波瀾万丈04新春SP 中曽根康弘…全告白、その2
昭和35年、新安保条約締結。反対闘争により岸内閣解散、中曽根は当時親交のあった読売新聞社の渡辺恒雄氏(現・読売新聞グループ本社社長)から「首相になりたかったら大臣になるな」と忠告を受ける。中曽根はその言葉に従い、以後7年間大臣はもとより当役員の役職を全て辞退することになる。そして昭和41年11月、第2次佐藤内閣において運輸大臣に就任。成田闘争で中曽根は建設推進の陣頭指揮をとり、昭和45年、第三次佐藤内閣で防衛長官に就任する。同じこの年、三島由紀夫割腹事件が起きている。昭和46年、自民党総務会長、翌47年、沖縄が返還される。昭和47年7月、第一次田中内閣発足。中曽根は通産大臣と科学技術庁長官を兼任。昭和49年、自民党幹事長となる。昭和51年、自民党総務会長に就任。
N=渡辺恒雄氏が「大臣になるな」と云った意味は、配下の者を大臣などの役職につけて派閥をつくるための準備をしておけ、ということなんです。中曽根ネットーワークをつくるための7年間だった。
沖縄返還の時は佐藤さんから羽織袴で招かれ「きみが反対していたのでは党が割れる。ここは協力してもらえないか?」と頼まれた。私はそれを承諾して沖縄返還が実現したんです。そうして運輸大臣に指名されたんですが、周囲は「中曽根は大臣にならないと言っていたのに変節した。中曽根は風見鶏だ」と揶揄し、それから風見鶏が定着してしまった。
F=風見鶏と云われるのは不愉快だったでしょう?ヨイショ
N=嫌だったですね。でも佐藤さんは「風見鶏は東西南北を睨んでいる」と云って慰めてくれた。成田空港反対闘争のときは内部にも反対する者がいて大変だった。しかし、日本に国際空港がないというのは恥ずかしいことでしたから、どうしてもやる必要があった。
また、三島君には事件の起こる前に講演してもらったことがあり、一緒に酒を飲んだりした。彼のこの時の言葉は速記されていて、あとで読み返して彼の決意の程を知った。しかし、三島君は東部方面総監を縛り上げた時点で自衛隊員の反感をかった。それで私は全軍に「これは民主主義に反する行為であり、即刻阻止すべきである」と訓示したんです。そのときに陸軍首脳部が、彼は義軍であるとか、尊王軍であるとか、躊躇したわけです。ここは防衛長官の権限で統括する必要があった。それで即座に判断して阻止行動を宣言した。
ゲスト(野際)=あのとき中曽根さんが防衛長官だったなんて、いつも凄いところにいらっしゃるんですねえ。ヨイショ
F=同い年の田中角栄さんが首相になった時はどういうお気持ちでしたか?
N=あの時は私と大平さんと三木さんとで約束したんですよ。この3人が応援したから田中さんが勝ったんです。それには日中国交回復という条件があった。福田さんは岸派で、台湾寄りでしたからね。角さんは人情をわきまえた実務派で、私はそれを吸収しようとしていました。だが、理念とか政策論争については私のほうが進んでいたと思います。(やっぱり出てくる自画自賛)
F=進んでいたはずです。さ、あとに残すは内閣総理大臣だけです。ヨイショ
(つづく)
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