
数珠を握りしめたまま死んでいた犠牲者がいる。人間は最期の時に何を祈るのだろうか?愛する家族を失った遺族が大地に身を崩し、その遺体に寄り添う者の悲嘆を、同じ人間として共有するとき・・・武器を携えて戦場に赴く我らが自衛隊を、これら悲嘆する同胞の元に向かわせることは出来ないのか。人殺しの道具より、瓦礫に埋もれた瀕死の人々を救い出す道具、スコップをツルハシを・・・武器を捨てて急遽イランに向かえ!と自衛隊に大号令をかけるほどの指導者であったなら・・・私はそんな国のためなら命を捨てても惜しくはないと思うのだ。今日も世界の何処かで人類の悲嘆が大地にこだましているのが聴こえませんか?その声を無視できるほどに生きていたいとは思わない。生きるとは、何だろう?
イラン地震、死者2万人超の可能性 援助物資到着遅れる
イラン南東部ケルマン州のバムで26日未明に起きた地震の被害について、ロイター通信は、死者2万人を超えそうだと報じた。AFP通信によると、負傷者は5万人にのぼる。世界遺産の候補地である城塞(じょうさい)跡はほぼ壊滅状態になった。人々は氷点下に冷え込んだ夜を徹して肉親を捜しているが、国際社会の救助隊や援助物資の到着は遅れているようだ。
イラン内務省によると、バム市内の家屋の7割が倒壊した。死者数について同省は現時点では確認できないとしているが、ケルマン州政府筋は2万人以上との見方をAFP通信に示した。
市内の主要な病院も崩壊したため、軍の輸送機4機が州都ケルマンに負傷者をピストン輸送している。州政府によると、27日未明までに約4000人を運んだが、多くの負傷者は手当てを受けられずに残されていると見られる。水道、電気などは寸断され、水、食糧などの必需品も不足している。
軍やイラン赤新月社による生存者の捜索作業は日没とともに中断した。しかし、家族を捜す人々は、ヤシの葉で作ったたいまつに火をともし、スコップや素手でがれきを取り除き続けた。
住む家を失った住民は路上でたきぎを燃やして寒さをしのいでいる。被災者はAFP通信に「なぜ、助けにくるのがこんなに遅いんだ」と救援の遅れに不満をぶつけた。
ハタミ大統領は26日夜、国営テレビで「最初の48時間が非常に重要だ。人材と機材が必要だ」と述べ、国際社会に支援を訴えた。周辺の空港は使用可能といい、「援助物資がイラン国内に届けば、迅速に被災者に手渡せるよう最善を尽くす」と強調した。
しかし、国外からの救助隊や物資は地震発生から24時間たっても、到着したとの情報はない。イランへの民間航空機の玄関口は、国際空港があるテヘランだが、ロンドンなど国際ハブ空港との間の便は1日数便程度しかない。さらにテヘランからバムへは約1000キロの距離がある。
イラン政府は、バムから約200キロのケルマン空港を国際救助隊の受け入れに開放する方針を決めた。これを受け、スイスやイタリアなど少なくとも5カ国の救助隊は同空港へ臨時便で向かい、早ければ27日午前(日本時間同午後)の到着を目指す。イタリアは軍用機1機で捜索犬を含む救助隊を派遣し、スイスは、捜索犬やがれきに埋まった人々を探知する機器を送ることにしている。
バムの有名な観光名所である城塞跡「アルゲ・バム」はほぼ全壊した。カリミ州知事は「歴史的な地区は完全に倒壊した」と語り、シャフィイ・バム市長は国営テレビに「バムはゼロから建て直さなくてはならない」と嘆いた。
イランは地震多発国だが、今回の被害は、78年9月に北東部で起きた地震による死者2万5000人、90年6月に北西部で発生した地震の死者3万5000人に次ぐ惨事になるとみられる。
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<バム> ナツメヤシやレモンの栽培が盛んで、「砂漠のエメラルド」とも呼ばれる。人口約18万人。かつてはシルクロードとインドへの交易路の交差する交通の要衝として栄えた。町の起源は紀元前との説もあるが、ササン朝ペルシャ(224〜651年)時代とするのが有力。
市中心部の北東にある観光名所の「アルゲ・バム」は、南北400メートル、東西300メートルほどの城壁に囲まれた城塞(じょうさい)跡で、国連教育科学文化機関(UNESCO)に世界遺産の指定が申請されている。
城壁は外壁と二重の内壁の三重構造で、日干しれんがを土で塗り固めてある。サファビー朝(1501〜1736年)時代に現在の姿になったとされる。最盛期には5000人が住んでいたが、1722年のアフガン軍による包囲で放棄され、現在は廃虚となっている。
【関連サイト】城塞都市 砂漠の廃虚に光再び(バム=イラン)
イランの遺跡(その1)〜バム・シラーズ・ペルセポリス〜
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