無菌室83日間の全ドラマ
JCO被曝、大内久さんの壮絶死に隠された本当の恐怖
週刊現代2000/01/15〜22日号228-230頁
政府はこれまで「日本の原発は安全」と、お題目のように繰り返してきた。だが、東海村の臨界事故は、そんな原子力行政のズサンさを白日のもとにさらした。大内久さんを襲った悲劇を、けっして繰り返してはならない。
生きられるはずがない大量被ばく
茨城県東海村にある核燃料加工会社「JCO」の社員・大内久さん(35歳)が、急性放射線被曝による多臓器不全で、99年12月21日に亡くなった。
大内さんの被曝の特徴は、放射線のなかでも中性子線による影響が極めて大きいことにあった。
大内さんの治療にあたっては、入院先である東大附属病院の医師だけでなく、広島や長崎からも放射線障害に詳しい医師などが加わり、総力態勢がとられた。
医師団のー人が語る。「正直に申し上げて、生きられるはずがないような大量の放射線を浴びながら、よくもあそこまで頑張られたと思います。大内さんのように中性子線の影響が非常に強く、内臓までやられるケースは、世界的にみても珍しいケースです。その意味で、大内さんの死は、放射線医学に対して、多くの貴重なデータを残したことになります」
中性子線は家の壁などは簡単に透過し、中にいる人間にだけ壊滅的なダメージを与える特徴がある。その中性子線被曝の「本当の恐怖」は、今回の大内さんの死によって、あらためて浮き彫りにされた。
臨界事故が起きたのは9月30日。現場作業員3人のなかでも、もっともひどい被曝をしたのが大内さんだった。その推定被曝線量は平均17シーベルト。これは致死量の25倍にあたる。つまり、大内さんは、事故直後から死亡までの83日間、いつ亡くなっても不思議ではない、極めて危険な状態にあった。
事故当日に大内さんが運ばれた千葉市内の科学技術庁放射線医学総合研究所(以下、放医研)の関係者が告白する。
「大内さんが運び込まれた翌日の10月1日に、『緊急被ばく医療ネットワーク会議』という専門家による会議を開き、今後の治療方針などを話し合いました。この時点では、まだ大内さんは意識もありましたが、会議では2〜3週間生きられればいいほうだろう、という意見が大半でした」
大内さんは妻(34歳)と大学3年生の息子(9歳)の3人暮らし。茨城県内の高校を卒業したあと、JCOの前身である「日本核燃料コンバージョン」に入社した。99年からは、廃棄物処理などの仕事をしていたが、事故が起きた転換試験棟での作業は、事故当日が初めてだった。事故の第一報を受けて、大内さんの妻はJCOの社員に付き添われて、大内さんが一時的に搬送された国立水戸病院に向かった。
「奥さんは病院に向かう間、一言も発せず、ただじっと一点を見つめるように、前を向いておられました。付き添いのJCOの社員の方も、事故から1時間ほどしかたっていない状況で、なにもわからないようでした。おニ人ともまったく言葉を交わされず、病院に到着するまでの時間がとても長く感じられました」(大内さんの妻を乗せたタクシー運転手)
突然、大内さんを襲った国内初の臨界事故は、専門家ですら、その被害は予想できないものだった。妻や家族の動揺は察するに余りあった。
「水が飲みたい」と何度も繰り返した
ここで、医師たちが間近で見守ってきた、事故発生から83日間におよぶ大内さんの凄絶な闘病を振り返ろう。
放医研から10月2日に東大附属病院に搬送された大内さんは、造血機能回復のための末梢皿幹細胞移植などを経て、無菌室に入っている。医師たちがまず驚いたのは、DNAのニ重らせんがズタズタに切断されていたことだった。DNAが破壊されれば、細胞の再生機能が失われる。通常、やけどを負えば、自然に皮膚が再生するが、大内さんの放射線熱優によるやけどは再生不能だった。
次に、白血球がー時的にゼロになった。白血球は免疫機能をつかさどる。それがゼロになるということは、外部の菌に対して、まったく抵抗力をもたないことを意味する。大内さんが無菌室治療を余儀なくされたのはそのせいだ。
前出とは別の医師団のー人が、こう回想する。
「鎮静剤で意識を朦朧とさせるまで(10月10日)は、意識がはっきりしていて、それが逆に辛そうでした。『水が飲みたい』と何度も繰り返していたことを思い出します。大内さんを治療している間、一度たりとも光明が見えたことはなかった。本当に治療になっていたのかと自問するほど、放射線障害の進行は早く、病状は悪化するー方でした」
大内さんの容体が急変したのは11月27日。心臓が停止し、合計5回の電気ショックによる蘇生術が行われた。約1時間後に心臓は動きだしたものの、これを機に無尿、つまり尿が出ない状態になる。
ある内科医は語る。
「通常、無尿状態が2〜3日続けば死に至ると考えられています。尿を作り出せないほど臓器が弱っているということは、人間の
〃最後のシグナル〃 なのです。普通なら医師も蘇生を諦める状態です」
そのような状態で、83日間も大内さんが生き続けられたことは、ある意味では奇跡的といえるだろう。だが、この心臓停止・無尿状態になってからの大内さんは、すでに「生きている」というより「生かされている」状況だったことも、また事実である。
一日に10リットルもの輸血・輸液を行い、ただれた熱傷跡からはー日1リットルの体液が流れ出す。皮膚移植も試みられたが、ボロボロと剥がれ落ちてしまう。さらに、12月7日には血圧が急激に低下した。
妻や親族には12月20日の時点で、主治医の前川和彦医師から絶望的な状態であることが伝えられた。しかし、大内さんが心臓停止や血圧の低下
という2度の危機的状況を乗り越えたことから、大内さんの妻は、最後まで夫が蘇生することを信じて疑わない。そこで、前川医師が妻に対してこれまでの二度の危機的状況とは異なる事態であると告げ、ようやく理解したという。
日本の原子力行政の犠牲者だ
大内さんの蘇生を願っていたのは、家族や医師たちだけではない。原子力行政を推進する科学技術庁をはじめとする政府関係者も、大内さんが一日でも長く生きることを願っていた。
「12月7日に血圧が低下したとき、もうダメだろうと東大病院前に報道陣が集まりました。しかし、それから2週間、昇圧剤を使って、血圧を高めるなどの延命治療が続けられた。内閣情報調査室の関係者によると、原子力関連2法が国会で審議中だったので、それが成立するまでは、是が非でも生かしておかなければならない、というのが政府の見解だったようです」(全国紙社会部記者)
確かに、大内さんが亡くなれば、日本の原子力関係施設の事故では初めての死者となり、その衝撃は大きい。それでなくとも12月13日に成立した原子力関連2法に対してま、危機認識が甘いという指摘があるだけに、大幅な見直しを余儀なくされたことは必至だ。
原子力研究所で30年間勤務した科学評論家・角田道生氏は、こう語る。
「臨界事故が発生したら、本来すぐに避難命令などの対策をとらなければならない。あの事故では現場から350m圏内の住民に避難命令が出るまで、半日近くかかっている。国の対策は遅すぎました」
こうした原子力の危険性に対する無自覚さは、大内さんの治療でも浮き彫りになっている。医師たちは、放射線治療の最新薬について、チェルノプ
イリ事故を経験した旧ソ連の医師に指示を仰いでいる。これにより有効な薬はわかったが、日本にはその薬すらなかった。そこで、情報をたどったところ、タイで目的の薬が見つかり、送ってもらったというのである。
東海村の村上達也村長は、大内さんの計報に憤りを隠さなかった。
「大内さんは、JCOが安全管理を怠ったことの犠牲者であり、日本の原子力行政の犠牲者です」
大内さんの治療にあたった医師団のー人、長崎大学医学部原爆後障害医療研究施設の山下俊一教授が語る。
「放射線障害の怖さは、(大内さんのように)目に見える急性放射線障害とは別に、被曝して、なんの症状も出なかったからといって、生涯安全とはいえないところにある。たとえば、わたしも治療していますが、チェルノプイリ事故で被曝した子供たちを見ればわかります。彼らはたいした被曝線量でなくても、14年近く経過したいまになって、甲状腺ガンに悩まされている。どういう形で被曝の影響が出るかも、いつ出るかもわからない。国や自治体はお題目目のように『安全』を繰り返すだけで、危険に対する対策をおろそかにしています」
東海村臨界事故では、これまでにJCO職員や住民たち126人の被曝が確認されている。そのなかにはDNAの一部損傷が見つかった人もいる。浴びた放射線の量の差こそあれ、こうした人たちに障害が「いつ出てくるともしれないのだ。それを少しでも食い止めるためには、住民たちを継続的に検査することが必要だろう。