史実・黄金伝説めにゅー
「かごめかごめ」に託された光秀の秘技
天海と光秀は同一人物?
- 今も日光東照宮には徳川二代将軍「秀忠」と三代将軍「家光」の名付け親たる南光坊天海の文がある。この紙片は斜めに折り畳むようになっていて、秀忠と家光の名前の一字がそれぞれ現れてくる。「家光」の『光』と「秀忠」の『秀』で、合わせて『光秀』となり、これが「天海僧正は明智光秀だ」とする根拠にもなっている。また四代将軍「家綱」と五代将軍「綱吉」に共通する『綱』という字も、明智光秀の父「光綱」の名から意図的に抜き出したものであると言われている。徳川家の歴代将軍の名前に隠された明智光秀の残像は、そのまま名付け親たる南光坊天海僧正が明智光秀その人であることを示唆している。【写真=天海と光秀】
- 天正十年六月二日の「本能寺の変」で信長暗殺に成功した明智光秀は、六月十三日に山崎の合戦で秀吉軍に敗れ、敗走する中、山科で竹藪から突き出された土民の竹槍によって命を落としたことになっている。仮にこの伝説が創作であり、光秀が生き延びて匿われたとしても不思議はない。信長の比叡山焼き討ちに反対したのは光秀であり、その信長を滅ぼした光秀は僧侶たちにとっては英雄であったはずだ。僧侶たちは喜んで光秀を匿うだろう。
- 一方、天海がその歴史に名を留めるのは八年後、天正十八年に小田原陣中において徳川家康と謁見した時とされる。天海と家康は「時、来たり」と懐かしい笑顔を交わしたことだろう。本能寺の変の背後には明智光秀と家康の密約があったのではないか。光秀死して、天海として生まれ変わった瞬間でもある。その後の天海の異例の出世は、かつての家康との密約に裏付けされていた当然の成り行きだった。やがて徳川家に嫡男が生まれると、家康は天海大僧正を名付け親として「光秀」の二文字を遺す。
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日光東照宮と秩父神社に秘められた桔梗の謎
- 元和二年四月十七日に徳川家康が死去する。後に大権現として祀るための寛永の大造営は総工費五十六万八千両(約四百億円)、動員四百五十三万人、延べ日数一年三ヶ月に及ぶ大工事であったとされる。むろんその総指揮は南光坊天海であり、ここに尋常ではない天海の挑戦がある。周辺地域を見渡すと日光東照宮は単なる徳川家康を祀る寺院ではなく、前を流れる大谷川や背後の山脈を自然の防壁とした大要塞であることが分かる。何より異彩を放つのはその膨大な彫刻においてである。その日光東照宮の雛形として天正二十年に存命中の家康が造営を命じた秩父神社がある。ここでの彫刻を見ると、日光東照宮は秩父神社をモデルにしていることが分かる。その秩父神社の拝殿と本殿の間の幣殿側面には東西に向かい合った二人の人物の彫刻がある。東には右手に竹笹を持つ桔梗紋の男が座し、西には同じ桔梗の紋の僧侶が頭巾を被って座している。そしてここで桔梗の紋が明智家の家紋であることに気付くのである。つまり相対する二人の人物の彫刻は、東の明智光秀と西の南光坊天海を暗示するのである。そして二人が桔梗の紋を通じて同一人物であることも・・・
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童歌「かごめかごめ」の天海の挑戦
- 日光東照宮の陽明門には「唐子遊び」と呼ばれる子供たちが戯れる彫刻がある。鬼ごっこ、司馬温公の瓶割、喧嘩などテーマごと三枚の彫刻が配置されている。これら子供たちの遊ぶ風景から漂ってくるのが童歌「かごめかごめ」であり、彫刻「唐子遊び」を陽明門に配置した天海の挑戦が感じ取れる。陽明門はその名の通り太陽を表し、童歌「かごめかごめ」には『籠の中の鳥』ニワトリが『いついつ出やる』という歌詞がある。当時は竹を六つ目に編んだ竹籠でニワトリを囲っていた。ニワトリは太陽に向かって朝一番に鳴く。朝日は黄金に輝き、ニワトリは黄金を象徴する縁起のいい鳥だとされている。陽明門もまた黄金を意味する太陽を意味している。そして目を周辺の山々に転じる時、我々はそこに鶏鳴山を発見するのである。読んで字のごとし、鶏が鳴く山である。そして童歌は「夜明けの晩に、鶴と亀が滑った」と続くのであるが、これは日光東照宮の『三具の鶴亀』にも暗示されている。「夜明けの晩」とは申(サル)と酉(トリ)の刻とすれば、日光の庚申塔を暗示して、庚申山へと導引されていく。「鶴と亀」が滑って何かが解ける予感がする。そして「後ろの正面だあ〜れ」になるのだが、日光を正面にするとその真後ろには岸和田の本徳寺がある。その本徳寺には明智光秀の位牌と画像が安置されている。天海は童歌に自分の正体を謎かけ、黄金を太陽に引っかけて財宝の隠し場所をちらつかせているのかも知れない。
- 童歌「かごめかごめ」には続きがある。「向こう山で鳴く鳥は、信心鳥かニワトリか。金三郎のお土産に何もらった。金ざし、かんざし、もらった。納戸のおすまに置いたれば、きうきうネズミが引いてった。鎌倉街道の真ん中で、一抜け、二抜け、三抜けさくら。さくらの下で文一本ひろった。あくしょ、あくしょ、一本よ」最後の歌詞には違った説がある。それは「桜の下で文一本ひろった」から「その文だれだ。金三郎の妻だ。金三郎の妻はさんしょにむせた」と続く。謎の多い歌詞である。その意味すら分からない、支離滅裂な内容であろう。「一抜け、二抜け、三抜け桜」を東照宮の門に当てると『一・表門を抜け、二・陽明門を抜け、三・唐門を抜けて拝殿に至る』そしてその拝殿には三十六歌仙が桜の彫刻で飾られている。童歌はその歌の謎を解けと言っているのかも知れない。もうひとつの解き方もある。『「さくら」の最初の一を抜いて「くら」になる』「くら」は「蔵」に当て、日光の「地蔵岳」とする。『「さくら」の真ん中一字を抜いて「さら」になる』「さら」は「申」に当て、日光の「庚申山」とする。『「さくら」の最後の一字を抜いて「さく」になる』「さく」を「裂く」に当て、日光の「石裂山」とする。これら日光の名だたる山を線で結ぶ。「東照宮と石裂山、そして庚申山」を結ぶと三角形になる。また「地蔵岳と鶏鳴山、そして男体山」を結ぶとやはり三角形になる。すると三角形が前とだぶって六角形となる。ここに六つ編みの籠の目が出現する。
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六角星形に秘められたユダヤの秘技
- 籠目と六角星形は偶然の産物ではない。「鶴と亀」の亀の紋様もまた六角であり、亀甲(きっこう)は縁起の良い形とされてきた。今ではお馴染みの醤油のメーカー「キッコーマン」の由来は茂木家「亀甲萬」が起因している。六角星はイスラエルの国旗に象徴されるようにユダヤの紋章である。天海はそのことを知っていたはずだ。明智光秀は信長に仕えていた頃、信長の娘婿・蒲生氏郷の家臣にユダヤ人ロルテスがいたことも知っていたと思われる。ロルテスは蒲生の家臣として西洋の会計や測量技術をもたらしたが、同時にフリーメーソンであった節がある。光秀はロルテスの影響をかなり受けながら、後に天海となってから日光こそユダヤの秘技を展開する土地として、東照宮や童歌にそれとなく組み入れたのではなかったか。ちなみに日光には石屋町という地名がある。
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徳川幕府の財宝は日光東照宮にあり
- 童歌「かごめかごめ」に隠されているのは黄金を意味する陽明門とニワトリに代表されているなら、その黄金とは徳川幕府の財宝を意味するだろう。大要塞としての強固な造りを誇る日光東照宮こそ最も安全な隠し場所である。それは今日に至ってなお、国の重要文化財として守られている。残念ながら「かごめかごめ」の謎は今だに解くことはできない。その重要なキーワードは「鶴と亀が滑った」その場所である。強引な独断を許してもらえるなら、その場所こそ全てが逆さまに地面を指すところの「飛び越えの獅子」であり、「莫」そして逆さ葵の「オランダ灯籠」のような気がしてならない。「神厩の三猿」は見ざる言わざる聞かざるで謎の解けない我々を挑発しているようだ。そしてその背後では「ざまあ見ろ」とばかりに高笑いする光秀の影を背負った南光坊天海の高笑いが聞こえる。