04/06/01 (火)
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初代国連大使の加瀬俊一さん死去

 太平洋戦争の開戦、終戦の両方に外交官として深くかかわり、戦後は初代国連代表部大使として国連加盟に尽力した加瀬俊一(かせ・としかず)さんが5月21日、急性心不全のため神奈川県鎌倉市西御門1の5の27の自宅で死去した。101歳だった。葬儀は近親者のみで23日に行った。10月30日に都内でお別れの会を予定しているが、時間、場所は未定。
 25年、外務省に入った。松岡洋右外相秘書官などを務め、30年のロンドン海軍軍縮会議に参加。41年12月の日米開戦時には北米担当課長として、米国に交渉打ち切りを通告する覚書を起草、英訳した。その後、重光葵外相の側近として終戦工作に携わった。
 45年9月には情報局部長として、重光外相に同行して戦艦ミズーリ号上での「降伏文書調印式」に出席した。55年に初代国連代表部大使に就任、国連加盟(56年)に尽力した。ユーゴスラビア大使を経て退官、鹿島出版会会長、京都外国語大教授などを歴任した。
 退官後も歴代首相の外交顧問格として働き、佐藤栄作首相のノーベル平和賞受賞では、根回しに奔走。影の功労者と言われた。著書に「ミズーリ号への道程」などがある。

【履歴】
外交評論家 鹿島出版会会長 外務省顧問 元・国連大使 (生)明治37年1月12日 (出)東京 (学)東京商大予科(大正10年)卒、ハーバード大学大学院修了 (賞)ルイス・アンド・クラーク大学名誉国際政治学博士号(昭和62年) (歴)東京商大2年の時外交官試験に合格、直ちに外務省に入り、昭和元年米国に留学、アムハースト大、ハーバード大卒。すぐれた語学力でロンドン軍縮会議や国際連盟脱退などに随員として同行、20年のミズリー号上の降伏調印には外務省報道部長として参列。30年初代国連大使、33年駐ユーゴスラビア大使、35年外務省顧問となる。吉田、佐藤、中曽根の歴代首相の顧問もつとめる。「戦争と外交」「加瀬俊一回想録」など著作も多い

松岡洋右(YousukeMatuoka)
昭和8年国際連盟首席代表、同10年から14年まで満鉄総裁、同15年7月から16年7月まで近衛内閣の外務大臣
昭和21(1946)年6月27日、結核により東大病院坂口内科に入院中に病死。

1880/03/04,明治13/03/04 政治家・松岡洋右誕生
1932/11/04,昭和7/11/04 モスクワで、ソ連外務人民委員のリトビノフが松岡洋右国際連盟代表に不可侵条約締結を提議する。
1932/11/21,昭和7/11/21 国際連盟理事会で、松岡洋右代表と顧維均・中国代表の間で激論となる。
1933/02/24,昭和8/02/24 国際連盟が対日満州撤退勧告案を可決する。松岡洋右日本代表は連盟への決別を述べ退場する。
1933/12/08,昭和8/12/08 松岡洋右が代議士を辞任する。
1933/12/23,昭和8/12/23 松岡洋右が政党解消連盟を結成する。
1941/01/21,昭和16/01/21 松岡洋右外相が、仏領インドシナ、オランダ領東インド、タイを大東亜共栄圏に含めると表明する。
1946/06/27,昭和21/06/27 松岡洋右。67歳

重光 葵(Mamoru Shigemitu)
59歳 大分 駐英大使、外相
昭和6年駐華大使、同11年11月から13年11月まで駐ソ大使、同13年から16年6月まで駐英大使、同16年12月から18年4月まで南京政府駐剳大使、同18年4月から19年7月まで東條内閣の外務大臣、同19年7月から20年4月まで小磯内閣の外務大臣兼大東亜大臣。(極東軍事裁判、判決)禁固 7年

1887/07/29,明治20/07/29 外交官・重光葵誕生
1943/04/20,昭和18/04/20 東条英機内閣が改造される。外相に重光葵、内相に安藤紀三郎など。
1945/09/02,昭和20/09/02 東京湾内に停泊している米戦艦ミズーリ号上で、日本全権代表重光葵外相が降伏文書に調印し、アジア・太平洋戦争が正式に終結する。
1957/01/26,昭和32/01/26 重光葵、。69歳

佐藤栄作(Aisaku Satou)
1901/03/27,明治34/03/27 首相となる佐藤栄作誕生
1954/04/21,昭和29/04/21 犬養健法相(57)が検事総長に指揮権を発動し、造船疑獄に関する収賄容疑で逮捕請求が出ていた佐藤栄作自由党幹事長(53)の逮捕を阻止する。
1958/06/12,昭和33/06/12 第2次岸内閣が成立する。佐藤栄作が蔵相となる。
1964/11/09,昭和39/11/09 池田首相の病気のため池田内閣が総辞職する。第1次佐藤栄作内閣が成立する。
1965/08/19,昭和40/08/19 佐藤栄作が、首相として初めて沖縄を訪問するが、デモ隊に囲まれ、米軍基地内に宿泊する。
1966/12/01,昭和41/12/01 自民党総裁選で、佐藤栄作が藤山愛一郎を破り再選される。
1967/02/17,昭和42/02/17 第2次佐藤栄作内閣が成立する。
1967/09/20,昭和42/09/20 佐藤栄作首相が東南アジア訪問に出発する。
1967/10/08,昭和42/10/08 佐藤栄作首相が、南ベトナムを含む東南アジア・オセアニア諸国訪問に出発する。羽田空港に通じる3つの橋の付近で反日共系全学連の抗議デモが警官隊と衝突し、京大生1人が死亡する(第1次羽田事件)。
1969/01/29,昭和44/01/29 屋良朝苗琉球政府主席が、佐藤栄作首相にB52撤去の対米交渉を要請する。
1970/10/29,昭和45/10/29 自民党総裁選で佐藤栄作が4選される。
1972/06/17,昭和47/06/17 佐藤栄作首相が引退記者会見を行うが、テレビだけを残し新聞記者を追い出す。
1972/07/06,昭和47/07/06 佐藤栄作内閣が総辞職する。
1974/10/08,昭和49/10/08 佐藤栄作首相にノーベル平和賞が与えられることが決まる。
1974/12/10,昭和49/12/10 ストックホルムでノーベル平和賞の授賞式が行われ、佐藤栄作前首相が受賞する。
1975/06/03,昭和50/06/03 佐藤栄作元首相、。74歳
1975/06/16,昭和50/06/16 日本武道館で佐藤栄作元首相の国民葬が行われる。
1978/09/11,昭和53/09/11 インドネシアの故スカルノ前大統領の第3夫人のデビ夫人が記者会見し、1965年9月30日のクーデター未遂事件にCIAと佐藤栄作元首相が関与【注1】していたと非難する。
1987/10/12,昭和62/10/12 竹下登が佐藤栄作元首相邸に引越す(屏風購入事件の脅迫書類を竹下議員が見つけたとされる日)。

【注1】
インドネシア・1965年:米英の共謀
 インドネシア共産党(PKI)に対する政府軍の100万人とも云われる犠牲者を出した大量虐殺。これに日本政府が関与していたとすれば、どのへんからなのか?それにしても酷いものだ。今のイラク内戦と何ら米英の体質は変わらぬことにも気付かされる。日本しかり、彼らに従属するという意味においても・・・
【私的めもらんだむ】
7時
 米戦艦ミズーリ号上の降伏文書調印で思い出すのが、日本で暗躍した某CIA要員の回顧録だ。それによると、このとき米戦艦ミズーリ号に潜水艦ごと体当たりして自爆するという計画が海軍元将校らで練られていたという。これを事前に察知したCIAは何とか阻止しようとしたが間に合わず、当日の調印式の経過をハラハラしながら見守っていたのだと・・・結果的に何も起こらず事なきをえたが、あのとき潜水艦がミズーリ号に突っ込んでいたら大変なことになっていただろう。このCIA要員はのちに日本人女性と結婚、奥さんはアメリカにおいて交通事故で死亡している。


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