- ある日、身に覚えのない罪で突然逮捕され、そして死刑宣告を受ける。「ザ・スクープ」の番組では、そんな体験をした狭山事件の元被告、石川一雄さん(60)の36年に及ぶ無実の叫びを紹介していた。1963年5月1日、中田栄作さん方に身代金を20万円を要求する脅迫状が届く。栄作さん方では16歳の娘、善枝さんが行方不明になっていた。犯人は翌日の夜に酒屋「さのや」わきの茶畑を身代金受け渡しの場所として指示をすると、警察官40人が密かに張り込んだ。そして約束の時間、善枝さんの姉(23)が受け渡しをすることになり、犯人は身代金を受け取りに現れ闇の中での会話が始まる。
- 「おいおい来てんのか?」「来てますよ」「警察に話したんべ?」「一人で来ているから、ここまでいらっしゃいよ」「本当にカネ持ってきているのか?」・・・ここで犯人は警察の気配を感じる・・・「取れないから帰るぞ」
- 犯人が茶畑の中を逃走する足音、そして警官隊の笛が響き、警官40人が入り乱れての逮捕劇が始まる。結果的に警察官たちはその犯人を取り逃がしてしまう。一ヶ月前にはやはり包囲しながら犯人を取り逃がしてしまった「吉展ちゃん事件」があったばかりである。こうした警察の失態は国会でも問題となり、何が何でも犯人を捕らえたいとする焦りがあった。そして4日、善枝さんは山中から扼殺体となって発見され、体液から犯人はB型と判明した。そして23日、警察は当時24歳の石川一雄さんを逮捕するのである。窃盗における別件逮捕であった。尋問は巧みに計算され、執拗に誘導するものであった。事件現場に残された犯人の地下足袋(ちかたび)の足跡を、警察は一雄氏の兄のものと似ていることを示唆、それとなく兄を犯人と思い込むように誘導していった。さらに警察は善枝さんの全裸の遺体写真を一雄氏に見せてショックを与えながら、引っ掻き傷があるのは兄の運搬する砂利のせいだと思い込ませていく。兄を庇う兄弟愛が一雄氏を動揺させる。警察は無学な一雄氏に「10年もすれば出られる」といった根拠のない嘘を信じ込ませ、最初は無罪を主張していた一雄さんを一ヶ月後には虚偽の自白をさせてしまう。
- 1977年、無期懲役確定。のち一審で死刑を宣告される。10年の刑で済むとばかり思っていた一雄氏は驚き、刑務所仲間から「この事件は国民の注視の事件で、犯人なら死刑は免れない」と言われて不安になる。それから一雄さんは、警察の巧みな誘導によるものだとして自白を翻して無罪を主張するが、上告はことごとく棄却される。最初からこの事件には謎があった。まず小学5年までしか出ていない一雄氏に、漢字混じりの脅迫文を書く能力などはなかったのだ。誤字当て字の多い脅迫文を書いた真犯人もそれほど執筆能力はなかったと思われたが、当時の一雄氏は全く漢字を書くことすら出来なかった。警察による証拠物件の捏造疑惑から、一雄さんは漢字が書けないことなど、数々の疑問が出てくる中でも何故か裁判ではそうした疑問が退けられてきた。また、2日間の家宅捜査で見つからなかった善枝さんの万年筆が、なぜかその後、突然発見されたことも奇妙なことであった。そして警察はここでも強引なでっち上げで事実を歪曲し始めるのだ。警察は一雄氏がその万年筆で脅迫文を書いたと言いだすのであるが、提出された証拠品の封筒には奇妙なことにボールペンと万年筆の文字が重なり合うように書かれてあった。こうした事実検証でも冤罪は明らかであるのだが、1986年、一雄氏が第二次再審請求を出して13年後、1999年7月9日、日本の裁判所はまたもや無慈悲にも棄却したのである。
- 事件後、さらに奇妙なことが関係者の身の上にも続いていた。善枝さんの遺体が見つかった4日の翌日、証人として事情聴取を受けた30歳の男性が翌日に農薬自殺で亡くなったのである。不可解なことに、その男性は翌日に結婚式を控えていたことから、自殺する原因はどこにも見あたらなかった。そして4日後の5月11日、今度は不審者を目撃したとされる31歳の男性が、ナイフで胸を突いて自殺するという謎の事件が相次ぐのである。そして翌年1964年7月には犯人との受け渡しをしようとした善枝さんの姉(当時24歳)もまた農薬自殺する。さらに2年後の1966年10月、警察が犯人と目していた容疑者の男性(33)が轢死体となって発見されると、その11年後の1977年10月には善枝さんの次兄が首吊り死体となって発見されるのだ。まるで一雄氏の無罪を証明しかねない関係者が邪魔者として殺されていくかのようでもある。