日本初の心臓移植、その功罪、医療問題リスト
1968年8月7日、北海道の小樽の海岸で21歳の男性が溺れ、意識を失った。大量の海水を飲み、すでに呼吸は停止していた。当時、救急隊員だった難波純一氏は「救急車に運んだ時点で顔色は悪く、脈もなく、瞳孔も開いているようなので心臓マッサージをしました」と当時を振り返って話す。瀕死の男性を乗せた救急車は小樽市中心街の病院に向かうが、救急車がカーブにさしかかった時・・・「対向車の出現で急ブレーキを踏んだんですが、またがって人工呼吸をしていた私の手に数倍の圧力がかかって男性の息が吹き返したんですよ」。小樽駅前の野口病院に到着した時、男性には呼吸も脈もあり、光に対する眼の反射も見られた。男性の家族は「何とか命は助かる」と告げられる。「野口病院から電話があったときは、意識が戻ったので心配ないと医者から聞いたんです」と男性の母親も証言している。夜になって、より高度な医療が必要になったということで、男性は札幌医大病院へと運ばれる。男性を待ち受けていたのは救命医療のスタッフではなく、和田教授率いる胸部外科の医師たちだった。到着からわずか25分後、心臓移植の準備が始められた。溺れた男性は人工心肺につながれ手術台に横たわっていた。
当時、札幌医大で救命医療を担当していた内藤浩史氏は異様な雰囲気を感じ取っていた。「今になって考えると、溺れた患者に人工心肺を蘇生のために使うことはありえないことなんです。溺れた患者さんの蘇生は肺の対策なんです。呼吸のね。私が8時半に手術室を出ようとしたときに、和田教授に『心臓移植手術を行うから待機してくれ』と言われたことを考えると、その時点で和田教授の頭の中では心臓移植へのスタートが切られていたと思う」。そして、その和田教授は記者団に「ご両親に何度も申し上げますように、『お子さんは駄目なんです。駄目なのを万が一の奇跡でいろいろやってみましたが、本当に駄目なんです。もっとやりましょうか、もう私は医者として、みんな疲れ果てていますので、どうしましょうか?』とお伺いしたら、ご両親は納得できかねないご様子でしたが『夜中にこんなにご迷惑をかけるのは忍びがたい。どうぞ治療をやめてください』というお申し出がございました。それが1時近かったかな、と存じます。(中略)その時に私はふと宮崎くん(心臓病患者)のことを思い出し、ご両親に『(心臓移植のための提供を)いかがですか?』と打診しました。お母様は『かわいそうだ』とその意志ははっきりしませんでしたが、お父様は『社会のお役に立てるなら』とご承諾くださいました」と声高々に語った。
かくして1968年8月8日、札幌医大において和田寿郎教授(当時46歳)による日本初の心臓移植が開始された。手術を受けたのは当時18歳の宮崎信夫さん、その胸には前日に海で溺れた大学生の心臓が埋め込まれた。心臓移植は医学の勝利として連日大々的に報道されたが・・・移植手術から83日目の10月29日午後1時20分、宮崎信夫さんは死亡するのである。これを境にマスコミの論調は一転して和田教授に非難の矢を向けていく。そして和田教授は心臓提供者の死の判定などをめぐって殺人罪で告発されたが、やがて不起訴処分となった。31年後、77歳になった和田教授は今・・・東京有楽町で現役の医師として診療を続けている。その和田教授が語る。「臓器をくださるという非常に貴重なチャンスがおとずれるかどうか、当時はその可能性が少なかったわけですから、そのチャンスが来たときには千載一遇として心臓移植とクロスしてOKと『よし、やろう』と決心したわけです」。当時、和田教授は心臓提供者の家族に対して肝心の説明をしていなかった。移植のためには動いている心臓を取り出すこと、脳死についての説明、どちらもなかった。ドナー(臓器提供者)の母親の当時のテープの声がある。「始めは反対だったんです。息子を助けてくれということで・・・和田教授は『亡くなってからでよろしい』と言ったが、心臓移植なんてこと何も知らなかった。私も子供たちも駄目だって何度も言ったんですけど・・・」。説明は十分だったか?という質問に対し現在の和田教授は語る。「当時としては最も正しいアプローチをして、最もやさしい気持ちで、頭を下げてお願いをしたものでございます。大変な失礼な質問、引き取ってください!(急に激怒する)。とってもじゃない、もうお止めください!分からないんですか?アンタはまだ・・・これ、カットしてくださいよ!」【1999年7月26日放映『ドキュメント99、空白を超えて』より抜粋】