史実・黄金伝説メニュー
山下将軍の財宝爆破指令
- 山下将軍と十ヶ月行動を共にした第14方面軍司令部の松延幹夫という参謀少佐がいた。今も健在なら88歳の高齢になっているだろう(現1998年)。29歳にして第76連隊歩兵第24中隊少尉、30歳にして同隊中尉というエリートコースを歩んできた松延参謀は、山下将軍配下で保管していた戦略物資を知る立場にあった唯一の人物である。後に「山下将軍の財宝」と言われた金銀などの物資は、戦争末期において、その松延参謀らによって処分されることになる。彼の記憶によれば「参謀本部の警備用戦闘機五機を使って、丸福金貨30枚入りの桐の箱50個(金貨1万5000枚相当)をフィリピンの某百貨店に運んだ」という。その百貨店の地下倉庫には関東軍のアジア諸国における略奪物資が集められ、その日だけでトラック30台分の宝石ならびに金銀があったという。それら倉庫に入りきれない財宝は百貨店の前に「土嚢」として積まれるという膨大な量であった。戦後において「巨杉会」(きょさんかい)なる山下兵団司令部戦友会の同好会が定期的に開かれているが、松延参謀いっか各幹部の多くはそれらの事実を知っている。
- そして山下将軍の指示のもと、その膨大な財宝はフィリピン各地に分散して隠蔽処分されることになる。トラック60台分の銀貨、トラック15台分の丸福金貨が四トントラック15両に積載されてフィリピン各地に分散していく。その光景はことの真実を知る者にとっては壮観なものであったろう。泉5321部隊伍長の佐藤稔氏(現76歳)は「丸秘の赤い刻印のある正方形の箱(厚さ40p、長さ80p)に入った金銀宝石をイボから逆登りに51分走った場所に埋めた」と言う。またルソン島に配属されていた戦車第二師団、海軍早川部隊の警備部隊移送長の寺嶋芳彦氏(76)は「サンフェルナンドにおいて南京袋100ペソ入りをトラック八台分相当を洞窟に埋めて爆破した」と言い、彼が手にした戦略物資埋蔵記録によれば「銀貨70万枚」が処理されたと記されている。