今月のリンク集
1998/11/30、月曜
- また11月30日がやってきたね。父の命日20日を通り越して、あなたは人工呼吸器につながれていた。私はタオルを濡らし、あなたの白髪を撫でつけていた。痰が喉に詰まると私はブザーを押し、看護婦が管をあなたの口に入れて、ズズーッと痰を吸い取るんだ。その時の苦しげなあなたの表情だけが、あなたの生きている証だった。そう苦しんでいる時だけが・・・生きている証。あなたを征服した癌細胞が、あなたに苦痛を与えないよう投与しているモルヒネが、すでにあなたが母であることさえ忘れさせている。私の前にはいつまでも母であるあなたがいるというのに、あなたには私が分からない。こんな日がいつか来るとは思っていたが、その現実さえ夢のようで、私には自分の位置すら揺らいだままだ。夢だよね?きっとこれは夢に違いない。何度もそう呟いて思い込もうとして、夢ではない現実におののいている。ああ、私は今、母を失おうとしてるのだ・・・あなたの息の喘ぎが私には苦しい。あの時、あなたは息子の私を救おうと、火炎の直中に飛び込もうとしたんだ。しかし今、あなたを救おうとしても救えない立ちすくむだけの私がいる。私の歳月はそこで止まったままだ。人は忘れろと言う。死んだ人は帰ってこないのだと、考えるだけ無駄だと・・・それで済まされるない何かが私を引き留めている。思い出が化石となって、私も化石の中で生きていたいのだ。私はそっとあなたの髪を撫でつける。あなたの喘ぎに私の呼吸を合わせて、幾日も、幾日も、永遠に死なないあなたのために・・・時空を超えて、今も。
- まだ若い主婦が癌で他界した話を聞き及ぶ。子供の未来を見届けることなく、死んでいく母親の心情はいかばかりか・・・死ぬということはこの世の全ての未練が断ち切られるということでもある。彼女はそれでも周囲に感謝しながら、最期の別れを告げたそうだ。「ありがとう」と・・・私には出来そうもない。ある末期ガンの医師の場合は、死期を前に多くの思い出を未来にも遺そうと試みている。そして彼が亡くなって久しい今も、本棚の中から、戸棚から、ありとあらゆる場所から彼のメッセージが発見されているという。それはあたかも天国から届けられるメッセージのように・・・それだけでも彼らは癌を征服した勝利者だと言えよう。ある意味で肉体は人間に着せられた重い鎧に他ならないのではないか。しかもその鎧には寿命という時限爆弾が仕掛けられ、その時が来れば脆くも崩壊してしまう。ために人は嘆き、哀しむのであろう。しかし一瞬の死を通り過ぎた本人にしてみれば、重い鎧を脱ぎ捨て解放された全き自由人であるのかも知れない。本人はやっと肉体から解放されて自由になれたのに、浮き世では身内を亡くした悲しみに沈んでいる。私はやっと自由になれて、ホラ、ここにいるんだよ、と教えても、生死の垣根はそれを許さないだけだ。してみれば赤子の泣き声はこの世の重い鎧を着せられることを嫌がって泣いているように聞こえてくる。誕生を喜ぶ親と、対照的に・・・そんな気がする。黒澤明監督の『生きものの記録』では病に倒れた枕元で親族が遺産の話ばかりしているのを知り、悲嘆の余り発狂してしまうストーリーがラストで展開する。戦争末期、満州で爆撃を受け瀕死の重傷を負った婦人がいる。彼女は大地に打ち付けられながらも生きていた。しかし助けを呼ぼうにも声が出ない。体も動かず、生死の境をさまよう。それは誰が見ても死んでいるようにしか見えないからでもあった。ところが彼女は周囲のざわめきを鮮明に感じ取っていた。「あ、死んでる」と自分に向けられる言葉さえ記憶している。やがて戦車が自分の上を通り過ぎ、それでも九死に一生を得て生還するのである。彼女は当時を振り返り「私は自分で生きていると思っていたが、実際には生物学的には死んでいたのかも知れない。そうだとすれば人は死んでも周囲の物音は全部聞こえていることになる。それも鮮明に」と語っている。一種の臨死体験かも知れない。してみれば死者の枕元で遺産の話などすることは論外ということになる。逆に胎児は母親の体内にいる時から耳をそばだてているとも言われている。夫婦喧嘩も胎児は全てお見通し、心地よい音楽にも感応しているはず。生死の境を超えて人の知覚は存在している。やがて人はいつか必ず人生という重い鎧を脱ぎ捨てる瞬間がやってくる。その果てに待っているものは何であろう。虹のアートで世界的に知られる土屋スマ女史は、五歳の時に虹に感動し、つかまえたいと思ったと言う。それから80年余過ぎた今も彼女は虹を追いかけている。彼女の造った虹の殿堂は各地にあるらしいが、関西国際空港の玄関先にもあるという。そこを訪れた人は虹に溶け込むような錯覚におちいると言われている。仮に天国があるとすれば、そのようなところであろうか。私も是非訪れてみたいところの一つである。
ここからは酔った勢い
- さっき帰って行った野菜売りに来たおばさん、母の命日で酔っぱらった私が質問責めにあった。教師の妻でもあるおばさんの鋭い着眼点に、私も我を忘れて本音で話してしまった。インターネットでも明かさなかった事実を、酔った勢いでペラペラしゃべってしまう私であった。おばさんに興味本位以上の真摯な心を感じ取ったからでもある。人間には一寸先の闇、未来のことなど分かろうはずもない。しかし実際には現実に起きている真実を追求すれば、ある程度の未来は予測できると、私は思っている。信じられないものは信じないと言う頑なな心が邪魔しているにすぎない。信じられないようなことでも真実であればどうなのか・・・多くの場合、それは後世によって証明されることが多い。JFK暗殺にしても、これだけ目撃者の証言がオズワルドの単独犯行を否定しているにもかかわらず、解決できないのは何故なのか?私はそこに一般の普通の人々のエゴイズムを見るのである。JFK暗殺現場の実況中継でも、アナウンサーは丘の上に殺到する人々を認めているのだ。狙撃犯人を人々は確かにそこに見ていたのである。目撃者の証言によって事実が明かされる中、その目撃者が次々変死していく中で、彼らはある種の恐怖を感じたはずである。それゆえの沈黙をエゴイズム称するには酷であるかも知れない。しかしやっぱり私はそれをエゴイズム言って憚らない。今でさえバブル崩壊後の日本を嘆く日本人は多いが、そこにはそのバブルに踊っていた多くの一般人もいたのである。しかしバブル崩壊後の日本は何ら変わることなく、それはまだ裁かれるべき上層部の罪を許してしまっている有権者たる一般の人々がいるからではないのか。戦争において我が子を喜んで戦場に送り出してきた親のように、我々は経済戦争のただ中にあって、大人たちのツケを未来の子供たちに押しつけようとしている。私を含めて、我々はこれからの子供たちの未来に大きな禍根を遺してしまった。許して欲しい、と言うにはあまりに問題は深刻である。その深刻さを今に感じとるこができない大人であれば、未来の子供たちに呪われてしかるべき存在でしかない。それは子供たちに贅沢させてしまった罪を含めて、これからはギリギリの選択が求められるサバイバルの戦いに突入することになろう。
1998/11/29、日曜
- 14:00〜15:25、テレビ朝日系列「ロシアにアメリカを建てた男」ロシア革命直後、ロシアの極東に造られた幻の共和国とは?「ゴルゴ13」に同じようなストーリーがあったような・・・推測だが、1917年(大正六年)ウイーンの全世界ユダヤ長老会議で決定した、満州をシオニズム入植候補地にしたことではなかろうか。(西暦がどうもおかしいと思っていたら、何と資料元が間違っていた。それも西暦和暦共にメチャクチャや・・・訂正)これに続いて今週、12月5日午前深夜01:00〜02:30NHK総合テレビで「ロシア・ロマノフ王朝・流転の秘宝を追う」が放映される。その秘宝の一部をアメリカで展示したアーマンド・ハマーの自伝『ドクター・ハマー』(ARMAND
HAMMER)ダイヤモンド社刊は参考になると思う。さらに詳しく調べるならアンソニー・サマーズ&トム・マンゴールド共著『ロマノフ家の最期』中公文庫刊が最適だろう。最近 、ロシアの良心と言われたスタロボイトワ女史が暗殺されてしまった。ロシアはこれからの人類の未来を暗示しているように思えてならない。ロシアで今起こっていることは世界でもやがて起こるのではないか。今ロシアが最も求められているのがスタロボイトワ女史のようなロシアの良心であり、犠牲も厭わない指導者なのだと言えよう。光は闇にあってこそ光り輝く。やがてロシアの闇を照らすようなひとりの指導者が出現するかも知れない。スタロボイトワ女史の死は決して無駄ではない。彼女の意志は平和を祈る人々の、その心に永遠に生き続けるだろうから・・・彼女の死のニュースは韋駄天さんの掲示板にも書いたが、ここに再度転載して冥福を祈りたい。
葬られた良心
ニューズウィーク誌、98年12月2日号
- 新生ロシアの民主改革派リーダーにして、人権擁護派の代弁者として知られる下院議員スタロボイトワ女史(52)が、先週サンクトペテルブルグの自宅アパートで何者かに射殺された。エリツィン大統領はセルゲイ・ステパシン内相を特別捜査本部長にあて、徹底解明を指示した。「彼女を憎んでいたのは、共産主義者とギャングだ」と、アナトリー・チュバイス元大統領特別代行は語っている。
ニューススティーション、98年11月26日放映
- スタロボイトワ女史は待ち伏せしていた二人組に襲われた。1994年以来、議員が殺害されたのは六人目。これらは利権や政治が絡んだマフィアの仕業と思われている。ゴルバチョフ元大統領『彼女は原則を曲げない人で、それを貫き通した』 彼女の追悼集会には二万人が集まった。1991年8月のクーデター未遂事件では、エリツィンは彼女をロンドンに送り、保守派が政権を握った場合、臨時政府を準備させたほど信頼していた。また彼女は史上初の女性国防候補にもあがっていた。
- 改革派ヤコブレフ:「暗殺は今後も続き、多くの犠牲者が出るだろう」
- マカショフ共産党議員:「ペレストロイカ野郎と改革派は裁いて、赤の広場で首をはねてやる!」
- ラジオフスキー(ジャーナリスト):「今回の殺人は政治的な殺人です。このうえ若い世代のネオナチ組織が気に入らない人間を殺し始めると、ロシアの政治はカオス状態となる」
- スタロボイトワ最期のインタビュー:「今、ロシアではこれまでの価値観が失われ、国全体が自信をなくし、そのポッカリ空いた空白に強烈な民族主義が入り込もうとしています」
- 18:00〜18:54、TBS系列「タバコ情報を開示せよ・米巨大産業はなぜ追い込まれたか」これはおそらく元CIA職員などを起用して有害物資タールの違法性を立証した件だと思われる。南米あたりから足がつくはず、インターネットなんかも活用される・・・おそらく、ということで。
- ↑番組内容が変更になっておった。派閥の利権政治屋の顔など見たくもない、TVスイッチ切る。
- 21:00〜21:54、日本テレビ系列、知ってるつもり「ポル・ポト」これには広瀬隆著『地球のゆくえ』108〜135頁「シアヌーク国王誕生の真相」集英社刊が参考になる。番組で取り上げるかどうかは知らないが、系図を遡ればカンボジア王室とポル・ポトは同じ一族だったというオチがつく。これは日誌にも書いた記憶あり。ちなみに同業者の知人の父親は大戦中、中隊長としてシアヌーク殿下と握手したことがあるという。私の父は中国大陸で兵卒だったと言うが、写真には前列で軍刀を持っていた父の記憶がある。火災で写真はみな焼けてしまった。父の戦争もあの世に持っていってしまった。
- ↑やっぱりカンボジア王室がポル・ポトと親戚だってことやってない。マスメディアの限界だ。映画『キリング・フィールド』が背景に使われていたが、準主役の医師は確か暗殺されたはず、名前は何と言ったかなぁ?
- JFK暗殺に関してオズワルドの詳細を調べるならE・J・エプスタン著『アメリカを撃った男』早川書房刊が参考になる。JFK暗殺の瞬間の実況放送を加えました。右上からお入りください。
- なんかインドネシアがヤバイみたいね。以前に、名だたる世界の傭兵がここに注目しているという噂も聞いたが、真意のほどは分からない。知らず知らずのうちに一般人が武器を手にするようになると危険だ。内戦前には武器が世界中から密輸されてくるはず。
1998/11/28、土曜
- 昨日JFK暗殺の会員制ホームページを開いてるM氏よりメールがきていた。リンクの件、了解する。資料の出所も書いたが、実際には他にも多数あり書ききれなかった。私自身、まだ引用していない資料もあり、JFK暗殺に関するファイルを移行した時点で、更新は再度続行していくつもり。そろそろJFK暗殺シリーズから別の課題を模索したい。
- メーカーから請求書が来る。格安のCRTだが17インチとあって見やすくなった。それ以前に、なかなか請求が来ないのでメーカーに「クリスマス・プレゼントありがとう!」と第一声、キョトンとしている相手が目に浮かぶ。「請求されないところをみると、CRTはプレゼントと思っていいのかな?」と言ったとたん大笑い。その請求が今日になったのだ。「来るべきものが来たな」と呟きながら代金を手渡す。昨夜は街に飲みに出てしまったので、代金を払ったらスッカラカンになった。さらに月末の支払いが控えている。それらの代金は妹が握っている。私に預けるのは危険なのだそうだ。メーカーからは分厚いカタログが届いている。「おーる工房」に向けての準備段階、必要な機種を選んでいる。何より借り入れの有無が先決なのだが、頭の中では勝手に夢だけが膨らんでいく。
1998/11/27、金曜
オズワルドがルビーに射殺される
1998/11/26、木曜
- ようやく痛みから解放され、腫れも引き、松葉杖も二本から一本へ、今、その松葉杖を手放そうとしている。あの激痛は何だったのか?と思えるほど喉元過ぎた熱さを忘れようとしている。不自由さで知った人間の限界も、その自由を取り戻した瞬間から忘れてしまう。人が歩く、という普通の人にとっては当然の自由が、突然妨げられて制限される。唯一必要な物を手元に集中させ、それは動けない不自由さの中で最小限の生活を手元に集中させるようなものだ。私はインターネットだけは絶えず手元に寄せていた。その時、私にとってはインターネットが生活の一部になっていたことに気付く。私は口下手なうえ、出不精で、一般的に言われる内向的な性格のようだ。弟はギター片手に文化祭で拍手喝采を浴びるような外向的な性格で、私には羨ましくもあった。青春期に私が本に埋まって模索している間に、弟はトランペットを吹きながら街に出た。どうみても弟の方がかっこいい。小学生の頃、私の絵が金賞になると、描くたびに賞を立て続けに与えられるようになった。しばらくの間、私の絵は校長室に飾られていたということも後で知った。天才だと評判になった。作文を書くと新聞に載った。習字は必ず壁に貼られた。子供心にも私は戸惑った。しかしそれも小学生の一時期に過ぎなかった。中学に入ると自分を意識し、絵に作為が入った。天才はそこまでだった。父は高度成長期の波に乗り、会社を少しずつ大きくしていった。しかし父の野心も理事長になって終わった。不審火で全てが燃え、消えてしまった。私は炎に包まれ、九死に一生を得た。その時の母を私は一生忘れられない。母は私を救おうと炎の中に飛び込もうとしたのだ。市内の夜空を真っ赤に染めた、と当時の新聞に書かれたほどの大火災だった。警察は私たち家族を犯罪者のように扱い、罵倒した。父はみるみる衰弱して、私は高校進学を断念した。父を助けたかった。父は再び会社を興すと、職人も方々から集まってきた。私は父が眩しかった。尊敬もした。しかし・・・私はひとり北海道に逃げ出した。なぜ?その自問自答は今も続いている。生身の人間のこと、言葉にならないことだってある。それから父の急死と、妹と母の病、自暴自棄になったのもこの頃だった。あの頃が走馬燈のように蘇ってくる。みんな夢だ。ある日、友人が市内の絵画教室に私を誘った。私は一枚のスケッチを持って行った。やがて会長が私を大型新人だと言いはじめ、次ぎに描いた絵が作為的になった。そして私はそこも離れた。それから絵筆をとることは一度もなくなった。母が末期ガンで死んだ時、私の中の何かが音をたてて壊れた。そしてそれは修復不可能なくらい壊れてしまったことに気付いている。糸の切れた操り人形のように、地べたにグッタリとして壊れた私が捨てられている。しかし今、その糸がインターネットに結びつけられているような気にもなっている。松葉杖ともそろそろおさらばだ。「ほぉら、立った!立った!」這い這いから立ち上がった赤ん坊の私を、父と母が手を叩いて喜んだ昔もあったはず・・・そろそろ母の命日が控えている。
1998/11/25、水曜
- アメリカにも同じように考える人がいるものだ。すでに3DCGを描いているではないか。センスも私よりいい。無駄なものは省く、分かりやすい仕上がりになっている。私は凝り性で窓なんか張り付け、遠くの線路まで入れようとしていたんだ。しかし目撃者のついては新証言もあって、追加したいと思っている。狙撃者についてもダル・テックスにもいたはず、アメちゃんのCGではダル・テックスのビルそのものも省いてある。それに「SAPIO」に載っていたTSBDビルから見た風景は写真が左右逆になっていたりする。けっこう楽しんで描いているが、正確に描くとなると苦痛にもなる。オープンカーや人物も作ってあるので、アニメで道路を走るところまでやりたい。随時更新ということで、画像は少しずつ変化していきます。
ロスコーの日記が盗まれる
ジャック・ルビーが暗黒街に入る
1998/11/24、火曜
オズワルドが日本で遊ぶ
1998/11/23、月曜
- 連休2日、工場を貸してほしいという青年がいるというので工場を開放した。材料代も貸してほしいというので何とか都合した。隣接する自宅は工場の物音が筒抜けになっている。最初の日は午後から来ていたようだった。ところが夜の九時頃まで工場から機械音がして辟易した。どうやら今夜中に終わらせるらしいと思って黙っていた。翌日、職業病ともいえる足の持病で動けない私のために、妹がやってきた。妹は彼らに「ご苦労さん」と言って缶コーヒーを手渡したそうだ。ところがその夜、彼らは夜の十時過ぎまで工場で作業し、自分の車を完成させるとさっさと帰って行った。この二日間、全く挨拶がなかった。自分の車を宝物のように大切にしていたようだった。その車にさらに磨きをかけるために材料を借り、工場を借り、夜遅くまで作業をする。ご苦労なことである。私とすればそのお手伝いの役に立ったことが嬉しい。その反面、もう二度と工場は貸したくないというのも本音だ。以前にはパトカーの隣にヤーさんのキャデラックがあったりして苦笑したこともあった。どう見ても貧弱なパトカーが豪華なキャデラックに威圧されているように見える。パトカーの中は無線機が取り外してあったりする。黒澤明監督の映画「野良犬」では刑事がコルトを盗まれるが、さすがにパトカーの中にそれらしき忘れ物があったことは一度もない。パトカーの運転席に座ると警察の権限が乗り移るような錯覚に陥る。差込口のない無線マイクで「緊急事態発生!各署に告ぐ、ただいまパトカー盗難発生。犯人は北北東に向かって暴走中、各員ピストルを携帯の上厳重警戒体制に入れ!」なんて遊んでみたりする。護送車からバキュームカーまで、退屈しない車でけっこう遊べる。どこかの社長の息子の500万以上はする車など、ちょっと傷つけたくなる私はイケナイ人間なのでしょうか。今、工場を使った青年が材料代を持ってきたそうだ。帳簿につける必要のないカネをどうしよう?と妹が困っている。近頃感心な若者である。
1998/11/22、日曜
- 今日はジョン・F・ケネディの命日である。数年前までは日本でも彼の特別番組を組んで新証言を交えての番組を放映していたものだが、今年も殆どケネディに関する番組は放映されていない。それだけJFK暗殺の興味が薄れてきたというわけだろうか。事件後数年間に渡って証言者が次々と変死し、それゆえに口を噤んできた目撃者が歳月と共に固い口を開き始めている。当時は恐怖に脅えていた彼らも老年期に入り、死ぬ前に真実を伝えたいとする気持ちが起こってきたようだ。アメリカという超大国の指導者が、大衆の面前で白昼堂々と暗殺されたこの事件は、どす黒い闇の権力によって封殺されようとしてきた。その意味の重大さを考えれば、JFK暗殺事件は決して風化させてはならないのではないか。むしろこれは人類の貴重な遺産ともいうべきであろう。そういう意味で、私がこれまで自分なりに集めた資料を元に書き続けていきたいと思っている。むろんそこには私の思い込みによる誤解も当然のように出てくるだろう。それが分かった時点で、常に訂正や削除、追加を繰り返していくつもりである。数日間はこれを私のライフワークとして書いていきたい。
マインド・コントロールされた男カスチロ
オズワルドがルビーの店に現れる
オズワルドが厚木基地でスパイとなる
1998/11/21、土曜、晴
ロスコーとオズワルド
1998/11/20、金曜、晴
JFKの頭を吹き飛ばした男
1998/11/19、木曜、晴
JFKは前方からの狙撃が致命傷となった
1998/11/14〜17
JFKがダラスで暗殺された日
- 衛星放送のパーフィクテレビ解約、生命保険解約、某団体の会費解約と立て続けに解約した。ノート・パソコンの修理はユニットを交換しても駄目で、基盤を取り寄せるために2万5000円はかかると言う。保険解約分を修理代に回して何とか金を使わないで済む。
1998/11/11、水曜
- 昨夕、従業員と懇談、酒を飲む。たしなむ程度に飲めば足を挫くこともなかった。せっかく治りかけた足が再び激痛となってしまった。今夜は眠れないだろう。こんな時に限って友人から電話がくる。足の痛みで話に対応するのも苦痛になる。景気の底冷えで心身共に疲れてしまった友人のこと「これも試練と受け止め、互いに励まし合って乗り切ろう」というところで話が落着く。まったく先が見えない。展望もない。だからといって生きることをやめるわけにはいかぬ。田中正造の覚悟をもう一度噛みしめる。「人のためをなすには辛酸を共にしてその人となるべし。天に登るは山に登るより急なり。欲を捨て傲慢を捨て、私欲という重き罪の荷物を捨てて登らねば登れぬなり。辛酸亦入佳境」そうなのだ。たかが百年も生きられぬ人間ならば、その限られた人生に何をしなければならぬかは自ずと分かってくるはずだ。私利私欲で富を築いても、本人が死んでしまえば何もならない。遺すべき遺産があるとすれば、それは心の遺産であり、辛酸をなめてなお正義を貫く信念の有り様ではなかったか。辛酸亦入佳境、この覚悟あらばいかなる障害も乗り切れるはずだ。正造の最期はぼろ布のようであったと、全てを鉱毒に苦しむ民のために捧げた一生ゆえの使い果たした財産であり、心身であった。これを人は哀れと思うであろうか、否、正造は断じて哀れではない。マザー・テレサは路上で死にゆく貧者に手を差し伸べ、その断末魔の死相にキリストを見たと言った。ために彼女は腐臭を放つ人々を洗い清め、天国へと送り出したのだった。「貧しい人々の中で最も貧しい人々は、人間の苦しみを負ったキリストにほかならない」彼女のこの言葉は正造の「人のためをなすには辛酸を共にしてその人となるべし」にも相通じる。しかしいったん日本に目を転じると、老人が通りかかると鼻をつまんで避けて通る学生の話を聞き及ぶことになる。汗の匂いを嫌い、スポーツの後にはオーデコロンで匂いを消すらしい。人と握手することも敬遠する現代人の潔癖症は、それ自体が救いがたい病気である。それはすでにマザー・テレサが「愛の欠如こそ、今日の世界における最悪の病です」と看破している。カッコ良さばかり求める表層的な若者の風潮は、同時に心の貧しさを増長していくようだ。「今が良ければそれでいいじゃん」という刹那が蔓延する中にあって、マザー・テレサや正造の生き方は通用しなくなっているのだろうか。いや、私は決してそうではないと信じたい。阪神大震災で垣間見せた若者のボランティア活動にその希望を見たからである。絶望のあるところに希望を、暗闇には光を、悲しみのあるところには喜びを。これもテレサ女史の詞である。
1998/11/10、火曜、晴
日本原子力利権への「カー・マギー社」と国際マフィア戦略
- 正造37歳の誓い、政治家への決意:今より自己営利的新事業のため精神を労せざること。公共上のため、毎年120円ずつ向う35ヶ年の運動に消費すること。人生は一生に一度、一大事業に当たれば足れり。30万人民の安危に関し、小生もこの事業を以って死生興廃運命名誉生命の決する処として遺憾なし。
- 民を殺すは国家を殺すなり。法を蔑ろにするは国家を蔑ろにするなり。民を殺し法を乱して亡びざるの国なし。正造は今よりいのちは この世にあるわけの人にあらず。今日 生命あるは間違いに候。人のためをなすには辛酸を共にしてその人となるべし。天に登るは山に登るより急なり。欲を捨て傲慢を捨て、私欲という重き罪の荷物を捨てて登らねば登れぬなり。辛酸亦入佳境。我れ石を拾うは美なる小石の人に蹴られて車に砕かれるを忍びざればなり。
- 正造は堤防を歩行中に急死、それは正造が生前に願っていた通りの「野垂れ死に」であった。そしてその懐からはたくさんの小石が出てきたという。私もかくありたいと、思いまた、人にも常々言ってきた。正造ほどの覚悟の人はこの世広しといえど皆無ではないか。私には到底真似のできることではないが、その心意気だけは常に感じていたい。私も、これまで思いもよらぬ打撃で何度も倒産寸前の憂き目を味わってきたが、今日もそんな展開に田中正造の言葉で自分に渇を入れている。今夜は友人と酔うほどに語り明かしたい気持ちだ。私は正造が羨ましい。正造に成りきれない自分が歯がゆい。
1998/11/09、月曜、曇
- 午後からノートを修理に出し、これは旧パソコン(EPSON−PC486P)のウィンドウズ3.1で書いている。こうして操作していると、かつてパソコン通信で書いていた頃を思い出してくる。一時期は一ヶ月に七万円も電話料を請求されて母に叱られたものだった。
1998/11/08、日曜
- 事故で車椅子の生活を余儀なくされた一人の作家ジョエルの物語『ウォーターダンス』1991年制作、監督ニール・ヒメネズ、マイケル・ステンハーグ、出演エリック・ストルツ、1992年度サンダンス最優秀脚本賞。障碍者の目線で、彼らの生身の人間としての葛藤を、リハビリ施設の生活の過程で浮き彫りにしていく。危険なレースで半身不随となった白人暴走族、障碍者となったゆえに妻から離婚される黒人男性、マフィア抗争の流れ弾に当たって障害を背負ったアジアの青年、そんな様々な人々との出会いの中で、いつしか互いを気づかう仲間意識が生まれる。彼らは自らの人間の尊厳を取り戻すため、施設の制約を次々とぶち破っていく。ウィスキーを飲み、施設を抜け出してはストリップショー観劇にくり出す。夫と離婚してまで献身的にジョエルに尽くす愛人に、愛すればこそ別れを告げる主人公ジョエル・・・彼らはそれぞれの試練を乗り越えながら逞しく社会復帰していくのだった。
- 私の持病や従兄の入院を通じて、この映画には実感させられることが多々あった。思うとおりにならない身体の不自由がもたらす肉体的な苦痛、それにも増して精神的な苦痛に痛手を受けながら、それゆえに人間の根源的な人生を考えざるを得なくなる。一週間前、従兄は急に元気を取り戻しリハビリに励んで周囲を驚かせていた。その奇跡的な回復は医師をも驚かせたものだったが、昨夜の知らせは一転して落胆させられるものだった。従兄の病状は再び悪化し、食事もできないほど衰弱してしまったという。脳幹による出血という深刻さは厳然として避けられない現実でもあった。そんな沈痛に我慢ができず、昨夜は浴びるほど酒を飲み、そのまま寝込んでしまった。夢うつつに、父や母のやさしい微笑みに包まれていたようだ。父に肩車された幼い私がはしゃいでいた頃の、遠い記憶がよみがえってきた。カーテンの隙間から差し込む朝日に、ふと台所からまな板を叩く包丁のリズミカルな音がしたような・・・病院から外泊許可をとった母が、翌朝私のために食事をつくってくれた生活の音、あの時、私は枕を涙で濡らしながらまな板の音を聞いていた。人は例外なく死んでいく生き物だ。それゆえに生きている今の瞬間の出会いを、より鮮明に記憶に刻み込むようにして愛し愛されてゆきたいものだと、ほんのりした目覚めの中で漂っていた。
1998/11/07、土曜、曇
原発によって消されたシルクウッド、その物語
1998/11/06、金曜、晴
ブッシュ大統領とベーカー国務長官の系図
1998/11/05、木曜、晴
利権屋ブッシュを慕うCIA
1998/11/04、水曜、晴
JFK暗殺当時のブッシュの消された記録
1998/11/03、火曜
ブッシュ兄弟、大統領を目指す
戦争を準備したブッシュの仲間たち
- 脳幹の出血で入院してから二ヶ月あまり、あれほど絶望視され医師から「植物人間なるしかない」とまで宣告された従兄が、リハビリで歩く練習をしているという。医師も回復の早さに驚き「順調にいけば植物人間にはならないかも知れない」とまで言っているらしい。私も従兄が倒れた日に歩けなくなり、今ようやく松葉杖で歩けるようになっている。まるで従兄と私が同調しているかのような出来事に、不思議な因縁を感じている。前にも書いたが、ある中年男性の末期ガン患者が手術を前に「私は以前に負けが確定的になったラグビーの試合で、最後に振り絞った私のトライで逆転したことがある。今度の手術にわずかな生存の可能性があるなら、たとえ1%でも私は手術にトライしたい。どうか先生、私に今度の手術をトライさせてください」と言って手術にのぞんだそうである。その男性は手術中に死んでしまったが、担当医師は生涯忘れ得ぬ患者として記憶しているという。人の死に様は、そのままその人の生き様でもある。絶望を前にしてなお絶望感を克服する人に敗北はない。死を覚悟して挑む必死という言葉を、実感として教えられた例であった。
1998/11/02、月曜
- 銀行の貸し渋りや税金の執拗な取り立てに自殺者が相次いでいるという噂が絶え間ない。しかし大手マスコミでは殆ど末端の国民の窮状には触れていないようだ。某著名人がテレビで「今度の減税では高額所得者ばかりが優遇を受ける、とか言う輩がおるが、よう働かん奴に限って騒ぎよる。ワシらのように稼いでも稼いでもごっそり税金でもっていかれる者こそ災難だ。これでは一生懸命に働くのがバカらしくなる」と大きな声をあらげていた。そこには、働きたくとも仕事がなくて働けない人々への配慮が全く欠如している。この国では弱者の声が封殺されてしまうようである。巷ではどん底の生活苦に喘ぐ人々で溢れ、それに国が追い打ちをかけて自殺に追い込む非情な権力の行使が行われている。また一人、漁網製造業者が自殺したというニュースが伝わってきている。弱者の声が国の政策に反映されない現実は、それこそ国の滅亡につながるように思えてならない。生産を経済の基盤におかないマネー・ゲームのありようが、さらにこの国を絶望の淵に追いやっているのではないか。
1998/11/01、日曜
- 視聴番組予定
- 07:00〜07:15、録画TBS系列「ビジネス」
- 09:00〜10:00、録画NHK総合「日曜討論」
- 17:00〜17:30、録画TBS系列オンリー・ワン・アース「プルサーマル計画」地方版
- 18:00〜18:54、録画TBS系列「報道特集・マネーの逆襲(後編)」
- 19:58〜20:54、録画日本テレビ系列「特命リサーチ・原子力潜水艦スレッシャーを追え」
- 20:00〜22:54、TBS系列、神々の詩「田んぼ・緑の小宇宙」茨城の山本文則氏の無農薬の試み
- 21:00〜21:50、録画NHK総合「不良債権・200日の交渉」
- 22:00〜23:00、録画パーフェク251ch「CBSドキュメント」FBIとギャングの仲、ほか
- 今日の番組で楽しみにしているのが午後五時からの「オンリー・ワン・アース」である。この番組は全国版ではなく、おそらく電力会社がスポンサーの東北向けの宣伝番組だと思われる。プルサーマル計画がいかに国民にとって必要不可欠なものであるか、原発推進派の学者をゲストに迎えて説明するのだろう。福島県の佐藤知事も安全性を強調している昨今、それに勢いをつけるための番組である。原発の実状を知るうえでは、彼らのホームページ「エナジーNET」を参考にされたい。安全性を訴えながら事故と隠蔽の繰り返しを続ける彼らの主張はいかに信頼性のないものであるか・・・放射能の子供たちへの影響がどんなものか、ここで何度となく公開してきたカザフタンのアイヌルちゃんを再度紹介する。特に推進派の人々に見て貰いたい。