明かされたカバラ08:『彼以外には何もない』 パート1 2/3

KABBALAH REVEALED

アンソニー・コジネック
Anthony Kosinec


《 明かされたカバラ08:『彼以外には何もない』パート1  2/3 》

https://www.youtube.com/watch?v=GXxCuSQg1SE

 これは、世界の中には最初から人を正しい道から逸らすことを目指すものが存在し、それらがその人を神聖から退けるということを意味しています。それはこ のように造られているのです。それ ―― クリエーターが隠れているということ ―― とクリエーターを知覚したいという願望に向けられた進化とは、その計画の一部なのです。そして、これらの拒絶の利点とは、それらを通じて人が、神がその人 を助けることに対する完全な願望と必要性を受け取るということであり、さもなければ自分は当惑してしまうと見るからです。
 この必要性は、実際にカバラが祈りとして定義するものです。カバリストにとって、祈りとは口頭の言葉ではありません。それは口に関係するものではありません。それは祈りの本の中にある概念や言葉の繰り返しではありません。
それは生理的なレベルの必要性です。それは人の願望の中で生じた何らかのものです。望んでいるもの以外には答えがあり得ないためです。
 そして、クリエーターが隠れていることと、この右と左の手の動きがクリエーターに近づきたいという必要性を故意に生じさせるのです。すなわち、疑念をな くさせるため、私たちにこれらの疑念を生じさせる私たちの性質を超越させるためです。そして、これが利点なのです。これを「是正」と呼びます。この願望の 発達のことです。
 さて、何が起きるのでしょうか? この利点を人はどう感じるのでしょうか?
 その人は作業において進歩しないだけでなく、自分が後退していることを目にし、たとえ彼女の名のためでなくても、トーラーとミツヴォットを遵守する力を欠きます。
 私たちは目標がクリエーターの様になれるようになること、クリエーターのためという内面における、クリエーターに向けられた意図の形態の同等性を造ると いうことであると知っています。それは自身への配慮なしに、その要求なしに、与えることです。それを「彼女のため(リシマ)」と呼びます。
 しかし、人はそれに近づく事さえもできないことから、人を教えて進化させて必要性を生じさせる感覚が、“彼女の名のたm”でなくてさえも、つまり自分自身のためでさえも、その作業を行うことすらできないといったものなのです。
 その拒絶と疑いはあまりにも大きくなります。それは過程の一部であり、起きます。片方の手がきて、その後にもう片方の手がくるといった繰り返しなので す。人にこれが起きるとき、その人が間違っているからこれが起きているのではありません。それはシステム自体がそう造られているという理由で起きるので す。
 すべての障害を理性よりも上で、真に乗り越えることによってのみ、その人はトーラーとミツヴォットを遵守できます。これが人のために造られたものです。 つまり、疑念に対処してその後に、親密さを感じるといった満足を得ることは不可能であり、これら二つの変化は常に隠された状態、隠蔽の感覚を生みます。
 そして、トーラーとミツヴォットを本当に遵守していける唯一の方法、つまりクリエーターのように成る方法、クリエーターに近づき親密なきずなを結ぶ方法 は、そのレベルの上、理性よりも上にあるのです。しかし、その人にはいつも理性の上に超越する力があるというわけではなく、力がなければ、その人はクリ エーターの道から逸脱することを強いられます ―― 彼女のためからでさえも、どうかそんなことがありませんように。
 そして、その人は、いつも粉々になった状態が全体より大きいと感じます。つまり上昇よりも下降のほうがずっと多いということです。そしてその人はこれら の苦境に終わりを見ず、理性の上に超越することを経ないかぎり、その人がほんのわずかでさえ遵守することが自分にとって難しいということを目にするため、 彼は永遠に神聖の外に留まるでしょう。しかしその人がいつも超越できるというわけではありません。
 さて、そのすべての終わりは何でしょうか?
 これが人の内面に生じる隠蔽と必要性の度合いです。それは極度にまで表されるようになります。つまり、人がこれを望めば望むほど、本当に欲しがるほど、 それから遠ざかっているように見えるのです。これは大人になりつつある子どもに対する親の態度に似ています。子どもに余裕を与え、自立させ、親が一歩離れ るのです。そして、青年の戸惑いの激しさは極限状態であり、それは親の愛情よって子どもになされるのです。この極度に離れるということです。
 そして、そのすべての終わりは何であろうか?(どのようにそれが可能なのでしょうか?) その後、その人は神以外に自分を助けれる者がいないという結論 に到達します。これはその人の中に、自分の目と心を開かせ、神との永遠なる付着により近づかせるよう、神への心からの要求を生じさせます。これが最終的に 起きる事です。真の祈りが人の中に現れるのです。つまりクリエーターを騙すことはできません。ある事を口にしてその他のものを望むことはできません。
 これがすぐに叶う種類の祈りなのです。なぜなら、クリエーターとは現実の全体であり、発達の力が発達に必要な特定の条件に反応するからです。つまり、被 造物の中により高い状態を生じさせる何かがなくてはならないのです。その、より高い状態は必要性を深めることの結果としてしか起きません。
 すると、当然の結果としてその人が経験したすべての拒絶が、クリエーターからきたということになります。つまり、その人が経験した拒絶の理由とは、克服 する能力がないからというその人の責任からではなく、これらの拒絶が神に本当にもっと近づきたいという人たちのためのものであるからです。
 そして、そのような人がほんの少しで満足しないために、すなわち、知識のない小さな子どもとして留まらないために、その人は上層から援助を受けます。そ の人がトーラーを遵守し、善行を果たし、神に感謝すると言うことができないように。そして、それ以外にその人は何を求めることができるでしょうか?
 クリエーターのこの行為、その人が受けた拒絶、その人の中で生じた疑念は、クリエーターによってその人に与えられたのです。特別に、その人が静止するこ とのないよう、その人が遠くはなれた状態から何らかの感覚、何らかの考え、何らかの信念で満足しないために。言い換えると、実際にその人が子どものように 振る舞わないように。
「神はいる。神は僕の世話をする。僕が何かを求めれば、もしかすると神は僕への態度を変え、僕に優しくなり、この状況をなくしてくれるだろう」と。
 子どもはこのように親に対応し、操ろうとします。しかし子どもに対する親の愛の特性を変化させる、子どもに可能な事とは何でしょう? 自然界、物質界の 中でさえ、子どもへの母又は父の愛は、子どものためのすべてを包含しています。それを変えれるものはありません。それは不変です。
 よって、この様に人が留まらないためには、この状態に満足しないということなのです。時に近づけ、時に遠くに追いやる、この力は、私たちを霊的な大人に 進化させるためなのです。そして、その人に真の願望があって初めてその人は上層から援助を受けます。これが条件なのです。真の願望があって初めて、当然、 上層からの援助があります。
 クリエーターがその人に対する態度を変えたのではなく、その人のクリエーターに対する必要性が変わったのです。人の願望 ― 器 ― が、クリエーターの認知を可能にする場所をその中に開放し、こうしてそれが生じるのです。
 それは法則です。それは起きます。祈りが叶うかどうかは、完全に被造物の中の態度の変化にかかっています。

 <2019.4.8 テキストファイル化>   


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