あの難病は薬害だった!繰り返す悲劇
医療問題リスト
(日本テレビ系列「ニュース出来事」の特集より)


 去年、高校二年まで元気だった「ひろ君」16歳は、今、寝たきりで闘病生活を送っている。病名はクロイツフェルト・ヤコブ病、ひろ君の両親は語る。「うちの子は厚生省に殺されたようなもんです。夢いっぱいふくらませた人生を、厚生省に奪われた」ヤコブ病は潜伏期間の非常に長い病気で、いったん発症すると急速に脳の組織が破壊され、空洞が広がり、2〜3年で死に至る難病である。治療法はまだ見つかっていない。ひろ君は発病から三ヶ月足らずで両親の顔すら分からなくなった。ひろ君の母親は「まだ親の顔とか分かっている時なんですけど、何で僕だけこんな目にあわなきゃいけないのって・・・僕なんにも悪いことしてないよって・・・」 と声を詰まらせながら涙ぐむ。1984年、ひろ君は一歳の時に脳腫瘍で外科手術を受けた。手術は成功し、脳腫瘍は再発もせずに完治する。ところが、ひろ君が念願の高校に入学した直後、ヤコブ病が発病する。感染源は一歳の時に手術で移植したヒト乾燥硬膜、手術から14年もたっての発病であった。脳の表面は硬膜で覆われているが、ひろ君は脳外科手術で切除した硬膜のかわりに、人間の遺体からとったヒト乾燥硬膜が移植されていた。移植に用いられたドイツのリーブラウン社のヒト乾燥硬膜「ライオデュラ」LYODURAがヤコブ病に汚染されていたのである。ひろ君の父親は言う。「使わせたのは誰なんだ、作ったのは誰なんだ。親にしてみたら、毒を入れられたという意識が強い」1973年、厚生省はライオデュラの輸入を承認、以来年間1万数千枚が使われ続けてきた。しかしドイツの会社では1987年までヤコブ病患者を除外せずに遺体から硬膜を集めていた。輸入承認から三年後の1976年、厚生省はヤコブ病研究班を設置した。厚生省研究班の立石潤元班長は語る。「ヤコブ病の患者さんとか、痴呆がある患者さんとか、そういう危険性のある患者さんの硬膜をとることは避けていた。常識です、これは」研究班は78年度からヤコブ病の感染力が非常に強力であることや、感染防止の必要性を毎年厚生省に報告していた。立石元班長は話を続ける。「このヤコブ病の患者さんからのものは使ってはいけない、ということは当時から言っていた」こうした研究班の警告に対し、厚生省は「ヒト乾燥硬膜とヤコブ病発症との関連については予見するような状況になかった。両者の関連性を推測するような研究報告もなかった」(厚生省医薬安全局、依田昌男室長)として責任を回避する。しかし薬害の研究者は反論する。「遅くとも1978年の段階に置いてヤコブ病の患者からとった組織、脳硬膜も含めて組織の移植は危険性があることは明白だった。これは厚生省が委託した研究班だから、厚生省が知らないとは言えない」(東京医科歯科大学・片平洌彦助教授)しかし厚生省は何の対策もとってはいなかった。1997年、厚生省は輸入承認から24年もたってからやっと乾燥硬膜を使用禁止にした。こうした遅すぎた処置によって分かっているだけで60名を超える犠牲者を出してしまった。患者や家族は、厚生省や製造会社を相手取り薬害ヤコブ病裁判を起こし、現在21人の原告が争っている。自分がヤコブ病の被害者だと知らないままに亡くなった人もいる。千葉県の前田さんの長男・前田直幸さんは一昨年29歳の若さで亡くなった。直幸さんは大学の時の交通事故の手術で乾燥硬膜を移植された。それから10年後にヤコブ病を発病、それから幾つかの病院で診察を受けても病名は分からなかった。八つ目の病院でやっとヤコブ病と分かった時、直幸さんはすでに寝たきりの状態となっていた。そして自分がヤコブ病と知らないまま亡くなった。母・公栄さんは「納得できないですね。その硬膜さえ使っていなかったら、今頃はね、元気に飛び回っていたと思うんです」と肩を落とす。ひろ君の両親は責任を回避することにのみ汲々とする厚生省に憤り、泣き寝入りせず厚生省と闘っていきたい、と涙ながらに訴えている。「せめて生きている期間だけでも、厚生省の人が心いくまで安心できる介護の方法を教えて貰いたい」繰り返される薬害、未来を奪われた人たちの無念はいつ晴れるのでしょうか。