明かされたカバラ08:『彼以外には何もない』パート1 3/3
KABBALAH REVEALED
《 明かされたカバラ08:『彼以外には何もない』パート1 3/3 》
そして、その人は現状での自分の欠点を絶えず示されます。つまり、その人の努力に不利に働く考えと意見がその人に送られるのです。これは、その人が神と一体になっていないことを見るようにするためです。
言い換えると、この拒絶と疑念を感じるといった差異は、その人のものではないのです。それらは霊的な大人になる間に、成長している間に、その人に行われ
るクリエーターの行為です。明確に、隠蔽は送られてきて、それは疑いとして感じられ、努力にとって不利にならなくてはなりません。その時点までどれだけ順
調に進歩してきたかに関係なく。
それは故意にそれらすべての土台を壊さなくてはなりません。それはその人が、特定の状態に於ける現在の自分の場所と、理性を超えて何を克服しなくてはならないのかといった次の居場所の差異を見ることができるようにするためです。
なぜなら、満足すると人は「私は神と一つだ。私はだいじょうぶ。私にはこの知覚があった。私はだいじょうぶ。私はすべてを知っている。私にはこの段階に
於けるある種の信念がある」となるからです。そうではなく、クリエーターは被造物を創造し、それを触れあい、光で完全に満たしたいのです。それは無限でな
くてはなりません。
よって、私たちは次のレベルに上昇するための必要性を形成するために、現在どれだけ次のレベルと自分たちが異なっているのか見なくてはなりません。そし
て、その人が克服する同じ程度に、その人はいつも自分がいかに、神と一体であると感じている他者よりも、神聖から遠くに位置していることを目にします。
しかしその一方で、その人には常に不満と要求があり、クリエーターの行動及びクリエーターのその人に対する態度を正当化できません。そして、その人が神
と一体でないということが、その人に苦痛を与えます。その人が神聖に於いて関わりのかけらもないということを感じるまで。
人は自分の状態が変わるのを見ます。その人は自分の周りの人が満足していることに満足しません。その人は完全なる準備の段階まできます。つまり完全なる
疑念と完全なる絶望に陥るのです。これは起きる事の一つであり、これは準備です。それはゴールに向けられた絶望であり、人生に対する絶望ではありません。
つまり、人生には価値がないというのではなく、その人が決めたゴール、クリエーターと一体化するというその人の意志が完全に自分の力を超えているという
ことです。つまり、受け取る意志という創造された人の性質の中での能力、行為、そして知性で成す事が不可能であるということです。そして、時折その人は上
層から覚醒され、それはつかの間その人を復活させるとはいえ、すぐにその人は地の底に陥ります。
しかしながらこのことが、その人に神のみが助け、その人を本当に近くに引き寄せれるということに気づかせます。その人が授かる悟り・覚醒でさえ助けにな
りません。それはクリエーターのみに対する必要性、光のみに対する必要性が現れる時点まで続かねばならないのです。私たちがこの世における行為で何かがで
きるといった概念を本当に捨てなくてはならないのです。
これを前進させる人による行為はありません。内面の願望を育てる事だけがどんな変化をも起こせるのです。人間は常にクリエーターにくっつこうと努力しなければなりません。
すなわち、その人の考えることのすべてが彼(クリエーター)についてであるということ。つまり、その人がたとえ、そこからのより大きな下降があり得ない
という最悪の状態であっても、その人は彼(クリエーター)の領地から去るべきではない、すなわち、その人が神聖に入るのを阻むもう一つの権力があり、それ
に利益を与える又は害する力があると考えるということ。
そして、これが疑念の内容です。これを生じさせている何か他の原因があるということです。その原因が自分にある、または、世界がある一定の状態であるから自分の環境が阻止されているなど、クリエーター以外にこれらすべての行為をしている何かがあるということです。
すなわち、人間が善行をなすことと神のやり方に従うことを許さない、向こう[反対]側(シトラ・アフラ)の力から成る物質があるとその人は考えてはなりません。そうではなく、その人はすべてがクリエーターによって行われていると考えるべきです。
世界の中にもう一つの力、すなわち殻があると発言する人は、“ほかの神々に仕えている”状態にあります。必ずしも異教の考えが罪であるわけではなく、も
しその人がクリエーターのほかに、もう一つの権力と力があると考えるのなら、それによってその人は罪を犯しているということであると、バール・シェム・ト
ヴは言いました。
つまり、人を引き離すもう一つの力があると考えてただ目標をあきらめること、力は一つではなく、すべてがクリエーターではないと決断すること。この隔た
りを「罪」と呼ぶのです。さらに、人間が自身の権力を有すると発言する人、つまり昨日はその人自身が神のやり方に従いたくなかったと発言する人もまた、異
教の罪を犯していると見なされています。
つまり、クリエーターのみが世界を導くとその人が信じてないということ。私たちがクリエーターとの形態の同等性に達するまでの、霊性を感じ始めるまで
の、私たちにあるすべての考え、すべてのフィーリング、そしてそれらに基づいてなされるすべての選択、これら一つひとつのものは、私たちの中に置かれてい
ます。
これらはすべてクリエーターの行為です。このことに於いて、人間には権限がありません。人の願望だけ、器を成長させることだけ、特に光りに対する必要性です。この真の祈りが人間の唯一の行為であり、上昇するのに唯一必要なものなのです。
次回はこの記事の続きをやります。ではまた。
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