史実・黄金伝説メニュー
墓を暴いて金の延べ棒をつくろう
- 中国では盗みは庶民レベルのありきたりな犯罪であった。中国の窃盗には三つの区別がある。【「白線」パイシェン】昼間の泥棒、【「黒線」ヘイシェン】夜の泥棒、【「錦線」チンシェン】女盗賊、の三つの線シェンである。都会では「封箱三天」という掟があり、盗品は三日間寝かせる。貧乏人や障害者など弱者からは決して盗まない内部規律もあった。しかし今日では一切合切なりふり構わず奪う盗賊団が横行している。その中から黄金にまつわる現代の中国における窃盗事件を抜粋したい。
- 江西省臨川には「馬将軍の金像」の言い伝えがある。明の皇帝が誤って馬将軍を処刑、その死を悼んで遺体と共に285キロの純金で作った頭像を埋葬したという伝説である。数百年間、伝説は言い伝えられてきたが誰も墓を掘り起こそうなどという不埒な者はいなかった。しかし80年代になると、金像伝説が数千の人間を野山に走らせる珍事が起きた。村長が発掘隊を組織し、官民一体、一家総出のにわか一大盗掘団が土地という土地に無数の穴を開け始めたのである。むろん何処にも黄金など出なかったが、黄金伝説の魔力が数千人を動かした珍事として歴史にとどめたいくらいだ。
- 明代の楽安王一族の墓を爆破した盗掘団は、金銀アクセサリーや宝石は持ち去ったものの、持ち運べそうもない金箔張り陶よう百体あまりを打ち壊して逃亡した。数日後、今度は農民が大挙して押し寄せ、王妃の頭上に飾られていた金銀のアクセサリーなどを残らず盗んで細工師などに売ってしまった。売られた金銀は警察の追求をかわすため、これら貴重な芸術品を溶かしてしまう。黄金の装飾品は2.9キロの金の延べ棒となった。こうした窃盗団は後を絶たず、教師までもが加わる窃盗事件が続出している。
- こうした金塊は闇のルートに乗って、多くの場合香港の金融マーケットから香港の銀行へとロンダリング(洗濯)されていく。その香港の銀行が仲介役となって更にスイスやロンドン金市場に流れる。
- 【参考『黒社会・中国を揺るがす犯罪組織』91〜92頁】