04/04/15 (木)
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イラク人質の家族、疲労は極限、のニュースに思ったこと

イラク人質の家族、疲労は極限…点滴受ける
イラクで3市民誘拐 声荒げる家族

 人質の安否を心配するあまり、今度はその家族の健康が危ぶまれる事態になっているようだ。今は亡き母の看病していた時の事を思い出す。深夜、病室に突然悲鳴ともつかぬ怒号が響いたことがあった。妻の看護をしていた夫と思われる初老の男性が「もう、たくさんだ!おまえなんか死んでしまえ!」と喚き出したのである。その男性の顔には疲労が色濃く、半ば狂乱した表情があった。おそらく一人不眠不休で看病していたのであろう。家族が互いに交代で看病すればこういう事にはならなかったはずだ。看病疲れで患者より先に急死してしまった、という話も伝え聞いていた。冗談ではない、それほど看病は労力が要る。私も朝まで看病して、帰りには足元がおぼつかずフラフラしていたものだ。
 不眠不休で心配しているという人質の家族に同じ危うさを感じる。すでにあらゆる手を尽くした時点で、眠るべきであり休むべきだ。声を荒げること自体、焦燥の限界を感じる。不眠不休で心配する家族の心情は他人の同情を誘っても、心配そのものが家族の心身を蝕んでは何にもならない。人質解放の長期的継続が予想されるなら、尚更健康の維持に努めるべきではないのか。人質の三人も大事な命なら、それを心配する家族も同じ尊い命に変わりあるまい。家族が交代で記者会見にのぞむぐらい出来るだろう。それを考慮しない不休の頑張りは単なる無責任とも成りかねない。自分の命に対する無責任、ということだ。人はその心以上に、日々命の糧を摂取しなければ生きていけない生物でもある。
 うちの役立たずの猫も、静かに寝入っている様子を見れば可愛いものだ。彼らはただ生きることだけに生きている。人間社会はそれを許さず、役に立たない人間は排除されかねない。末期癌で死んだ母にしても、ただ生きていてくれさえしたらどんなに良いだろうと、今さらながら思う。人質に生きててほしいと願う以上に、それを願う人々にも、生きててほしいのだ。
日本で 韓国で
 反戦運動が熱を帯びてきているようだ。「何が何でも人質解放を、自衛隊のイラクから全面撤兵を」と政府に迫り、「もう黙ってられない。アクションを起こそう!」と決起を促す人たち・・・それに呼応して各地でデモに参加する人々も増えてきているようだ。激情傾向癖の私なども血が騒ぐというものだ。しかし・・・政府の怠慢を追及するあまり、不眠不休の闘争が過度の焦燥となり、それが元で倒れるとなれば話は別だ。それでも「頑張る」と立ち上がる根性は見上げたものだが・・・ちょっと待てよ、と私の心の何処かでストップをかける声がする。これってサッカーの熱狂に似ていなくはないか?と・・・熱を帯びるということ、炎が燃え盛る燃焼のイメージ・・・その果ての予兆、燃え尽き症候群。声高に戦争反対を叫ぶことだけが果たして反戦運動なのか?もっと静かに浸透する運動があってもいいのではないか?個々人の心の中で戦争の何たるか?を考え、確固たる反戦の意志を自己認識しながら、その意思表示に隣人に語りかける。大地から芽が吹き出るように、反戦という心の芽が静かに首をもたげて行く。そのデモは声高に主張することをしない。拳を振り上げることもなく、ただプラカードを掲げた大地を這う静かな平和の行進だ。その行進は無限の広がりを持ち、やがては大地を覆い、権力者たちの鼓舞する声をも虚しくする。そのような反戦運動もあってしかるべきではないのか。人として人であるために、もはや地球の害虫としての人間ではいられない、静かで平和な心の芽ばえ・・・自分の性格とは正反対の、そんなイメージが膨らんでくる。「そんな悠長なことを云ってられるか!現に今もファルージャで子どもの手足が吹き飛ばされているんだ!」熱を帯びたもう一方の激情家の私が叫ぶ。人それぞれ、そんな心の葛藤をしているんだと思う。自己矛盾を承知で私は自分を諌める。まあ落ち着け。毎日猫の餌をやるように、平和な心に水を与えるように育ててみようと・・・日々の生活の中でコツコツと反戦の意志を自己確認しつつ、押し固めていく作業・・・この未曾有の大不況にあって、人々はみな苛立ちはじめている。過去の大戦がそうした苛立ちを戦争へと結びつけていったのではなかったか?その教訓を胸に、まあ落ち着け、と自分に言い聞かせている。

日本人人質3人を解放 発覚以来7日ぶり(共同通信) ― イラク・イスラム聖職者協会の呼びかけに応じて解放
【阿修羅掲示板より】



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