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徳川家康の海外渡航による総決算
江戸初期、徳川家康は大名に海外貿易のための御朱印船を作らせ、東インド会社との貿易を開始して膨大な利益をあげるが、家康はその成果を独り占めにするべく後に全てを没収していく。名古屋の徳川美術館には徳川家の財宝を記した「久能御蔵金銀請取帳」があるが、それによると一箱に純金の「ふんどう」百個入り200万両、全て合わせて600万両の財宝(二兆一千億円相当)があったといわれる。現代の日本銀行には当時の「純金ふんどう」の一部が保管されている。そうした膨大な財宝を抱えながらも、家康には一抹の不安が絶えずつきまとっていた。それは関ヶ原合戦における豊臣秀吉の残党の存在であった。関ヶ原合戦から四年後、秀吉の七回忌で踊り狂う豊臣家の残党を見る家康の恐怖は頂点に達していた。
- 江戸城下に徘徊する三十万人に及ぶ浪人の存在は、いつ徳川幕府の転覆が起きても不思議はない無言の圧力となって家康を脅えさせていたのであった。しかし老獪な家康はここで一計を案じる。海外渡航のブームを利用して、城下の浪人たちを傭兵として海外に輸出しようとしたのである。家康の申し出を受けたのは東インド会社であったが、この会社の胡散臭さを考慮すれば、むしろ家康に入れ知恵したのが東インド会社の方であったかも知れない。オランダのハーグの国立図書館には当時の日本人傭兵59人の名簿が存在する。彼らはオランダの植民地バンタンに向けて輸出されていった。
そんな中でシャム(現タイ)に輸出された山田長政は、シャム王族に雇われてめざましい活躍で貴族に取り立てられていた。勇敢な日本人傭兵の活躍はたちまち日本の知るところとなり、家康の傭兵輸出は更に拍車がかかりシャムのアコタヤには日本人町まで出来るようになる。慶長二十年(1615年)、機が熟したとみた家康は15万の大軍をもって大阪城を三日で攻め落とす。俗に言われる「大阪夏の陣」である。これで徳川幕府の基礎を築いた家康は、同時に傭兵輸出も取り止める。
傭兵輸出禁止はシャムで戦う山田長政にとって手痛い痛手となっていた。王族同士の戦いに巻き込まれていた長政は、敵兵の半分以下300人たらずで苦戦しながらも戦勝を重ねている。しかし長政はやがて毒殺されて果て、
夏の陣の五年後に家康は死亡する。そして御朱印船にキリスト教宣教師らが紛れ込んでくるのを恐れた幕府は寛永十五年(1635年)に鎖国令を布告するのだった。
- 【参考『堂々日本史/追跡・ニッポン大航海時代、徳川家康の戦国総決算』1998/02/24・NHK総合テレビ放映】