04/8/28 (土)
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赤道ギニアのクーデター計画2004-その1
★赤道ギニア(ウィキペディア)
1997年6月、ヌゲマ大統領は進歩党のセベロ・モトヌサ党首に武器密輸容疑をかけ、進歩党の政治活動を禁止。モトヌサはスペインに亡命。裁判所は8月、国家反逆罪でモトヌサに懲役101年の判決。
1992年のビオコ島沖原油生産以来、主産業は農林水産業から原油生産に依存するようになった。1996年にはマラボ沖のザフィーロ油田で米国の石油会社モービルが原油生産を開始。石油ブームで1997年には成長率71%を記録するなど急速な発展を遂げているが、国民には数値ほど還元されていないようである。
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★ギニア湾−もう一つの湾岸石油戦争(萬晩報)
今、ギニア湾が熱く燃えている。ここでは、沖合いの海に、世界的な規模の炭化水素堆積盆の存在が確認されていた。欧州の油会社はすでに採掘を続けていた。そして近年、アメリカの油会社が激しい油田獲得戦争を続けてきた結果、さらに油の確認埋蔵量が増えている。低硫黄の良質な原油だといわれる。日本の人々の目が中東の油に釘付けにされていた間、ここでも、生臭いけれども真摯な、石油・天然ガスを獲得するための激しい戦いがくりひろげられていた。
アメリカはすでに、ギニア湾に浮かぶこの小さな島を、軍事基地にするつもりでいる。原油確保のためにますます重要度の増すこの一帯を、タンカーの通行を管理する拠点にするとともに、欧州勢の喉元に匕首を突きつけておくため、アフリカ大陸をにらむ戦略的な基地にするつもりだ。ちなみに、欧州の大手石油会社トータルフィナエルフは、全生産量の40パーセントをアフリカに依存している。
またこの島に、アフリカ大陸向けのラジオ放送、VOA(アメリカの声)の送信所を建設する計画も進んでいる。
今回のブッシュ大統領のアフリカツアーの本音は、国際社会に対して、ことに欧州に対して、アメリカのギニア湾支配を宣言するイベントだったのかもしれない。
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★にわかに注目のアフリカ産油諸国
ジャン=クリストフ・セルヴァン(Jean-Christophe Servant)
240億バレルの石油の眠るギニア湾は、世界第一の海底油田地帯になるだろう。しかも、スーダン以外のアフリカの油田地帯は、そのまま大西洋に面しており、さらにチャド=カメルーン間のパイプラインが完成すれば、日量25万バレルが大西洋岸へと送られるようになる。
エクソン・モービル、シェヴロン・テキサコの二大石油企業も、それよりは目立たないアメラダ・へス、マラソン、オーシャン・エナジーも、米国の石油企業はアフリカに向け、2003年には100億ドル以上を投資する予定でいる。これらの企業は、2001年9月11日以前からアフリカを地政学的に重要な地域と見なしており、2000年3月に下院アフリカ問題小委員会がアフリカのエネルギー資源の可能性を取り上げたとき、すでにそうした見方を伝えていた。この会合の出席者の中でも特に積極的だったのが、先端戦略政治研究所(IASPS)のメンバーだ。1984年にエルサレムに作られたこのシンクタンクは、かねてよりサウジの石油から距離をとるべきだと主張するイスラエルの右派政党リクードと、また米国の新保守勢力ともつながりが深い。
赤道ギニアにおける石油採掘許可の3分の2が、「ブッシュ政権とつながりのある」米国の事業者に与えられてきたのも事実である。たとえば石油会社CMSエナジーの前会長ウィリアム・マコーミックは、ブッシュ大統領の就任式に10万ドルの寄付をした。同じくギニア湾の石油開発に積極的なオーシャン・エナジー社は、父ブッシュ政権時代に赤道ギニア大使を務めたチェスター・ノリスをコンサルタントとして 首都マラボに送り込んだ。この典型的な対米従属経済への見通しにダメを押すように、赤道ギニアの海底油田の警備はもうじき、ペンタゴンの天下り先の民間企業、ミリタリー・プロフェッショナル・リソースに訓練された沿岸警備隊に委ねられる(この企業は、ラテン・アメリカでも、プラン・コロンビアの軍事作戦を支えている)。「米国国務省の情報源となっているのは、我が国の場合は石油会社なのだ」と、赤道ギニアの駐米大使館員は言う。こうしたわけで、2003年に予定されたブッシュ大統領のアフリカ歴訪(特にナイジェリア訪問)は、さまざまな意味で、まさしく歴史的なものとなりそうだ
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【視聴予定】
22時
00-23:30 ETV特集 消えぬ戦世(いくさゆ)よ・随筆家岡部伊都子の語りつづける沖縄▽59年前の沖縄戦を胸に秘めて非戦と平和を訴える81歳の人生▽心のふるさと竹富島 NHK総合テレビ
沖縄戦において日本軍の組織的抵抗が終結したのは昭和20年6月23日。
まもなく59年目の慰霊の日を迎える。
本土と沖縄の人々に様々な意識の変化をもたらした戦後の長い歳月。この間、一貫して沖縄を見続け、語り続けている女性がいる。随筆家・岡部伊都子さんである。
沖縄は、岡部さんの許婚(いいなずけ)だった陸軍少尉、木村邦夫(きむらくにお)さんが、昭和20年5月に戦死した場所である。当時19歳で軍国少女だった岡部さんは、出征する木村さんを喜んで戦地へ送り出した。木村さんが、彼女にだけ告白すると言い残した言葉の意味を理解できないまま・・・。
岡部さんは戦後、木村さんに対してとった自分の行為にさいなまれることになる。
昭和43(1968)年、岡部さんは意を決して沖縄へ渡る。まだ日本に復帰する前の沖縄である。そこで初めて岡部さんは、壮絶な沖縄戦の実相と日本から切り離された沖縄の現実に向き合うことになる。そして岡部さんは、木村さんが最後に彼女にだけ告白した言葉を世に公開し、自分のとった行為を問うことを決意する。
以来、岡部さんは、沖縄を心の故郷と決め、復帰前、復帰後の沖縄と自宅のある京都との往復を続けている。沖縄への深い愛情と非戦の思いを文学作品にしながら、その一方で、木村さんに対する自分の行為を聴衆に直接語りかける講演の旅も続けてきた。北海道から沖縄まで、その旅路は続いている。81歳の今も、頑固に戦争の悲劇、差別の悲劇を語り続ける。
岡部さんが、平和を希求しながら、なおも続く戦争の現実。そして風化していく沖縄の悲劇。岡部さんにとっては消えぬ戦世(いくさゆ)が続く。
「私は沖縄の骨になりたい」と、病弱な体を奮い立たせ、痛恨の原点となった自分の経験を語り続ける岡部さん。戦争の悲劇を訴え続ける岡部さんの言葉とひたむきな姿をドキュメントする。
岡部伊都子さん
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