの表現だと気付くのです。その結果、この態度を通して人に深い知識が創造されます。
これは、人は変り、人は立ち上がるということで、これは常に動的です。しかしここでは、常に静止状態です。言い換えると、ここは「聖なる静けさ」「厳粛
な静けさ」とカバリストに言わているところです。なぜなら、ここが神聖さや厳粛さにつながっていないからではなく実際ここには変える欲求がないのです。
なので、その祈りは人の現実を変えません。この祈りは……ある種の心理学的トリックで、「すべてOK」と言われるある種の精神的平和を人に与えるに過ぎ
ません。自然がどのように機能していて、クリエイターの本当の態度が何であるかを本当に理解していてもいなくてもかまわないのです。
ここで人は快適さを感じることが許されていて、そしてこう言います。
「未来で、別の人生で、別の世界ですべては良くなるでしょう。そして、どうか私の周りは何も変えないでください。あなたは私に仕えます。なぜなら世界は人のために造られたのですから」
そうです。世界は人のために造られました。でも、様々な世界を通して人を上昇させるために造られました。クリエーターが人のために意図したこと。つまりクリエイターとの形態の同等性(クリエイターと同じになること)に人が到達するために造られたのです。
カバリストはこのメソッドを使ってレベルをあげてきました。それによって、私たちは与えられた聖典を読み教育を受けることが、利己的な視点を通してとは
いえ、できるようになったのです。彼らが私たちに与えたことの真の意味はここにあり、この方法によって私たちは聖典の中に書かれている事を獲得できるよう
になりました。
しかしながら、クリエイターには私たちが口に出す言葉は聞こえない。その代わり、私たちの心の感情を読み取る。それゆえ、心で感じていない、意味のない美しい言葉を口にする事に、時間と力をかけるのは意味がない。
私たちに求められている事は唯一、私たちが全体で懸命にクリエイターへ向かうことです。そして、私たちの欲求の本質を理解し、彼らに代わってクリエイ
ターに願うことです。最も重要なのは、私たちがクリエイターとのコミュニケーションを決してやめてはいけないということです。
またお会いしましょう。
<2019.4.7 テキストファイル化>