明かされたカバラ04:発達の力と苦悩の意味
KABBALAH REVEALED
《 明かされたカバラ04:『発達の力と苦悩の意味』 1/3 》
カバラリビールドにようこそ、トニー・コジネックです。前回は現実の青写真、創造の思考、クリエーターの行為、上層世界の特質、スピリチュアリティーとは何かについて学びました。
この創造の思考とは、被造物を創造し、それを限りない喜びで充足させることであり、いかなるでき事もこの理由で起きます。人生の全でき事もこの結果とし
て起きます。それから発せられているのか、あるいは、それの充足に向かっているのか、どちらかです。その特質を知覚できようができまいかに関係なく。
そしてこれが問題なのです。なぜなら、私たちは人生に対する、最も深い疑問の中で、私たちが何処にいて、何処に向かっているのか、認識できない原因が、
「もしもクリエーターが完全な善で善だけをするのなら、なぜ悪を目にするのか?なぜ悪いでき事があるのか?」という事実にあると考えてるためです。
この問いを探るために、カバリストは、私たちに混乱することなく本当の答えを見いだせる、この探索方法の境界線を設置しました。
バール・ハスラムは、カバラにはルールがあると伝えます。それは「獲得(達成)できないものには、名前を与えることができない」というものです。これはどのような意味でしょうか。
私たちの到達したいゴールはクリエーターの直接的感覚です。それは概念や知的分析ではありません。なぜなら知的分析には本当の答えがないからです。概念
を確信することはありません。私たちは自分の内側でそれを感じなくてはなりません。ちょうど自分の足がどこに立っているかを感じるのと同じように。また
は、目の前にあるものを見るようにです。
そこには実体がなくてはいけません。概念や抽象観念ではなく、知覚に本当の変化があるときにだけ存在するのです。人は人生のでき事を本当に理解する事は
できません。なぜなら人は全現実の半分を拒絶しているためです。人は悪いとみなす全でき事の半分を拒絶します。その理由は私たちにある内面のプログラム
――受け取る意志――のせいです。その受け取る意志が指導システムとして機能し、私たちはそれに完全にコントロールされています。
その指令は、私たちの考える良くて喜びを与えるものに私たちを引きつけさせるか、喜びを与えないものや虚無感を与えるものから遠ざかるようにさせます。
私たちは常に良いとみなすものだけを探します。したがって、これら両方のでき事の目的に対する私たちの知覚は誤っています。なぜならそのでき事の全体に、
注意を向けることがないためです。
いつも全体の小さな部分しか見ていないのです。なぜなら私たちは問題それ自体の、レベルの中からしか見ていないためです。これは大きな問題です。なぜなら私たちの知覚は対比することでしか、機能しないからです。冷たさはその対比である熱でしか分かりません。
「上」は「下」を関連させとときにだけ分かります。もし私たちが熱そのものにおける特質だけを見て、その対比や反対の特質が無かったとすれば、それは本質
であり、その中に何も感じることができません。何の変化もなければ何も測定できないのです。この場合、熱について何を知ることができるでしょうか?
何もないようなものです。たんに何の感覚もないのです。したがって、良いこと及びそれが良いとみなされている理由と、悪いこと及びそれが悪いと見なされている理由の比較を測定しなくてはなりません。
私たちには信頼がおける変化しない物差しが必要です。でも、そのように思わないかもしれません。なぜなら、私たちはより大きな現実領域を知覚することができないためです。
しかし、私たちの善悪に対する評価はすべて受取る意志の視点からであり、完全に主観的であり、それは常に変化する物差しです。つまり、私たちは特定ので
き事を悪と呼ぶことはできますが、それを本当に深く調べて、それに対する自分の真の反応が何であったかを調べれば、そこに「獲得できないものには名前を与
えることができない」という意味があります。
私たちは実際の経験を考察しなくてはなりません。例えば津波災害(スマトラ沖地震)では、40万人の死傷者がでました、その世論調査をすれば皆が「恐ろ
しい」と言うでしょう。「死者の数が極めてひどい」「被害者がひどく苦しんだ」 この災害の規模は想像を絶しそれは悪いことだと。
しかし、もしあなたがそこのリゾート地を再建する建設会社のオーナーだったとしたらどうでしょうか? それはあなたに起きた五年間で一番良かったことです。そうすると、あなたは何を本当に経験したのでしょうか?
自分の観念に従って「それについてこう思うべきだ」というのですか。良いものに対する観念がこれで、悪いものに対する観念がこれというようにですか。
そうではなく、私たちは自分が本当に感じることに従わなくてはなりません。それ以外を測定するのなら、それは架空なものです。一方、人間よりも低いレベルの生命を考察するとき、最初に悪いでき事と思ったことが良いでき事として理解できることも時々あります。
例えば、山火事ならそれが及ぼす大きな被害を見て、木にとっては悪いと言うことができますが、広い視野から見れば、山火事の後に木々がより生い茂り、よ
り多様でより茂っに森をつくる意図があるかもしれません。もしそうなら、森の成長を妨げていた山火事の見方が変わります。
もし、それをプロセスとして見なすなら、災害を良い事として捉えられます。私たちよりも低い生命レベルに、より大規模な発達を見ることができるためで
す。私たちよりも低い生命レベルには静物または無生物レベル、植物レベル、動物レベルがあり、その上に私たちの住む人間レベルがあります。
しかし残念ながら、このレベルもたんに複雑な動物です。私たちに起こっていること。そのプログラミングと本能レベル。そしてより広い視野で人生のでき事
が理解できるようになるためには、たった1つの断面を見るだけでは、その計画、ベクトル、目的地に向かっている物事の発展の仕方を理解しません。
人間レベルでこの断面だけを見て理解することは不可能です。自分の髪を自分で引っ張って高いレベルには上がれません。私たちはカバリストが「スピーキング・レベル(言葉を話すレベル)」と呼ぶより高いレベルからそれを考察できるようにならなくてはなりません。
人間のスピーキング・レベルでは、人は上層のシステムの一部になり始めて、クリエーターがもたらす指導システムの全体像を見ます。その唯一の力が受取る意志を通じて私たちを良いものに引きつけて、悪いものから遠ざからせるのです。
もし、たちがこの上位のレベルからそれが見れるなら、私たちは様々なでき事を分離されたものと見なさなくなり、どんな物事の理由も認識できないこの時空間に、関連させて、それらに名前を与える事もなくなります。
<2019.4.1 テキストファイル化>