1997年八月

おーる・どきゅめんとどきゅめんと日誌・履歴

1997/08/31、日曜、曇、蒸し暑い

 通信ソフトが復旧したのは午後三時頃、思わず万歳をする。で、この日記を書いている。明日から九月になる。お盆あたりから肌寒いくらい涼しくなっていたのに、ここのところの蒸し暑さで体調が思わしくない。そこにきて二日おきに酒を浴びているのだから体調も悪くなるというものだ。居酒屋では歌を歌い、冗談を機関銃のように連発して疲れさせる。悪い性分だ。私を『へんちくりん』と称するオヤジがいる。風体もそれなりにへんちくりんだが、それ以上に何処に落ち着くのか分からない話をするせいだと、私は自覚している。自覚しているだけ始末が悪いかも知れない。そこに女将が悪のりすると話は漫才のような展開になる。私は時々首が回らなくなるほど精神的な疲労がたまる。そんなときは女将と丁々発止の漫画のような話を展開すると何故か治ってしまう。昨夜も安いワインを持参して「持ち込みは禁止よ」と女将から叱られることから始まった。私は店の酒をカネを払って飲み、持参したワインは女将が飲む、何も禁止されるような理屈ではあるまい。そんな屁理屈を何故か納得してしまう女将もおかしい。というわけで今日も一日中二日酔いに苦しむ。元気印の酒飲みも考え物だ。

1997/08/30、土曜、晴、暑い

 東京から弟夫妻が墓参りにやってきた。なんと弟の髪の毛が金髪になっていた!オシャレなのは知っていたが、もはや中年の会社社長なのだ。『いいかげんにしろ』と言いたかったが、どうも私は弟が苦手だ。私とは性格がまるで正反対、高校の文化祭ではギターで弾き語りをして会場を沸かせたかと思うと応援団長になったりしていた。傍らの息子は右腕を吊った小学一年生、野球で骨折したのだという。両親の墓はない。寂しい墓地を見ながら皆で金を出し合って墓を建てようという話になる。現代宗教のあり方に疑問を抱いている私は否定的。体裁だけの墓ならいらない。鎮魂の意味で、納得するまで決断したくない。日帰りのあわただしい墓参り、弟夫妻が帰ったあとでノートパソコンの異変に気づく。パソコンを知らない弟が操作ミスで通信ソフトの一部を削除してしまったらしい。なんと、まあ・・・こりゃまた。

1997/08/29、金曜、晴、また暑さがぶりかえしている

 福祉国家とも言われるスウェーデンで分かっただけでも六万人の障害者が不妊手術を受けていたというニュースが世界に衝撃を与えているが、今度はオーストリアやスイスでも同様の不妊手術を行っていたことが発覚している。その隣には「アメリカが放射能による人体実験2400件」といったベタ記事が載っている。国家権力が関与すると、人間の命はかくも軽く扱われるという悪しき例でもあろう。当時はそれを合法化または機密扱いしているゆえに『権力の魔性』の恐ろしさが伝わってくる。不妊手術や人体実験も、それを計画し行使した側の全てが例外なく犯罪者である。それが大臣であれ医師であれ、関わった全ての者が裁かれるべき犯罪者だ。 分かり切ったことだが、医師は患者の治療をするのが仕事である。先の不妊手術や人体実験をみるかぎり「医師は人間をモルモットにしながら犯している」犯罪者であり、それによって死ねば殺人者となる。極論だろうか?

 このたびの日本政府の医療保険制度改革では老人に多大な負担がかかってくる。『マル福』と言われる老人医療費助成が廃止されれば患者負担はこれまでの十倍以上になる。上限が設けられるものの、患者の病気が重くなればなるほど患者の負担は多くなる。そのマル福の存続に反対したオール与党は何を考えているのだろうか。僅かな年金に追い打ちをかける銀行の低金利、そこへ更に追い打ちをかける保険制度改悪とマル福廃止。政府が新たに高齢者に医療費を定額負担させる保険制度を新設しようとしている今、日本国民の大多数が選んだところの政治家たちは平然と福祉予算を切り捨てようとしていることを知るべきだ。血税でバブルのツケを払うといった住専問題でみせた政財界のやり口が、今度は最も手厚い保護を受けてしかるべき高齢者に向けられているのだ。

以前に書き込んだゼネコン資料をまとめている。ほぼ半年に渡って調べたもので、まとめるのに苦労している。いずれ様々な事件ともリンクするようになると思う。

1997/08/28、木曜、晴

 昨夜は友人が持参した地酒で酔いしれていた。話はどうしても不況のことになる。その不況の発端はやはりバブルにあったのではないか。日本中が天井知らずの株価に踊ったあげくの転落に他ならない。生命保険各社の解約状況も発表されたが、東邦に至っては何と81%もの解約率を記録している。日産生命の破綻が契約者の危機感に結びついたのだ。あの当時、日本の生命保険会社はこぞってアメリカなどの不動産を買い占めていた。今、それらの莫大な投資は全て消滅してしまった。日産生命の場合は高率の個人年金を売り出したことに端を発する。それを主導したのが銀行なのだが、銀行が保険業務に加わること自体禁じられている(銀行法十二条)。日産生命の損失額3300億円など序の口、それ以上の負債を抱えた生保(生命保険会社)の破綻が新聞を賑わすのも、そう遠い日のことではないだろう。生保の今年二ヶ月の解約高だけでも23兆7300億円にのぼり、そんな中でも生保各社はソルベンシマージン(支払い余力)の公表を拒んでいる。こうした生保の誠意のない態度がより解約を増加させるのだ。天井知らずの好景気が、いつしか底なしの不景気に転落した今、これを教訓とすることでしか未来への道筋は開けないだろう。大戦直前の大恐慌で国民の心が荒廃していたあの当時、その『いつか来た道』を未来への指針とすべき。

関連資料、金融スキャンダル主人公の退職金

1997/08/27、水曜、晴

 今朝の新聞は珍しく内容があった。真っ先に目についた見出しは「動燃のウラン廃棄物施設の大量漏出事故」、一刻も早く原発全廃に向けて始動しないと取り返しのつかない事故になることは明らかだ。国際版には「アメリカが来月に二回目の臨界前核実験を強行」とある。尿飲用療法の【好転反応】という言葉を思い出す。地球という生命体が絶望的な悲鳴をあげている今が最も大事な人類の転換期にあるのではないか。地球に蓄積した人類の負の遺産という膿が一気に吹き出そうとしているように感じる。後は我々ひとりひとりの平和を願う祈りにかかっている。地球の温暖化も急速に進み、シベリアでは永久凍土が溶けだしてマンモスが次々と姿を現している。このまま温暖化進めば珊瑚礁も藻の排出が出来なくなって死滅するとも言われている。海岸線も内陸部に大きく移動し、世界地図も書き換えられるだろう。何もかもがこれまでと違った様相になる。その原因の大半に人間が関与してきたことは衆知の事実だ。地球にとって人類は害虫の何ものでもないのだろうか・・・万物の霊長としての人間は何処へ行ったのか?

1997/08/25、月曜、曇

 そろそろ同業者から忠告される時期だとは思っていたが「あまりインターネットなんかで言いたい放題言ってるとアカだと思われるぞ」との電話を受けた。以前から反原発というだけで同じ忠告を受けたことがある。現体制に不満をもち批判することイコール日本共産党だという古い図式だ。お節介な傍観者が言う「おまえも商売をしているんだから・・・」だから何だと言うのか?逆風は覚悟のうえだ。金銭奴隷になるより乞食になったほうがましだ。そういう意味では私は経営者失格だ。やり切れぬ思いでいっぱいになる。

1997/08/23、土曜、晴

 アメリカの核兵器開発は相変わらず続いていたようだ。臨界前核実験によって、今後は核爆発実験を行うことなしにコンピューターでシュミレート実験を行うという。しかし一方ではB61−11なる地表貫通型核ミサイルも開発され、より実践的な核システムを構築している。つまり核実験はしなくとも『いつでも使用できる実践的な核ミサイル』は、更に改良されて配備されることになる。

1997/08/22、金曜、曇

 先月から体の異変に気づく。下半身に鈍痛と痺れ感、あれよあれよという間に歩けなくなる。それでも何とか歩けるようになって喜んでいると、今度は体内から大量の血を排便する。私の母はその血便から癌が判明している。『もしや?癌では・・・』そんな私の心配をよそに「また大袈裟な。それは単なる痔だよ」と知人が大笑いする。しかし私の場合は血液が消化されたドロリと固まったものであり、体内の奥で出血したものと思われる。痔の場合は鮮血が普通だ。 「とにかく病院で調べてもらえ」と言われるが、私は足場から転落しても救急車を断ったぐらいの徹底した医者嫌いだ。自分でも困ったものだと思う。喧嘩で頭を割られて担ぎ込まれた翌日には病院を抜け出すぐらいだ。だから私の社会保険証書は真っ白で何も記されていない。癌の疑いがある今度のような場合も診察さえ受ける気持ちはさらさらない。そんな時、何気なく本屋で手にした『民間療法』という本の【尿飲用療法】という文字に惹きつけられた。『これだ!』と訳もなく決断した。理由はないが、とっさに直感したのである。オシッコは血液が濾過されたものであり体内の情報が全て含まれている。それを再度体内に取り入れることで各体内の疾患は修復される、という実に単純にして明快な論理だ。オシッコを飲む、だけでいいのだ!医者嫌いの私にはまことにありがたい療法だ。そして今月初頭からオシッコを飲み始めている。ちょっと苦いくらいで味は殆ど感じない。そして血便はその翌日から止まった。次の日には眼の霞が無くなった。眼鏡を考えていた矢先だったので驚いた。その翌日にはぐらついていた歯がしっかりしたことに気づいた。しかし良いことばかりではなかった。本にも書いてあるが【好転反応】が起こったのだ。長年に蓄積された毒素が一斉に吹き出したかのような感じだ。耳の中に突然腫瘍でできたかと思う間もなく崩れて膿が流れ出した。首が回らないほどコリ、数日を経た今になってようやく首が回るようになった。まだまだ何が起こるか分からないが、それは好転反応の最中であり、いずれは完治するとの確信がある。不思議なことだが、その確信は以前からあったような気がする。

 友人が来るたびに二つのコップにビールとオシッコを入れて並べておく。見たところ色も同じで、ビールに泡さえたてなければ見分けがつかない。ウィスキーの水割りと並べたら殆ど分からない。さて、どちらがオシッコかという悪戯なのだが、友人は臭いを嗅ぐという反則技でクリアしてしまう。友人がビールを飲むそばで、私はオシッコを飲んでみせる。決して汚いものではないことを見せているつもりだ。カバの母親はは自分の子供の排泄物を食べるという。沖縄では豚が人間の排泄物を食べ、その豚を人間が食するという習慣がある。江戸時代まで、日本の農民はカネを出して糞尿を買い、それを唯一の肥料とした。糞尿は一度人間の体内を通過したものであり、ために自然はそれを容易く分解して土の栄養に換え、田畑を肥やす。自然が最も分解しにくいのが生活排水なのだそうである。川がドブのように汚染されるのも生活排水が原因だ。子供の頃、よく泳いだ川にウンチが流れてきた記憶がある。それでも当時の川は透き通るようにきれいだった。網を入れると小さなエビやゲンゴロウが獲れた。今の川は跡形もなく汚染されてしまった。海もまた汚染された。海岸を散歩すると打ち寄せられた空き缶やプラスチックの容器が散乱している。汚された自然は人間によって汚されたのであり、何より汚れた人間の心が自然を汚してきたかのようだ。

1997/08/21、木曜、晴時々曇

 愛用ノートパソコンのメモリーを増やした。ところがインターネットでは相変わらずメモリー不足で中断させられる。テキスト文だけならそんなに食わないのだが、画像を取り込むとなるとやはり大食いになる。せっかく増設したのに同じじゃないか!と夜中に一人で怒鳴ったりしていた。いつしか単なる記憶がいいだけの機械であることを忘れて、パソコンに感情をぶつけている自分がいる。数年前に二年分のデータを操作ミスで消してしまったことがあった。あの時ほどパソコンを憎悪を込めて罵ったことはない。最後には金槌で叩き割ってやろうと衝動的に思ったものだ。それだけパソコンに期待するものがあってのことだろう。同時に自分の感情移入がどれほどのものであったかを実感して唖然となったりする。パソコンはあくまでも補佐的な役割に留めておいたほうがいい。意志決定は人間がするものだという、ごく当たり前のことすら忘れてしまいがちになる魔力がパソコンにはあるようだ。メモリーも食えば時間も食う、これで人間も食われるようだったらおしまいだ。未来にはパソコンが意志を持つようになる、などと本気で言う学識者も現れている。どうかと思うが、コンピューターが人間に近づこうとすればするほど危険だとも思う。自然を破壊し、戦争を繰り返してきた愚かな人間を真似してほしくないものだ。

1997/08/20、水曜、晴後曇

 また暑さがぶり返してきた。今年の天候不順は異常だ。北朝鮮では洪水の後に干魃がきて、農産物が壊滅的な打撃を受けているらしい。人肉云々の噂も流れている。それに加えて北朝鮮の不安定な政治動向が暗い影を落としている。日本ではせっかく輸入したタイ米が臭くて美味しくないという理由から捨てられたことがあった。食べ物をゴミのように捨てる国民とは何なのだろうか・・・北朝鮮の痩せ細った幼児をテレビで見ながら、しばし考え込んでしまった。

1997/08/19、火曜、曇

 大手ゼネコンの多田建設が倒産したことで友人が悩んでいる。連鎖倒産を恐れているのだ。バブルのツケが形になってきている。すでにこういう事態は予想されていた。今危機が噂されているのは東海興業と飛島建設だ。飛島は七千四百億円の債務保証の内、六千四百億円の損失処理を金融機関に委ねることで再建を図っている。しかし東海興業の場合は債務保証をメインバンクが支えきれないという窮地に陥っている。今年七月だけで一兆円を越す企業倒産の負債が報告された。政府の『緩やかな景気回復傾向にある』といった言葉とは裏腹に、日本は極めて深刻な経済危機に迫られているという現実を認識すべきだろう。それはニッポンという国が経済基盤の天辺から墜落している最中に『まだ大丈夫』と楽観するに例えられよう。大丈夫どころではあるまい。飽食ニッポンの末路は極貧の予兆であり、戦後の飢え以上の試練が待ちかまえていることを覚悟しておくことだ。

1997/08/18、月曜、曇

 昨夕は買い物に出て目標の店が見つからず、そのまま知人宅に寄って酒を飲んでしまった。店は倒産したのだと言う。あちこちで倒産が頻発している。大手にはかなわない・・・そんな諦めの悲哀が伝わってくる。んで今日は二日酔い、何もしたくない、何もしない1日。明日から仕事が始まる。

1997/08/17、日曜、晴

 ニューヨーク株がまた急落した。247ドルの急落で史上二番目だという。国際金融市場のメカニズムが何に起因しているのかを、今こそ調べなおす必要がありそうだ。世界公認の大賭博市場と化した金融システム、マネーゲームに興じて経済の本質である労働を忘れたことのツケは大きい。急落が暴落となって、やがてアジア市場など全世界に飛び火して大恐慌に至る、という最悪のシナリオも現実的であるということを忘れてはなるまい。

1997/08/16、土曜、曇

 深夜のテレビでクリスチャン・ラッセンの絵画を観た。いつもながら心が洗われるような素晴らしい絵だ。というわけで、新世界の部屋にラッセンの絵を展示することにした。毎日更新して来月の中期までかかる予定。(私はイルカと宇宙の絵が好きだ)下手な評論は無用、とにかく透き通るようなラッセンの絵を堪能してもらいたい。う〜む、原画が欲しい。

 野村証券や第一勧銀などの不祥事がニュースになるたびに、私はその背後の闇の紳士たちのことが気になる。六年前に有森氏は『ウラの紳士たちは新たな標的を目指す』として、著書『ヤクザ・カンパニー』の中で巨大な怪物となった闇の勢力の脅威を書いている。この時に氏は結びに「今、闇の勢力と縁切りをしなければ、永遠に手を切れなくなることは確かである」と警告している。そして六年後の今日、それにもまして大手金融の不祥事が報道されている。彼ら幹部は一様に総会屋と手を切ると約束している今、現在、すでに総会屋たちは「手を切れるわけがない」と高笑いする。それよりもウラの紳士たちは更に大企業との結びつきを強固にするために、バブルで大手金融から手にした不合法な有り余る資金を洗濯して、合法的なオモテ社会に堂々と姿を現してきている。ディビット・カプランとアレック・デュプロは著書『ヤクザ』で「日本のヤクザは社会の中で自分たちにとって安全な場所をつくり出し、世界の他のどのギャングよりもあからさまに富を横取りしてきた。世界のギャングの中では、このように万人が認める強力な存在は、おそらくシチリアしか見られないだろう。長年にわたり日本人はヤクザと共に生活し、彼らの平和を保つために必要なものを彼らに与えてきた。過去三百年においてヤクザは世界で最も成功した犯罪組織の一つであり、今後三百年においても姿を消すことはないだろう」と言わしめている。強烈な皮肉だ。犯罪組織と一般日本人の暗黙の了解という潜在意識が外国のジャーナリストによって知らされた思いがする。

 デジタルカメラを買うことにした。フィルムでは現像する時間がもったいない。その点、現場で撮影してすぐに見られるデジカメは便利だ。まだ色には難点があるが、それそそれで普通のカメラで補える。通信販売で京セラの19800円という安いデジカメを買うことにした。安いなりのことはあると思うが、過酷な現場では壊れることも想定して、やはり安いカメラが適当だ。

1997/08/15、金曜、曇一時雨

 アサツユ報告を書き終えた。これをやると半日はつぶれる。それでも文面から伝わる訴える力にはかなわない。書き写すたびに涙が溢れてくる。胸が熱くなる。感動する。私ごとき非力な者でも「何とかせねば」と思う。今度の報告書には岩本町長が出てくる。ここでも私が散々批判した人物だ。氏は180度転換男だと言われているらしい。さもあらん、私は変節町長などと言っている。(6月19日の日記参照)いつもチェルノブイリの子供たちのことが気になる。悲惨な事態が起こる時だけ「過ちは二度と繰り返すまい」と誓いながら、いつ日かまたすっかり忘れてしまう人間のこと・・・喝!、最期の力を振り絞って立ち上がる毅然たる人であれと。

1997/08/14、木曜、曇、涼しい!

 昨日までランニングシャツでも汗が吹き出ていたのが嘘のような涼しさ。遠くでジャンガラ念仏踊りの太鼓の音が聞こえる。仏壇に盆飾りをして、昨夕は迎え火を焚いた。「父ちゃん、母ちゃん、早く来てね」という妹に「もう来ているぞ。ほら、おまえの後ろに」と私。

 アサツユ報告が届いている。明日にでもパソコンに入力してホームページで報告したい。今年度の福島原発の一連の事故での電力側見解が発表されている。最近、原発のコマーシャルが頻繁だ。有名な芸能人が原発の必要性を説く様子に何となく違和感を覚える。

 今夜八時、山一証券の部長が刺殺された。顧客相談室長の役柄、金銭トラブルが原因と思われている。

1997/08/12、火曜、晴後薄曇

 加害展示が自虐的との抗議は元軍人や自民党などの保守勢力から出されている。もっと日本民族の誇りを持て、ということだろうか。しかし、そのために歴史の事実が歪められてしまうことにはどう反論するのか。現在の誇りを持てない自虐的な状況は、その日本民族の誇り高き武勲によって生じた忌まわしい虐殺の歴史にあるはずだ。二万人もの捕虜を惨殺しておいてマスコミが「あっぱれ、でかした」と書き立てる。日本国民が虐殺を武勲として総出で万歳を叫ぶ異様さは、為政者によって騙されてきた被害者としての国民に変貌した戦後の変節とどこか似通っている。加害者としての戦争加担者としての国民は、戦後、いつしか国によって戦争を強要された哀れな日本国民と位置づけられた。だが、この日本の国民性は哀れなままではいられないようだ。人間の原罪という自虐的な悔いと反省なしには真の幸福は得られようがないのに・・・

 ボーナスの試算にはいつも苦労する。上半期総売上の歩合を算定し、妥当な数字にもってゆく。従業員が喜んでくれる程度のボーナスは払うつもりだ。経済の基本は労働にある。マネーゲームに興じて労働の価値を認めなくなった経営者は多い。その危うさはバブルの崩壊が如実に物語っている。経営者は今こそ労働の真価を問い直すべきだろう。

1997/08/11、月曜、晴

 昨夕、TBSで長崎原爆資料館での「加害展示」問題を放映した。「南京虐殺の写真展示を撤去せよ」という元軍人らの抗議に、右翼も加わり、その背後に自民党の後押しがあったことを暴露していた。とりあえず録画して、再度ここにまとめました。後で詳しい資料を追加したい。

1997/08/08、金曜、曇時々雨

 どうやら仕事の節目がついた。今日は足場から足を滑らして危うく転落するところだった。雨で濡れていたため。慣れているとはいえヒヤリとする一瞬、嫌なものだ。背筋に冷や汗が流れるというのは本当である。アソコも縮み上がる。

 先月、七月十八日の日記に「家族を探してください」なる、統一協会に家族を引き裂かれた人を紹介したが、つい数日前「家族が帰ってきました!ありがとうございました」というメールが届いた。本当に良かった。当人のホームページにも感謝の言葉が書き連ねてあります。http://www.dtinet.or.jp/~aa/index.htmlにて。

 教育テレビで「子供の人権」をテーマの討論番組があった。最後にゲスト(初老の外国人)の例え話で終わったのだが、その話が今でも私の心に焼き付いている。「昔々、河原にお爺さんとお婆さんがいました。お婆さんが大きな鍋を用意すると、お爺さんはそこに石ころを入れていました。不審に思った農民が『いったい何をしているんだい?』と問いかけると、お爺さんは『石のスープを作っているんだよ』と答えました。農民は呆れて『そんなんじゃ美味しいスープはできないよ』と言って持っていたジャガイモを入れました。しばらくするとまた一人の漁民が通りかかり、前の農民と同じ質問をしました。漁民は『それだけでは美味しくないから』と言って持っていた魚を入れました。そして次々と通りかかる人々が同じように質問をし、そして持っていた食べ物を加えました。やがて大きな鍋はご馳走でいっぱいになり、みんなで美味しく食べたということです。皆さん、私たちは子供の人権という大きな鍋にひとつの石を投じました。あとはあなた方の番です」

1997/08/04、月曜、晴後薄曇り

 ラジオから子供相談室の番組が流れている。鳩を飼っているという子供から「鳩はどうしてウンチとオシッコを一緒にするんですか?」という質問、「それはね、鳩は穴がひとつしかないからなんだよ」との先生の答え。この程度のことなら答えられるだろうが、前にも書いたが「人間はどうせ死ぬのにどうして生きているんですか?」という質問には大人も絶句するだろう。「何を馬鹿なことを言ってるんだ。喰うために生きてるのが当たり前じゃないか」そう言って憚らない一般常識人、それは「どうせ死ぬのに」という畳みかけた質問の答えにさえなっていないことは明らかだ。自然界では動物たちは互いに他の種を喰って生きている。ライオンが鹿を襲い、バリバリと骨を砕きながら口を血肉で真っ赤にしているライオンの側に鹿の生首が転がっていたりする。それを、社会秩序を守る良い子を育てる親の会の大人たちは残酷だと顔をしかめる。それでいてパックされた牛肉や豚肉は平気で食べられる不思議。人間の肉をミンチにして出されても分からず食べてしまうだろう。食べる食べられる自然界の法則は教育には必須の科目として取りあげてもらいたいものだ。豚肉を食べながら、その豚の原形を想像する日本人はまずいない。食べ物に感謝する意識の原形もまたそこにある。そして人間もまた喰われるべき存在である。火葬場の煙突から立ちのぼる死者の煙は飛散して消滅するかのように見えるが、実際は自然界に溶け込んでいく。つまり自然界は死者の肉体を喰うようにして呑み込んでいく。昔のように土葬であれば説明しやすい。死者は自然の極小生物バクテリアなどによって分解され、腐肉となって溶けながら自然と一体化する。それはまた植物たちの肥料ともなって自然界に恵みをもたらす。今から68年も前の医学兼物理学者のグスターフ・テオドル・フェヒナーは言っている。『人間の肉体の究極目的の一つは植物に奉仕することにある。生前は炭酸ガスを出して植物の呼吸を助け、死後は屍で植物に肥料を施す。草花も木も最終的には人間を食い尽くし、遺体を荒土や水や空気や日光と併合することによって、人間の肉体をもっとも壮麗な形態と色彩に完全に変貌させる』と・・・一方では生きている人間は開発の名の元に自然破壊を繰り返しながら、死後にはちゃんと自然の役に立つという皮肉。パロディか。聖書の『土より産まれ土に還る』だね。その土を人間は瘡蓋(かさぶた)を作るようにしてコンクリートを練り込んできた。

 同和問題云々の電話がくる。直感で右翼と感じたが、あのドスのきいた右翼特有の声はすぐ分かる。同和問題の実態は知らないが、これを機会に調べてみたい。寄付を募っているらしいが、今は手を離せないと言って断ることにしている。伊丹監督の襲撃事件もホテルの右翼対策をテーマにした映画「マルボウの女」が発端となっている。今度完成したばかりの映画「マルタイの女」は、その襲撃事件を元に警護する警察との体験を元に作られたことは衆知のことと思う。暴力に屈さない精神力を持続することは並大抵のことではない。口ではりっぱなことを言っても、実際にプロの恐喝を前すると人間の心というものがいかに壊れやすいかが実感できる。生理的な恐怖が優先するのだ。そして、その恐怖を払拭しようとするところに無理と悲劇が生まれる。臆病でもいい、臆病な自分を受け入れることから捨て身の勇気がわく。人間に執着がない限り、失うものは何もないのだ。今に騒がれている大手銀行や証券会社の総会屋との癒着も、その根底には自己保身の執着がある。私の後頭部には数aの消えない傷跡がある。若気の至りだった。しかしそれは同時に暴力に屈さなかった証拠でもある。目の前に突きつけられた暴力や権力の凶器に対処するには失うものがない捨て身の覚悟しかない。誰も助けてはくれない。見て見ぬふりがここ日本にはすっかり定着してしまった。

 イタリアのマフィア戦争がその教訓となる。79年7月、国家警察パレルモ本部長代理ジョルジョ・ジェリアーノは殺し屋から八発の銃弾を浴びて即死、目撃者三十人。同年9月、マフィア追放委員会会員カザーレ・テッラノーバ判事は二人の殺し屋から八発の銃弾を浴びて即死、目撃者十二人。翌80年1月、パレルモ首席検事ガエターノ・コスタは車の中から銃弾を浴びて即死、目撃者七人。 同80年4月、シチリア共産党支部書記ピオ・ラットレ暗殺、目撃者十一人。 同80年5月、国家治安警察本部エマヌエーレ・バジーレ大尉は三人の殺し屋から銃弾を浴びて即死、目撃者十三人。きりがないのでやめるが、たった二年間に起きた事件の目撃者全員『なにも見なかった』として証人台に立つことを拒否している。ことマフィアに関して一般人の恐怖が異様に大きいことが分かる。この一般目撃者の証言があれば救える悲劇なのだ。イタリアの見ざる言わざるがもたらす悲劇は今も続いている。日本も例外ではない。

1997/08/03、日曜、晴、暑いのなんのって!

 チェルノブイリを例に出すまでもなく、今や子供たちの多くが放射能被ばくで苦しんでいる。今朝の新聞にはアメリカとイギリスの深刻な被ばくの実態が報告されている。アメリカではネバダの核実験による子供たちの被ばくが七万人以上に達していることが確認され、イギリスではセラフィールド再処理施設から漏れた放射能による被ばくが確認された。我々は次代を担うべき子供たちにとんでもない負の遺産を残してしまった、という自覚をもつべきだろう。この悲劇は末代になればなるほど悲劇的で深刻な事態になることは明らかだ。母親は栄養の全てを子に与える母性本能によって、その乳房から濃縮された毒物もまた子に伝えられてしまう。それを分かっていながら日本には次々と原発が作られようとしている。原発の安全性が重大事故によって覆された今も・・・利権の欲に囚われた浅ましい大人社会がいつまで続くのだろうか。子を思う親の心は同じはずなのに、その子供の未来を我々は希望のないものにしようとしている。それに気づいた今、少なくとも対話の中でも原発を口にすることはできるはずだ。命のことを、もっと話し合うべきだ。

1997/08/02、土曜、晴

 7月30日にはエルサレムで死者15人を出すパレスチナ過激派による自爆テロが起きたが、これによってイスラエルのネタニヤフ首相はアラファト議長に武装メンバー全員の逮捕と武器の没収を要求、中東の和平は大きく後退してしまった。三ヶ月ほど前の4月8日にはユダヤ人入植者がパレスチナ住民に銃撃を加える事件が発生、これに反発した住民がイスラエル軍と衝突して多数の死傷者を出していた。今度の自爆テロはその報復だと思われる。折りもおり英軍事専門誌「ジェーンズ・インテリジェンス、レビュー」最新号では、イスラエルは400発の核爆弾を保有、危機に直面した場合は核先制攻撃を仕掛けるだろうと報じた。イスラエルはどうもこれまでの紛争とは違った危機意識が高まっているようだ。世界のここかしこで火種の焦臭いものが立ちこめてきている。仮に大暴落で世界的な大恐慌でもあれば、その失意と連動して大戦争が起こる可能性も否定できまい。かつての戦争がそうであったように・・・私はいつもそのことを懸念している。