橋本龍太郎・年表
1937-1998

1937/07/29,昭和12/07/29
首相となる橋本龍太郎が東京に誕生
1989/08/10,平成1/08/10
第1次海部俊樹内閣が成立する。蔵相は橋本龍太郎、経済企画庁長官は民間出身の高原須美子。
1991/10/14,平成3/10/14
橋本龍太郎大蔵大臣が、一連のバブル経済スキャンダルの責任をとって辞任する。
1991/12/01,平成3/12/01
高知県知事選挙で、元大蔵大臣橋本龍太郎の弟で元NHK記者の橋本大二郎(保守系無所属・社会党支持)が自民公認の候補に大差をつけて当選する。知事としては最年少(44歳)。
1994/06/30,平成6/06/30
重要閣僚を自民党が占めた村山連立内閣が発足する。自民党総裁の河野洋平が副総理外相、官房長官に社会党五十嵐広三、蔵相に新党さきがけ武村正義、通産相に自民党橋本龍太郎。自民党の田中真紀子が科学技術庁長官となる。
1994/09/30,平成6/09/30
政府調達の対日制裁やスーパー301条の期限がきたことに伴う日米新経済協議(日米包括協議)がワシントンで開かれ、河野洋平副総理・外相と橋本龍太郎通産相が相次いでカンター米通商代表と会談するが、自動車や自動車部品、板ガラスなどについて緩和策を示しても米側は同意せず難航する。
1994/10/24,平成6/10/24
橋本龍太郎通産相が、衆議院税制改革特別委員会で、第2次世界大戦の性格をめぐって「(米国、英国などと)戦いという要素を持ち、戦争を行ったことは事実だが、侵略戦争と言い得たかどうか疑問は残る」と発言する。
1994/10/27,平成6/10/27
24日の橋本龍太郎発言に韓国が遺憾の意を表明していたが、五十嵐官房長官が「橋本発言は日本政府が過去の戦争について公式に述べてきたことと一致している」と説明し、韓国駐日大使が受入れて問題が決着する。
1995/08/09,平成7/08/09
橋本龍太郎通産相が、自民党総裁選挙に立候補する意欲を小淵派に示す。
1995/08/21,平成7/08/21
橋本龍太郎通産省が自民党総裁選に立候補することを正式に明らかにする。河野総裁も再選を目指すことを表明する。
1995/09/22,平成7/09/22
自民党総裁選の国会議員による投票が行われ、これまでに投票された党員の票と併せ、橋本龍太郎304(議員票239、党員票65)、小泉純一郎87(議員票72、党員票15)の得票となり、橋本通産相が第17代総裁に選出される。
1995/10/02,平成7/10/02
村山首相が、自民党総裁交代に伴って副総理ポストを河野外相から橋本龍太郎通産相に代える意向を固める。与党3党は大筋で合意する。
1995/10/15,平成7/10/15
ニューヨーク・タイムズが、6月に同意した日米自動車交渉でCIA工作員が橋本龍太郎通産相とトヨタなど日本車メーカー役員との会話を盗聴していたと報じる。
1996/01/04,平成8/01/04
村山首相が、橋本龍太郎副総理、武村正義蔵相らとともに伊勢神宮参拝する。
1996/01/06,平成8/01/06
村山首相の退陣表明を受けて、自民、社会、新党さきがけの与党3党が後継首相に橋本龍太郎自民党総裁を選出することを念頭に、新たな政策合意作りに着手する。
1996/01/11,平成8/01/11
衆議院本会議で橋本龍太郎が第82代総理大臣に指名される。即日組閣が行われ、幹事長に梶山静六、蔵相・副総理に社会党の久保亘書記長、法務相に民間の長尾立子、外務相に自民の池田行彦、文部相に自民の奥田幹生、厚生相にさきがけの菅直人、農林水産相に自民の大原一三、通産相に自民の塚原俊平、運輸相に自民の亀井善之、郵政相に社会の日野市朗、労働相に社会の永井孝信、建設相に自民の中尾栄一、自治相に自民の倉田寛之、総務庁長官に社会の中西績介、北海道・沖縄開発庁長官に自民の岡部三郎、防衛庁長官に自民の臼井日出男、経済企画庁長官にさきがけの田中秀征、科学技術庁長官に自民の中川秀直、環境庁長官に社会の岩垂寿喜男、国土庁長官に社会の鈴木和美が指名される。
1996/02/23,平成8/02/23
橋本龍太郎首相が、ロサンゼルス郊外のサンタモニカでクリントン大統領と初の首脳会談を行う。沖縄米軍基地の整理・統合・縮小問題の解決を最優先することで一致する。
1996/02/28,平成8/02/28
住専処理の6950億円を新年度予算案から削除するよう求めた新進党の小沢一郎党首と自民党の橋本龍太郎総裁(首相)の党首会談が行われる。協議は平行線を辿る。
1996/03/22,平成8/03/22
橋本龍太郎首相と大田昌秀沖縄県知事が会談し、普天間飛行場など沖縄米軍基地の整理・縮小について話し合われるが、首相は11月ごろまで後退せざるを得ないという認識を示す。
1996/05/17,平成8/05/17
慶應義塾大学出身者による「塾員 橋本龍太郎君の首相就任をお祝いする会」が開かれ、鳥居泰彦塾長、桜内義雄前衆議院議長、中村紘子らが出席する。首相は「夢中の4ヵ月」を振り返る。
1996/06/22,平成8/06/22
橋本龍太郎首相が首相就任以来初めて韓国を訪問し、済州島のホテルで金泳三大統領と会談する。金大統領は、2002年のサッカーワールドカップについて、未来志向の両国関係を築く契機にしたいと述べる。
1996/06/27,平成8/06/27
橋本龍太郎首相が欧州委員会のサンテール委員長と会談する。橋本首相は、日本が提案している「半導体に関する主要国政府会合」の設置について理解を求める。サンテール委員長は日本・EUが半導体問題で協調していく姿勢を示す。
1996/06/27,平成8/06/27
橋本龍太郎首相とクリントン大統領の会談が、サミットを前にリヨンで行われる。懸案となっていた日米半導体協定の延長問題と保険問題について7月31日までに決着を図ることで合意する。
1996/08/15,平成8/08/15
51回目の終戦記念日を迎え、政府主催の「全国戦没者追悼式」が日本武道館で開かれ、橋本龍太郎首相が4年ぶりの自民党総裁として式辞を述べる。5閣僚が靖国神社に参拝する。
1996/08/16,平成8/08/16
橋本龍太郎首相が、沖縄県の大田昌秀知事を相手取り、米軍嘉手納飛行場など11施設、3040人の所有地の強制使用に関する裁決申請書の公告・縦覧の代行を求める職務執行命令訴訟を起こす。
1996/08/20,平成8/08/20
橋本龍太郎首相がメキシコ、チリ、ブラジル、ペルー、コスタリカの5ヵ国歴訪に出発する。
1996/08/29,平成8/08/29
橋本龍太郎首相が、中南米訪問の帰途立ち寄ったハワイで、1996年度補正予算編成や臨時国会召集について、9月半ばすぎまでかかるとして、衆議院解散総選挙に直結しかねない召集に慎重な姿勢を示す。
1996/09/05,平成8/09/05
橋本龍太郎首相が、9月下旬に臨時国会を召集し、直ちに衆議院を解散する意向を固める。
1996/09/17,平成8/09/17
橋本龍太郎首相が就任後初めて沖縄を訪問し、海兵隊普天間飛行場のヘリポート移設問題に関して、アメリカが撤去可能な海上ヘリポートを建造する方法を提案したため日本も検討を始めたことえお明らかにする。
1996/11/06,平成8/11/06
社民党が三役会議を開き、特別国会の首相指名投票への対応について、橋本龍太郎首相に投票することを正式に決める。
1996/11/07,平成8/11/07
橋本龍太郎が、衆参両院の首相指名投票で39人代、22人目の首相に選ばれる。第2次橋本内閣は自民単独となり派閥色が再現することとなる。主な新閣僚は、法相に松浦功、蔵相に三塚博、文相に小杉隆、厚相に小泉純一郎。
1996/11/18,平成8/11/18
橋本龍太郎首相が、来日したフランスのシラク大統領と会談し、年1回の定期首脳会談の開催や青少年文化交流の拡大などを含む文書に署名する。
1997/01/11,平成9/01/11
橋本龍太郎首相がベトナムのハノイに到着し、キエト首相、ド・ムオイ共産党書記長と会談する。橋本首相はベトナムの国防次官の訪日を要請する。
1997/02/01,平成9/02/01
橋本龍太郎首相が、カナダのトロント市内のホテルで前日に引続いてフジモリ大統領と会談し、リマの日本大使公邸人質事件について意見を交換する。「予備的対話」を進めることで一致する。
1997/02/17,平成9/02/17
橋本龍太郎首相と大田昌秀沖縄県知事の会談が首相官邸で行われ、大田知事が「5.15メモ」の全面開示を求める。
1997/02/24,平成9/02/24
橋本龍太郎首相が、オルブライト米国務長官と会談し、沖縄駐留の米海兵隊について話し合う。
1997/03/06,平成9/03/06
橋本龍太郎首相が参議院予算委員会の答弁で、5月14日に一部使用期限が切れる沖縄の米軍用地収用について、沖縄県収用委員会の裁決が期限に間に合わない場合は、駐留軍特別措置法の改正を行う考えであることを表明する。
1997/03/18,平成9/03/18
橋本龍太郎首相が、政府・与党の財政改革会議で、財政再建の目標年次を2005年から2003年に前倒しするなどの指針を示す。
1997/03/25,平成9/03/25
橋本龍太郎首相が沖縄県の大田昌秀知事と会談し、米軍基地の一部用地を暫定使用するために駐留軍用地特別措置法を改正する意向を伝える。
1997/04/29,平成9/04/29
橋本龍太郎首相がハワード・オーストラリア首相と会談し、日豪両国の安全保障対話を推進することで合意する。
1997/06/18,平成9/06/18
自民党の総裁に橋本龍太郎首相の再選の方向が固まる。
1997/06/23,平成9/06/23
ニューヨーク株式市場が急落し、ダウ工業株平均が前日比192.25ドル安と史上2番目の下げ幅になる。橋本龍太郎首相が、外貨準備で保有している米財務省証券を「売却する誘惑にかられたことがある」と述べたため。
1997/06/25,平成9/06/25
橋本龍太郎首相が、オランダで欧州連合の首脳と定期協議を行う。
1997/08/28,平成9/08/28
橋本龍太郎首相が、自民党本部で開かれた臨時役員会で、9月8日公示の総裁選に立候補する考えを正式に表明する。
1997/09/04,平成9/09/04
中国訪問中の橋本龍太郎首相が、北京の人民大会堂で李鵬首相と会談する。日米防衛協力のためのガイドラインの見直しについて、橋本首相が特に中国を敵視したものではないと説明する。
1997/09/06,平成9/09/06
中国訪問中の橋本龍太郎首相が、満州事変勃発の地の柳条湖を訪れる。
1997/09/08,平成9/09/08
自民党総裁選が告示され、ただ1人立候補した橋本龍太郎首相の無投票当選が決まる。
1997/09/19,平成9/09/19
橋本龍太郎首相が午後、佐藤孝行総務庁長官と会談し、自主的な閣僚辞任を求める方針を固める。
1997/09/22,平成9/09/22
佐藤孝行総務庁長官が首相官邸で橋本龍太郎首相と会談し、「これ以上の国政の混乱を避けたいという政治信条で辞任したい」として辞表を提出する。首相は辞表を受理し「むしろ迷惑をかけたのは私だ」と陳謝する。
1997/11/02,平成9/11/02
ロシア・東シベリアのクラスノヤルスクを訪問中の橋本龍太郎首相がエリツィン大統領と会談し、北方領土問題を解決して両国の完全正常化を図るとした「東京宣言」に基づき、2000年までに平和条約を締結するために全力を挙げることで合意する。
1997/11/03,平成9/11/03
橋本龍太郎首相がドイツのコール首相に電話を入れ、日露首脳会談の成果を報告し、日露首脳会談を側面支援したコール首相に謝意を伝える。
1997/11/13,平成9/11/13
新進党の西村真悟議員が、橋本龍太郎首相が中国政府の女性通訳と個人的に親しい関係にあると週刊誌で報道された問題について、7項目の質問主意書を衆院議長宛てに提出する。
1997/11/13,平成9/11/13
橋本龍太郎首相が首相官邸でロシアのプリマコフ外相と会い、日露外相会談の結果に歓迎の意を伝える。
1997/11/19,平成9/11/19
橋本龍太郎首相が、首相官邸でフィリピンのラモス大統領と会談し、アジア通貨市場の混乱から脱出するために両国が協調していくことで一致する。
1997/12/16,平成9/12/16
マレーシアを訪問中の橋本龍太郎首相が、ASEAN各国と首脳会談を行い、21世紀に向けた日・ASEANの協力推進をうたった共同声明を発表する。
1997/12/17,平成9/12/17
橋本龍太郎首相が、首相官邸で緊急記者会見を行い、1997年度補正予算で所得税減税を中心とする2兆円規模の特別減税を行う考えを表明する。
1997/12/24,平成9/12/24
橋本龍太郎首相が、沖縄県の大田知事と名護市の比嘉鉄也市長と相次いで会談し、海上ヘリポート建設に対する協力を要請する。大田知事は態度を保留するが、比嘉市長は受入れを表明し、「受入れと同時に政治生命を終らせる」と語る。
1998/03/11,平成10/03/11
日本銀行営業局証券課長の吉沢保幸が収賄容疑で逮捕される。松下日銀総裁が橋本龍太郎首相に電話で辞意を伝える。
1998/03/15,平成10/03/15
インドネシア訪問中の橋本龍太郎首相がジャカルタ市内の大統領私邸でスハルト大統領と会談する。スハルト大統領はIMFに弾力的に対応する意向を示す。
1998/04/02,平成10/04/02
アジア欧州会議に出席する橋本龍太郎首相がロンドン市内で中国の朱鎔基首相と会談し、朱首相が早期に日本を訪問するよう要請する。
1998/04/07,平成10/04/07
橋本龍太郎首相が、日米防衛協力のための指針(ガイドライン)の実施に向けた法整備について、「周辺事態法案」の制定、法人救出のための自衛隊法の改正、日米物品役務相互提供協定の改定の3点で対応することを了承する。
1998/04/19,平成10/04/19
橋本龍太郎首相とロシアのエリツィン大統領が、静岡県伊東市川奈のホテルで第2回の会談を行い、2000年までに締結を目指す平和条約について、北方四島の帰属問題を解決し、友好協力に関する原則を盛り込むことで合意する。
1998/05/15,平成10/05/15
橋本龍太郎首相がロシアのエリツィン大統領とバーミンガム市内で35分間会談する。エリツィン大統領が2000年サミットをロシアで開きたいと申し出て橋本首相が理解を示す。
1998/07/03,平成10/07/03
橋本龍太郎首相が、恒久的な税制改革を実施する考えを示す。これが「恒久減税」ととられて報道されたため、後に「恒久減税とは言っていない」と発言する。
1998/07/12,平成10/07/12
参議院議員選挙で自民が惨敗したため、橋本龍太郎首相が退陣を決意する。
1998/07/13,平成10/07/13
橋本龍太郎首相が、前日の参院選の敗北の責任により正式に自民党総裁を辞任することを表明する。
1998/08/15,平成10/08/15
小渕恵三首相が首相公邸で橋本龍太郎前首相と会談し、日露平和条約締結交渉などのための「首相外交最高顧問」への就任を要請する。橋本前首相は受諾する。
1998/09/16,平成10/09/16
外交最高顧問としてモスクワを訪れている橋本龍太郎前首相がエリツィン大統領とともに小沢征爾とロストロポーヴィッチのコンサートに出席する。
1998/09/17,平成10/09/17
モスクワで、橋本龍太郎前首相とエリツィン大統領が4ヵ月ぶりに会談する。