週刊現代2000/05/06号55頁より
東海村臨界事故で被曝したJCO社員の篠原理人さん(40歳)は、亡くなった同僚の大内氏と同じ集中治療室なかで「凄絶な闘病生活を送っている。冒頭の記者会見は、じつは当初、20日に予定されていた。それを急速、2日早めたのは篠原さんの病状が急変したからだ。呼吸機能が低下した篠原さんに対し、医師団は人工呼吸器の酸素濃度を高めるなどの措置をとったが、腎臓の働きも低下し、会見前日には尿がまったく出ない状態に陥った。人間にとって尿が出ない状態は極めて危険なシグナルだ。実際、昨年12月に亡くなった大内氏も、末期は尿が出ない状態が続いていた。幸いにして、人工透析を始めたところ、尿が出るようになり、最悪の事態は免れているが、一進一退の状態が続いていることに変わりはない。
昨年9月30日に起きた臨界事故から、七ヶ月が経過しようとしている。だが、地元住民やJCO社員などの被曝者や、篠原さんらにとって、放射線障害との闘いが終わったわけではない。篠原さんの病状は、原子力との、共存を選んだわれわれ日本人にとって、けっして無関係なことではない。科技庁をはじめとする安易な原子力行政を、このまま続けていくべきか。これまで報じられなかった彼の病状を正確に知り、原子力の恐さを理解することで、われわれは新たな決断をする必要がある。
本誌は今回、篠原さんの詳細な病状について、治療に携わる複数の医師から話を聞くことができた。医師たちの証言に沿って篠原さんの病状の変化を見ていこう。
事故直後に国立水戸病院に運ばれた篠原さんは、すぐに放射線医学総合研究所(以下、放医研)に搬送された。放医研関係者が語る。
「亡くなった大内氏の被曝線量は約17シーベルトで、正直いって絶望的な数値でした。篠原氏は6〜10シーベルト。IAEA(国際原子力機関)の国際基準では致死量だが、チェルノプイリの頃(86年)に比べ、医療レベルは進歩している。生存の可能性は十分にあると判断しました」
10月4日に放医研から東京大学医科学研究所附属病院(以下、医科研)に移った篠原さんには、造血機能を回復させるために、被曝者治療としては世界初の臍帯血移植が行われた。これにより白血球数は正常に戻った。だが、放射線によるやけどの症状は重く、背中を除く体全体の約70%までがやけどを負っていた。しかも、日を追うごとにやけどは進行し、四肢の末端部分の指先では、壊死が起こり始めたという。結局、3回にわたって皮膚移植が行われ、移植した皮膚は8割がた生着した。ここまでの治療は順調に進んでいたといえる。医師団からは、「(99年の)年末には退院をさせたい」という声まで上がるほどだった。その矢先の大内氏の死。医科研の浅野茂隆院長が語る。
「大内氏の死を告げられたときは、(篠原さんは)ロも開けない様子でした。どれくらいの衝撃を受けられたか、察するにあまりあります」
年が明け、今年2月ごろから、篠原さんには、ゆっくりと、しかし次々に放射線障害が現れだす。腎障害、消化管出血・・・そして、3月はじめには、MRSA、つまり院内感染による肺炎を併発し、容態は急変する。
筋肉が萎縮して目も開けられない
篠原さんが、医科研から東大病院に転院したのは4月10日のこと。表向きの転院理由は、「治療にはさまざまな集学的医療が必要で、総合病院ではない医科研には、必要なスタッフがいない」ということだったが、この転院の発表は突然のものだった。
転院が決まった直後、医科研のある医師は、本誌の取材に対し、一言、
「入院から6ヵ月の間、ずっと診てきた。できるならば、うちの病院で治療して退院させてあげたかった」
と語った。そのロ調は、まるで転院など予想だにしていなかったといいたげだった。
結果的にみればMRSAによる肺炎の併発が、突然の転院理由のーつになったといえるだろう。篠原さんを受け入れた東大病院医師団のりーダーである前川和彦教授は、治療方針について、次のように語っている。
「急性期の医療は完結している。しかし、その他の放射線障害によるものとみられる症状は先送りされてきた。たとえば、顔面の皮膚が硬くなっていて、筋肉が萎縮しているため、開眼できない。家族との意思の疎通も容易ではない。短期的目標として、5月までになんとか家族と意思の疎通がはかれるようにもっていきたい」
篠原さんの妻は、幼い子供を知人宅に預け、毎日、病院に詰めているという。だが、篠原さんが人工呼吸器をつけている以上、声を出すことは不可能。そのうえ、目を開くこともできなければ、「意思表示をすることは困難である。しかも、すでに述べたように、篠原さんは、尿が出ない、などの病状の悪化があったため、この最低限の治療目標すら延期せざるを得ない状態になったという。繁中治療室にいる篠原さんには、引き続き筋血が行われており、肺炎も悪化している。そして、なによりDNAの損傷が著しい。医科研、東大病隊を通じて、篠原さんの病状を見続けている医師のー人が語る。
「正直にいって、医学の限界を感じた。DNAの一部は二重螺旋構造が寸断されてしまっている。これでは再生は難しい。今後、遺伝子レベルの研究が進み、DNAを再生させられるまでに医学が進歩するには、あと10年はかかるでしょう」
中曽根弘文・科学技術庁長官は今年2月、「臨界事故で科技庁の行政責任はなかった」と発言。立ち入り検査の徹底などを怠った責任を棚に上げ、事実上の「終結宣言」をした。この中曽根長官の無責任発言に対しては、橋本昌・茨城県知事が「住民感情に甚だ配慮を欠くもので、極めて遺憾だ」と怒りの声をあげている。
現在も東大病院に出向き、篠原さんの病状を見つづけている前出の浅野院長は、「医師は数パーセントでも可能性がある限り、治療を続ける。希望は捨てない」と語った。中曽根長官の終結宣言どころか、あの事故の苛烈な爪あとはいまも生々しい。特に篠原さんと医師団にとっては、まさに今が正念場だ。彼の闘病生活は、事故が過去のものではないことを物語っている。