波瀾万丈04新春SP 中曽根康弘…全告白、その3
昭和57年11月、第71代内閣総理大臣に就任。昭和58年ウィリアムズバーグサミットでレーガン大統領と共に並び「ロン・ヤス」と呼び合う仲となる。三公社の民営化にも尽力(国鉄→JR、電電公社→NTT、専売公社→JT)、強い意志をもって成し遂げる。ヨイショ 彼は戦後三番目の4年11ヶ月の長きに渡って首相を務めるのであった。
F=総理大臣になられたときのお気持ちはいかがでしたか?
N=よくここまで我慢してきた(また自画自賛)。戦後政治の総決算だ、いよいよやるぞ、と。三公社の民営化では田中系を利用し、ために田中曽根内閣などと揶揄されたもんです。政治は動機とか過程ではなく結果なんだ。国民は結果を評価する。結果が良ければいいんだ。
ウィリアムズバーグサミットでは意識してレーガンさんの隣に並んだ。それまでの日本の首相は隅っこのほうに並ぶのが通例だったが、国連の分担金がアメリカに次いで二番目なのに隅っこに並んだのでは日本の国民に申し訳ない、そう思って中央のレーガンさんの所に寄っていったんです。日本国民の皆さんに堂々としたニッポンを誇示して見せたかった。あの時はアメリカが軍艦マーチを演奏して私を歓迎してくれんです。それを日本のマスコミは日本軍国主義の音楽だとか騒ぎ出した。それに反応したアメリカの外務省やレーガンさんが心配した。それで真ん中に立っていたレーガンさんに寄っていって「あの音楽は日本の名曲で、日本人はあれを聴くと喜ぶんだ(???)」と話していたんです。
F=レーガンさんは中曽根さんが海軍主計局にいたことをご存知だったわけですね。(大爆笑)
昭和62年、中曽根は内閣総理大臣の座を退く。以後、イラクのサダム・フセインなど、各国の要人たちに会ってきた。平成8年、比例代表候補終身一位を約束、平成9年、国会議員在職50年の表彰を受ける。平成12年、衆議院議員当選20回を果たす。そして去年、小泉首相は国会議員73歳定年制を実施しようと、85歳の中曽根康弘と84歳の宮沢喜一の首相経験者両氏に自主的引退を突きつける。宮沢氏はそれに従ったものの、中曽根は断固拒否「これは政治的テロだ」として憤慨抗議する。しかし平成15年10月25日、中曽根は引退を表明する。ニッポンのために全ての人生を捧げてきた一人の男、政治家を目指してきたあの熱い志しは今も衰えてはいない。だが、これだけは確実に云える。中曽根康弘の名は日本の歴史にしっかりと刻まれる、と。(この下りのヨイショはNABETUNE関与の草案みえみえ)
N=通産大臣当時からイランとイラクは産油国として重視し随分と経済協力をしてきたが、サダム・フセインとの会見はその延長線上にあった。今も私が一声かければ要人たちにはいつでも会えるほど信頼されている。しかし、アメリカが彼らをテロと名指しした以上、日本はテロ撲滅のために立ち上がるべきだ。今は一時的に評判を落とすだろうが、将来は「やってよかった」と思うときが必ず来る。(逆だろう)
国会議員73歳定年制は全く寝耳に水のことだった。突然引退を迫られて、ハイそうですか、というわけにはいかない。なぜ前もって云ってくれなかったのか?それで私は憤慨したわけです。若いからといって働けない者もいれば、年寄りだからといって惚けていない者だっているんだ。むしろ年寄りのほうが経験も積んで、頭は鋭敏じゃなかろうか。(そうとも言い切れないな) 小泉くんには敬老精神がないね。(それは云える、からきし無い) 彼には抵抗したけど、やっぱり政治家には私のようなおっかない人がいないと引き締まりませんからね。(別の意味であんたは恐いんだよ。国を破壊しておいて建設していると勘違いするような思い込みがね)
現存の教育基本法には国を愛するとかの公の概念が抜けている。権利はあるけど夢や責任が無い。憲法も見直して21世紀ニッポンを改革する大事業を断行するときに来ている。労働組合が衰退した今は二大政党など成り立たない。私は小泉君などより国を愛する気持ちはある。そのために命をかけている。
F=中曽根さんの清い生き方には敬服します。(どこが清いの???) これからも日本のために頑張ってください。
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